ベルギーの密かな愉しみ

しばらくの間 お休みします。

チョークを食べるときれいな声に?  赤ずきんの奥深き世界へ 

 チョークを食べたことありますか?

おおかみの話、まだ続いています。「子どもの領分」3回目です。前の記事はこちら↓

cenecio.hatenablog.com

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『おおかみと七ひきのこやぎ』作: グリム 絵: フェリクス・ホフマン 訳: 瀬田 貞二 出版社: 福音館書店 発行日: 1967年4月1日

 

「 チョークを食べたことありますか?」という挑発的な質問で始めましたが、『おおかみと七ひきのこやぎ』の中に出てくるでしょう。おおかみがチョークを食べるところ。

 このお話の挿絵は多くの人が描いていますが、私はなんといってもフェリクス・ホフマン(1911-1975)の大ファン。なので絵も楽しみながら行きましょう。

どうです?

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おかあさんが美ヤギでおしゃれでしょう。7匹の子どもがいるシングルマザーにはとても見えません。お父さんはどうしたんでしょうね。壁に写真が掛かっていましたが。

おかあさんは今から森へお出かけです。

ところでおかあさんは二足歩行なのに子どもたちは四つ足なんです。まあ、これはまだ小さいからかもしれません。

さて問題のチョークの場面です。おおかみは留守番をしているこやぎを狙うのです。そのためにはおかあさんやぎのようなきれいな声にならなくては…。

それでチョークを買いにお店に行きます。

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店のご主人がまじめな顔して、普通に売ってくれるところも可笑しいですね。

おおかみはたくさんのチョークを食べ、きれいな優しい声になりました。このあと足に白い粉も塗り、こやぎたちをまんまと騙すのでした。

お話全文、チェックしたい人用→グリム童話 KHM5 オオカミと七匹の子ヤギ

 

このチョーク(ドイツ語:Kreide)の話はいったいどこから来たのでしょうか。

調べてみると、ご親切にもこちらのサイトに詳しい説明がありました。

国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築している、調べ物のためのデータベース」というめちゃくちゃ長い名前。詳しくはサイトのほうで。

グリムと同時代にハーネマンが打ち立てた医療法「ホメオパシー」には、炭酸カルシウム、または硫酸カルシウムが 喉の薬である との記述もある。

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000057757

 

チョークを食べてみた

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www.zeit.de

こちらドイツのZEIT紙のコーナー(記事内にビデオあり)で記者がチョークを食べて、本当に声がきれいになるか実証しようとしました。

そうこなくちゃ!世界中の人が読んでいるグリム童話です。み~んな長いこと疑問に思っていたはずなんです。ドイツ人が率先してやらなくてどうします?

というわけで女性がチョークを食べて、ちゃんと飲み込み、そのあと声を出してみました。

効能はあったのか?

全然変わっていないようでした。男の人は隣でにこにこ笑っているだけでやりません。もっとも二人とも初めから全然信じていないようでした(笑)。

チョークといえば今は ダストレスチョーク/日本理化学工業株式会社という、帆立貝殻を配合したものもあるそうです。ずいぶんと変わったもんです。

またどうでもいいことなんですが、やぎさん家の椅子はうちのと同じタイプでした。

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我が家の椅子です。

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オランダに帰ってきたおおかみ

数年前からオランダでは野生のおおかみの目撃情報が相次いでいます。ポーランドにはわずかながらも生息しているので、ドイツ経由でやってきたのではないかと言われています。

市街地の歩道をルンルン歩いている映像をはじめて見た時はとても驚きました。でもオランダ人は歓迎しています。というのも絶滅させたのは人間だという負い目があるからですね。

http://wolvenindrenthe.nl/wp-content/uploads/2015/07/Route-Drentse-Wolf.jpg

 De wolf in Drenthe - Wolven in Drenthe

 またデンマークでも 、19世紀初頭に絶滅したオオカミが2世紀ぶりに発見 されたという報道がありました。(AFP=時事 5/5(金) 

 

赤ずきんの奥深き世界

ディズニーに感謝です。なぜならディズニーの「赤ずきん」アニメがヒットしなかったおかげで、イメージの固定化を防ぐことができたからです。

赤ずきんには二つのバージョンがあること、みなさんもご存知だと思いますが、より古いペロー童話の方は赤ずきんはおおかみに食べられてしまっておしまい。若い娘さん、よくよく気を付けなさいよ、という教訓です。19世紀にグリム兄弟が私たちが馴染んでいる話に手直ししました。つまりおおかみに食べられてしまった赤ずきんは、おばあさん共々猟師によって助け出される…。

ええ、ここまではいいですよ。だけどそのあとおおかみの腹のなかに石をつめるってどう?おおかみは喉が渇いて井戸へ行き、水を飲もうとしますが中に落ちて死んでしまいます。私は子ども心に「おおかみがかわいそう」と思ったものです。石を詰めて縫い合わせるところ、そのさし絵が残酷で嫌いでした。

 

挿絵

最近の若い人たちが描くイラストだと、赤ずきんとおおかみは仲良し。おおかみはおしゃれな紳士に、または現代風のイケメンにえがかれていたりします。それも楽しいですが、今日は一風変わったものを紹介します。

みなさん、ヴィンタートゥール(Winterthur)というスイスの町、ご存知ですか。昔、そこのスイス人の友人宅にしばらく置いてもらったことがあります。

ヴィンタートゥールのアーティストで世界的にも高い評価を受けていた、ワーリャ・ラヴァター(Warja Lavater 1913-2007)。彼女の童話シリーズから「赤ずきん」を見てみましょう。

 

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COLLECTION DES CONTES DE WARJA LAVATER | WWW.MAEGHT.COM

可愛い女の子や怖ろしいおおかみなんて出てこない。すべてが記号化され、色とりどりの丸や四角が並んでいるだけです。しかも蛇腹状になっていて床に広げて読むこともできます。子どもたちはそうやってわいわい楽しむそうです。

黄色の〇はおかあさん、赤は赤ずきん、青はおばあさん…と来ればは何かわかりますね。

また驚いたことに彼女は日本の話も作っています。下の写真左から

かぐやひめ」「うらしま」「たなばた」

 

http://www.maeght.com/editions/document/article/en010_gf.jpg   http://www.maeght.com/editions/document/article/en027_gf.jpg  http://www.maeght.com/editions/document/article/en029_gf.jpg

( 写真はすべて上の、出版社サイトから) 

http://2.bp.blogspot.com/--3spQPmIQI0/VKMI4PCFqkI/AAAAAAAAlXg/4bwtBV-dzKc/s1600/m390q34057300f_art_113_4.jpgワーリャ。写真:Fluntern erzählt

 

黄ずきん、緑ずきん、白ずきんの登場

1972年に発表された「黄ずきん」( Little Yellow Riding Hoodでは、黄ずきんちゃんはこのような都会に住んでいます。

http://www.corraini.com/uploads/photogallery/img/03-capp-giallo-ita-72.jpg

http://www.corraini.com/uploads/photogallery/tmb/02-capp-giallo-ing-72.jpg

おばあちゃんのお家にお使いにいくのですが、車がビュンビュン走る大通りを渡らねばなりません。

https://i.pinimg.com/736x/0a/da/39/0ada3954865a69bf0a1ab1c709c629de--leo-lionni-bruno-munari.jpgCorraini Edizioni

そこへおおかみがやってきて…。どうなるでしょうか。

 

緑ずきんちゃんの絵はこんな風。

おばあちゃんがウケますね。

http://1.bp.blogspot.com/__9lJdMlnSW4/TBaSf4otvDI/AAAAAAAAB3c/YS9FV_nvw1g/s400/little-green-riding-hood-1.jpg

http://1.bp.blogspot.com/__9lJdMlnSW4/TBaShFPcIRI/AAAAAAAAB3k/_UrSHBb3ABY/s400/little-green-riding-hood-2.jpg

http://3.bp.blogspot.com/__9lJdMlnSW4/TBaSickhqlI/AAAAAAAAB3s/EllQtP-1Im0/s400/little-green-riding-hood-3.jpg

atelier pour enfants: "Little Green Riding Hood"

イタリアのアーティスト、ブルーノ・ムナーリ(Bruno Munari, 1907 - 1998)の作品です。この人は多才過ぎてここに紹介するのは難しい。興味のあるかた→

ブルーノ・ムナーリ - Wikipedia

MunArt - The most complete web site dedicated to Bruno Munari

 

ドイツ人の赤ずきん愛 どこまで深いのか 

http://www.zeit.de/1984/52/rotkaeppchen-auf-amtsdeutsch

最後におもしろいテキストを紹介します。その名も「お役人言葉の赤ずきん」というもの。ドイツ人の有名な作家がリライトしたもので、ほかにも「化学者の赤ずきん」などのバージョンがあるそうです。皆が知っているストーリーのままですが、言葉のおもしろさを楽しみます。

(訳、間違っているところはお許しを)・・・普通でない頭部の被り物のため、住民からは慣習で 赤頭巾と呼ばれている、未就学女児が、祖母宅へ、祖母の病気の回復を目的とした 食べ物 および 嗜好品の運搬を 母親から命ぜられた。しかし出発前 林の中で道からの逸脱を禁止されていたにも関わらず、これを無視し、処罰対象となる花摘みを行った。

その際 住所不定 無職の狼に出会った。狼は職務僭称(せんしょう)を行い、運搬目的のかごの内容物を点検し…(続く)

だいたいこんなノリです。ドイツ人の赤ずきん愛、感じていただけましたか。

 

前回記事にたくさんのコメントをありがとうございました。

お話の最後の段落を写します。

とうとう はじめの でんでんむしは きが つきました。

「かなしみは だれでも もって いるのだ。わたしばかりでは ないのだ。わたしは わたしの かなしみを こらえて いかなきゃならない」

そして、このでんでんむしは もう、なげくのを やめたのであります。

私はこのお話を「旅立ち」だと受け止めました。自分のことばかり考えて嘆いていたでんでんむしは、ほかの皆もそうだとわかることで、内から外へ目が開かれます。個別のかなしみは違うでしょうが、皆がかなしみを抱いて生きているという普遍の中に、自分のかなしみを相対化したのです。さらに他のでんでんむしとのつながりを認識し、でんでんむし族の宿命にも思いをいたすことで、考え方に厚みと深さが増しました。でんでんむしは「嘆くのをやめ」、自分のかなしみを引き受け、顔を上げて前に歩み出する決意をしたのです。

わたしは わたしの かなしみを こらえて いかなきゃならない」の「こらえて」という言葉が突き刺さります。この深さが自分にはまだ理解できていないのでは、とも思います。

マミーさんがお釈迦様の話を引いてくださいました。

また、いつも仏教について教えてくださるタマニチェンコさまなら、独自の解釈もあるかもしれません。機会があったら聞かせてください。

美智子さまの講演のなかに

複雑さに耐えて生きていかなければならない

というくだりがありますが、これも大変重いことばです。さきの戦争や戦後の在り方に関係があると私は思っていますが、先日の「83歳お誕生日のお言葉」の中でも核廃絶ノーベル平和賞をもらったICAN)や軍縮などについて具体的に述べておられ、メッセージ性が高く、私たちはしかと受け止めなければ、と思いました。

 今日は終わりです。

わたしは いままで うっかりしていたけれど…『でんでんむしのかなしみ』新美南吉と美智子さま 

前回↓の続きです。

cenecio.hatenablog.com

マミーさんご紹介の本のなかに、新美南吉の『ごんぎつね』『手ぶくろを買いに』などが紹介されていました。懐かしいですね。

今では小学国語教科書で皆に知られている新美(1913- 1943年)の幼年童話です。29歳という若さで結核のため亡くなってしまい、したがって作品も50編とさほど多くはないのですが、「子どもにはこどもの非常に厳粛な生活がある」と言い、童話のなかに自身の哲学を存分に込めています。

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http://www.nankichi.gr.jp/Nankichi/syogai.html

 

でんでんむしの かなしみ

きつねの話3作はどれも好きですが、『でんでんむしのかなしみ』は今でも何度も思い出しては考えをめぐらす作品です。

このお話を教えてくださったのは美智子さまです。おそらく皆さんの中にも美智子さまがおこなった講演を通して知った方、いらっしゃるのではないでしょうか。あの国際児童図書評議会での基調講演「子供時代の読書の思い出」(*)です。

まず『でんでんむしの かなしみ』はこんな内容です。

 

一匹のでんでんむしが ある日大変なことに気がつきます。

「わたしは いままで うっかりしていたけれど、わたしの せなかの からの なかには かなしみが いっぱい つまって いるではないか」

友だちのでんでんむしのところへ行き、「わたしは もう生きていられません」

自分はなんという不幸せ者かと嘆くのです。しかし返ってくることばはみな同じものでした。

「あなたばかりじゃ ありません。わたしの せなかにも かなしみはいっぱいです」

そこではじめのでんでんむしは気がつきます。

「かなしみは だれでも もっているのだ。・・・わたしは わたしの かなしみを こらえていかなきゃならない」

そして このでんでんむしが嘆くのを止めたところで終わっています。

 

http://www.toxel.com/wp-content/uploads/2014/06/snails01.jpg

美智子さまとかなしみ

美智子さまの講演「子供時代の読書の思い出」は、珠玉のエッセイとも呼べる、後世に語り継がれるべきすばらしいものです。お人柄と教養もさることながら、文章が卓抜で、聞き手をぐいぐい引き込んでいく力強さがあります。

『でんでんむしのかなしみ』について一部引用します。

(略)…4歳から7歳くらいまでの間であったと思います。その頃,私はまだ大きな悲しみというものを知りませんでした。だからでしょう。最後になげくのをやめた,と知った時,簡単にああよかった,と思いました。それだけのことで,特にこのことにつき,じっと思いをめぐらせたということでもなかったのです。
しかし,この話は,その後何度となく,思いがけない時に私の記憶に甦って来ました。殻一杯になる程の悲しみということと,ある日突然そのことに気付き,もう生きていけないと思ったでんでん虫の不安とが,私の記憶に刻みこまれていたのでしょう。少し大きくなると,はじめて聞いた時のように,「ああよかった」だけでは済まされなくなりました。生きていくということは,楽なことではないのだという,何とはない不安を感じることもありました。それでも,私は,この話が決して嫌いではありませんでした。

また子供時代の読書とは何か、について語るところを一部引用します。(太字は私)

それはある時には私に根っこを与え,ある時にはをくれました。この根っこと翼は,私が外に,内に,橋をかけ,自分の世界を少しずつ広げて育っていくときに,大きな助けとなってくれました。

読書は私に,悲しみや喜びにつき,思い巡らす機会を与えてくれました。本の中には,さまざまな悲しみが描かれており,私が,自分以外の人がどれほどに深くものを感じ,どれだけ多く傷ついているかを気づかされたのは,本を読むことによってでした。

自分とは比較にならぬ多くの苦しみ,悲しみを経ている子供達の存在を思いますと,私は,自分の恵まれ,保護されていた子供時代に,なお悲しみはあったということを控えるべきかもしれません。しかしどのような生にも悲しみはあり,一人一人の子供の涙には,それなりの重さがあります。私が,自分の小さな悲しみの中で,本の中に喜びを見出せたことは恩恵でした。本の中で人生の悲しみを知ることは,自分の人生に幾ばくかの厚みを加え,他者への思いを深めますが,本の中で,過去現在の作家の創作の源となった喜びに触れることは,読む者に生きる喜びを与え,失意の時に生きようとする希望を取り戻させ,再び飛翔する翼をととのえさせます。

悲しみの多いこの世を子供が生き続けるためには,悲しみに耐える心が養われると共に,喜びを敏感に感じとる心,又,喜びに向かって伸びようとする心が養われることが大切だと思います。

そして最後にもう一つ,本への感謝をこめてつけ加えます。読書は,人生の全てが,決して単純でないことを教えてくれました。私たちは,複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても。国と国との関係においても。 

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大切なキーワードが光る

「根っこ」は私たちが日本人として伝統や風土に結びつき、大切に守らなければならないものを今一度考えされられるし、「翼」「橋をかける」は偏狭で排外的にならぬよう、自分と異なった世界や考え方をも理解しようとする努力、開かれた柔らかい精神を言っているのではないかと思います。子どものうちから本を読むことでそうした翼を育むことができる。「壁を作る」発想の正反対ですね。

「どのような生にも悲しみはあり,一人一人の子供の涙には,それなりの重さ…」この部分は驚きました。新美南吉の人生観をよく表しているからです。

みんなが自分のかなしみを背負って生きている。すいぶんと醒めた人生観を年少の子どもに押し付けるのか、という意見もあるでしょうが、かなしみは他の負の感情、たとえば嫉妬や憎悪などと違って共存できる感情だと思います。かなしみやさびしさが自分の殻の中にあるからこそ、他の人のことも理解できる。少なくとも想像してみることはできます。「自分の人生に幾ばくかの厚みを加え,他者への思いを深めます…」とおっしゃっています。かなしみは「痛みを知る」ことでもあると思います。

そして「悲しみの多いこの世を」生きるには「喜びを敏感に感じ取る心」が大切であり、それは日々の生活からだけでなく、また読書を通して培っていくことができる。豊かな読書環境について大人や社会の果たす役割を痛感させられるくだりです。

最後のほうの

「人生の全てが,決して単純でない」

「複雑さに耐えて生きていかなければならない」

「人と人との関係においても。国と国との関係においても。」

2017年の今このくだりを読むと、大変メッセージ性に富んでいるなと思います。

http://www.toxel.com/wp-content/uploads/2014/06/snails02.jpgClose Up Photos of Snails

宮内庁のサイトに全文がありますから、どうぞじっくり味わってくださいね。

*第26回IBBYニューデリー大会基調講演 - 宮内庁

橋をかける (文春文庫)

橋をかける (文春文庫)

 

今日はコメント欄開いていますので、「殻のなかのかなしみ」についてご意見お待ちしております。

 

🌸前回コメントより

jerichさま、>「子どもの領分」好きです!

まあ、そんな優しいことを言ってくれてホントありがとう!

sapic さま、あのオオカミのビール、絶対お気に召しますよ。保証します。

yonnbabaさま、>お天気もグレーだけど、実社会も憂鬱のグレー

同感ですよ。今回ばかりは恥を世界中に知らしめた感があります。海外報道を読むと暗澹たる気分になりますね😢

mamichansan さま、いつもたくさんの本をありがとう!あの翻訳は出来がいいんですよ。ネットで読んで申し訳ない感じですけど。

SPYBOYさま、「くまちゃん好き」ですものね。>犬にのってパディントンが疾走< 

絶対見に行かなくちゃ!

anneneville

私も書きたい事いっぱいwこの狼ビールの壁絵をブリュッセルの町中で見ましたよ!写真とったはず。パディントン大好きですが大人になって読みはまりました。狼ってわたしも憧れます。旭川動物園でごろ寝してましたw

anneさま、ハイタッチしたい気分です💛

みなさま、いつもありがとうございます。

 

 *カタツムリの写真について

Vyacheslav Mishchenko - Photographer, Artist

このおとぎ話のような写真の数々を撮影したのは、ウクライナ人のヴァチェスラフ・ミシチェンコ氏。

「夢と現実の間にあるような美しくミステリアスな世界。一見、他の惑星に住むエイリアンのようにも思える」と表現する。

一連の写真で、アメリカのルーシー財団が主催する国際写真賞の2014年度「発見」部門の最優秀賞を受賞した。(COURRIER Japon 2015 5月号より)

 

続き

cenecio.hatenablog.com

踊るパディントン とオオカミ讃歌  追記:田中琢治氏エッセイ

松岡享子さん こんにちは、

がんばれヘンリーくんをやくしてばかりいないで

いそいで くまのパディントンをやくしてください。

おもしろくておもしろくてやめられません。

はやくあと7さつとも やくしてください。

松岡享子さん はやくはやく やくしてください。

はやくあと7さつ みんなよみたいから はやくしてください。

さようなら

(差出人: 二年三組 田中たく治 )

福音館書店|あのねメール通信

みなさん くまのパディントン、ご存じですよね。

今日は、8歳の小さな読者さんが、翻訳者の松岡さんに宛てて書いた手紙から始めてみました。

ああ、書きたいことがいっぱい!何から書こう?まあまあ、落ち着け、私。なんでそんなに落ち着きがないかというところから説明したほうがよいでしょう。

先日、マミーさんがたくさん絵本を紹介してくれて久々に興奮し、めくるめく絵本の楽しい世界に連れてゆかれた、ということがまずありますね。(この話は後半で)

mamichansan.hatenablog.com またちょっと前にannenevilleさまが、国連記念日「世界メンタルヘルス・デー」について書いてらして、

堀ったはいいけど、蕪・大根どうしよう。。。(''ω'') メンタルヘルスデーと選挙始まる - anneneville’s diary

ああ、そういう日もあったよねと思い、ヨーロッパのメディアを覗いたらイギリスでもフランスでもベルギーでもみ~んな同じような写真を載せていて笑いました。こちらです。

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Royals op zondag: Is dat Meghan Markle die vermomd als beertje Paddington met Kate Middelton danst? | VRT NWS

世界メンタルヘルスデーのイベントに出席した、キャサリン妃や二人の王子のニュースなんですが、右の写真はロンドンのパディントン駅のプラットフォーム。ここでもイベントが行われ、王室のメンバーはこれをサプライズ訪問しました。日本ではありえないですね。(イギリスっていいなあ!)

くまのパディントンが登場しキャサリン妃に話しかけ(どうやらおもしろいジョークを言ったらしい)、駅のプラットフォームで二人でダンスを踊るのです。

左はツイッター主のジョークなんでしょうか、つまりヘンリー王子の横にいるパディントンは、実は婚約者のメーガン・マークル(Meghan Markle)の変装ではないかととぼけています。まだ結婚まえですからね。

人気のパディントン、映画二作目は来年公開です。

paddington-movie.jp

そんなこんなで『くまのパディントン』を思い出し、パディントンファンのあの少年の手紙を思い出したわけです。松岡さんに

「こんなに言いたいことがきちんと伝わる手紙ってない。まさにこれこそ達意の文章」

と言わせた手紙。あの少年どうしたか、みなさん知りたいでしょう。

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くまのパディントン』  (世界傑作童話シリーズ) 
マイケル・ボンド (著), ペギー・フォートナム (イラスト), 松岡 享子 (翻訳) 福音館書店 (1967/10/1)

 

田中琢治くんは1962年大阪生まれ。7歳のクリスマスに両親からもらった『くまのパディントン』に夢中になりました。なかなか次作が出ないのであの手紙を書くと、松岡さんも感激して二人の文通が始まりました。それは大人になっても続き、松岡さんは田中さんを訪ねます。それはカナダへの旅でした。

田中さんは京都大学農芸化学科を卒業(農学博士)、民間企業や京大での助手を経てカナダに移住します。そしてカナダの大学で教育・研究に携わっており、専門はペプチドに関連する酵素の研究だそうです。4児のパパでもあります。

田中さんはパディントンの8巻目がなかなか出ないのにしびれを切らし、自分で翻訳し、ワープロ打ちで製本し、私家版を作ってしまいました。それを訪ねてきた松岡さんに贈ったのです。

大人になってもずうっとパディントンのファンだった田中さん。ここまででもすばらしい話なのですが、松岡さんと出版社福音館は、8巻目から田中さんも翻訳者として迎え入れるのです。8巻目は上の写真右パディントン 街へ行く』です。

 

著者マイケル・ボンド

今年の6月に亡くなり、日本でも各紙が報じました。

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'Paddington Bear' Author Michael Bond Dead at 91 - Rolling Stone

1926年イギリスのニューベリーに生まれ、第二次大戦中は英空軍に入隊、その後陸軍に移って中東へ行きました。1947年、BBCでTVカメラマンとして働き始めます。余暇として書いていたラジオの脚本や短編が採用され、世界数か国で放送されました。

1958年に『くまのパディントン』を発表。1967年からカメラマンの仕事を辞めて作家業に専念しました。『くまのパディントン』は20ヶ国以上で読まれ、愛され続けています。

 

オオカミ賛歌

マミーさんが紹介してくれた本は少しずつ読むつもりですが、「ベルギー」と聞いたら一番に読む本はこれしかない(笑)。

『えほんからとびだしたオオカミ』(岩崎書店

それいけ、図書館へ。エイトマンみたいに足が見えないほどの速さで飛んでいったと思ったでしょう?いいえ、違います。ネットで読んでしまいました。

絵本の挿絵画家のマビール(Grégoire Mabire)氏自身が自分のサイトに載せていたんですね。すみませんね、感謝します。

紹介はマミーさんが書いてらっしゃるのでそちらを読んでくださいね。

夜中に人形やおもちゃが動いたりおはなししたりする話はよくあります。これは本のなかのオオカミが、床に落ちた本のページから出てきて、なんとか戻ろうとするがうまくいかないという話。太った猫に追われながらあの本、この本と潜り込んでみるが、追い出されてしまう。

このドタバタをユーモラスにスピード感たっぷりに描きます。そして饒舌で人間臭いオオカミのセリフに笑わされているうち、どんどんオオカミのことが好きになってしまうわけ。

最後は森で赤ずきんと出会うんですが、この辺は漫画のコマ割りっぽく、どんどん盛り上げていくあたり、うまいなあと思います。二人のやり取りにお腹を抱えて笑うでしょう。(全部お話できないのが残念)

 

赤ずきんといえば、ロアルド・ ダールの毒のある赤ずきんを思い出します。

『へそまがり昔ばなし』 (ロアルド・ダールコレクション 12) 
ロアルド ダール (著), クェンティン ブレイク (イラスト)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/3/39/Revolting_Rhymes.jpghttps://www.roalddahlfans.com/wp-content/uploads/2015/12/auc4.jpg

ダールの赤ずきんはオオカミに向かって、あんた、いい毛皮着ているじゃないの、と言い放ち、ピストルで撃ち殺したあとその毛皮でコートを作って着るんです。何ともぶっ飛んだストーリーですが、イギリスの子どもはダールのこの種の話が大好きなんだそうです。(話はうろ覚えなので厳密には違う所があるかもしれません)

 つい先週も、オオカミについての興味深い記事を読んだばかりでした。

www.bbc.com

https://ichef-1.bbci.co.uk/news/624/cpsprodpb/11296/production/_98349207_gettyimages-157719815.jpg

愛情たっぷりの子育てをし、強いきずなで結ばれる非常に社会的な動物だそうです。

 

最後に私の好きな「オオカミ」という名のベルギービールを紹介します。

過去記事にも書いたのですが、ルプルス、別名「アルデンヌの狼」。

 

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レ・トワ・フォルケ( Les 3 Fourquets) 醸造所の比較的新しい銘柄で、美味しさのあまりすぐ2杯目も注文してしまいました。ランチなのにね。

機会がありましたらぜひお試しあれ!

まだまだ書きたいことがありますが、今日はいったん終わりです。

 

 🌸追記:新刊『パディントンのラストダンス』の訳者、田中琢治さんのエッセイ

福音館書店|あのねメール通信

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 続き

cenecio.hatenablog.com

ノーベル賞受賞者の「国」って?& 31歳の首相が誕生するかも…ほか

みなさま、こんばんは。

今日は戦争関連を離れて、ちょっと気になった話題などを。

ノーベル賞受賞者の「国籍」

カズオ・イシグロ氏はイギリス人で正しいと思いますが、ノーベル文学賞発表のあと、「日本人が受賞…」とか「国籍はイギリスなのだからそれは間違いだ」と喧々諤々あって、ああ、また以前もあった騒ぎだなと思い出しました。

アメリカ国籍の南部陽一郎氏(1921‐ 2015年)のことです。2008年のノーベル物理学賞を、日本の益川、小林両氏とともに受賞しました。ノーベル賞委員会は出生地で分類し、リストNobel Laureates and Country of Birthを作っているので南部氏は

Japan (25)

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「日本」のところに入っています。イシグロ氏も川端康成大江健三郎両氏に続く受賞者としてリストに登場します。

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中国は China (11) とあり、11人いたんですね。こうして各国を見てみると新鮮な驚きがあります。

ついでに私の好きなエリアス・カネッティ( 1905 - 1994年)を一応調べてみたらやはりブルガリアでした。ブルガリアとほとんど繋がりのない人ですが。

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 スペインから移住してきた裕福なユダヤ人の両親のもとブルガリアに生まれ、8歳の時ウィーンへ移住。その後1939年にナチスユダヤ人迫害を逃れてイギリスに亡命。スイスで亡くなります。

母語はラディーノ語(古いスペイン語の一種)で、英語・フランス語・ドイツ語どれも堪能ですが、著述はドイツ語で行いました。

イシグロ氏のことはいずれまた何か書きたいと思っています。

 

31歳の首相が誕生するかも、そして極右政党と連立政権?

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http://derstandard.at/2000066072015/Das-war-die-Wahl-OeVP-klar-vor-SPOe-Gruene-vorerst

オーストリアの下院選挙(10月15日)の速報です。今朝のBSニュースはこの人一色でした。国民党中道右派)のセバスティアン・クルツ党首(1986年生まれ)。

国民党は第一党になる見込みですが半数には届かないので、連立を組むことになる。それは自由党(極右)の可能性が高いそうです。そしてクルツ氏はこの若さで首相になることに。

http://referentiel.nouvelobs.com/file/16267772-autriche-les-conservateurs-de-sebastian-kurz-remportent-les-legislatives.jpg

写真:(Matthias Schrader/AP/SIPA)

Autriche : les conservateurs de Sebastian Kurz remportent les législatives - L'Obs

やはり移民・難民問題が争点でした。オーストリアはこれまでの寛容な政策の転換をはかり、移民受け入れを厳格化する。極右と連立ならEU内で亀裂を生みそう・・・。春にブリューゲル展で見た「バベルの塔」がちらと頭の片隅に浮かびました。

 

こんな若いリーダーの党を選ぶ背景に、オーストリア選挙権年齢が16歳ということも関係があるのでは、とBSニュースで言っていました。2007年に導入したそうだからもう10年になります。18歳から16歳に下げた理由は投票率の低下だったそうです。

そして学校では14歳から政治教育の時間を設け、若者の政治への関心を高めようと、全力で取り組んできました。教育現場ですから政治的中立を守りながら、選挙・投票の基本知識に始まり、討論、模擬投票といった実例を通して学び、また政治家を招いて話を聞くこともあるそうです。

投票率と政治への関心を高める・・・教育はつくづく大切だなと感じます。日本も学べるところがたくさんあるはずです。

今私の心配は、投票日の天気が悪そうなこと。また投票率が下がる😢

 

難民・刑務所・ホテル

この3語を並べて見ると、あまり明るい話題ではないなと思われるでしょう。違いますよ。

これはオランダ・アムステルダムにある高層刑務所群が舞台ですが、ここに難民を収容するというのではなく、ここをホテルに建て替えて難民たちに運営してもらっている、という話です。

www.booking.com

f:id:cenecio:20171016161316p:plain

ブッキング・ドットコムのサイトと地図です。ホテル内のきれいな写真が40枚くらいあって楽しめます。

刑務所は受刑者が減ってガラガラなんですって。そこでリフォームして住宅にしようと市は考えたのですが、その前に仕事の見つからない難民たちにここで働いてもらったらいいんじゃないかというすばらしいアイディアを思いついたのですね。

難民たちはホテル業の専門家から指導を受け、16室あるこの「ムーブメント・ホテル」(The Movement Hotel)の共同運営に乗り出しました。たいてい予約でいっぱいだそうです。

 

そういえば、罪を犯さないでも泊まれる元刑務所のホテルは日本にもありましたよね。前に新聞で読んだような…。

調べてみたら全施設の完成は2020年でしたが、こちらです、1908年(明治41年)に完成した奈良監獄。国の重要文化財です。

f:id:cenecio:20171016164937p:plain

写真集 美しい刑務所 明治の名煉瓦建築 奈良少年刑務所 2016/11/7
寮 美千子 (編集), 上條 道夫 (写真)

戦後は少年刑務所となり、2017年3月まで使われていました。

なんとも美しい建物ですね。「明治政府によって建設された5大監獄として、ほぼ当時のまま現存する唯一の刑務所」ということです。

https://www.traicy.com/wp-content/uploads/2017/05/nara.jpg

 

写真:奈良少年刑務所、ホテル・ドミトリーに 2020年度にオープンへ - トラベルメディア「Traicy(トライシー)」

そして広大な敷地!

ホテルだけでなく、レストランや史料館(日本の行刑・矯正の歴史を伝える)、商業施設やコミュニティセンターなどが入るそうです。

https://www.traicy.com/wp-content/uploads/2017/05/nara1.jpg

https://www.traicy.com/wp-content/uploads/2017/05/nara2.jpg

写真:奈良少年刑務所、ホテル・ドミトリーに 2020年度にオープンへ - トラベルメディア「Traicy(トライシー)」

〈気になった話題は ここまで〉

 

🌸前回のコメントから

STARFLEETさま、

仮想戦記ではたまにネタになっていた親戚筋を知るにはいいエントリだな。

s-eagleさま、

先ごろ亡くなった佐藤大輔御大の「RSBC」で駆逐艦艦長として出てたなあ。史実とはかなり境遇を改変してたけど。ドキュメンタリー映画とかで見てみたい生涯ではある。

佐藤大輔氏の「RSBC」なんて全く知りませんでした。早速調べました。

ウィリアム・パトリック・ヒトラーは、海軍中佐で駆逐艦ベッドフォード艦長

ですね。おもしろいです。

 

moodyzfcdさま、 

ヒトラーの叔父と親戚筋、と称する男性http://web.archive.org/web/20160718033543/http://www.asahi.com/articles/ASJ7G658CJ7GUHBI03P.html http:///www.dailymail.co.uk/news/article-3312204/Man-claims-related-Adolf-Hitler-person-alive-Nazi-leader-s-surname-says-wish-nobody.html 

 おもしろく読みました。ついでに調べてみたらドイツ語の新聞でも扱っていました。あのヒトラーとは関係がないようですね。

ウィキペディアによると、Hitlerは

・暗渠を意味するHiedlに由来するヒードラー(Hiedler)姓から派生したと考えられている。

・古い説の中には、Hütte(小屋)あるいはhüten(守衛)に由来する「小屋に住む人」を意味するヒューエトラー(Hüttler)姓ないしヒュトラー(Huettler)姓からの派生とするものもある。

姓はちょっといじって変えることもよくあるようです。

みなさま、いつもいろいろなことを教えてくださり、ありがとうございます。

今日は終わります。

アメリカ海軍の衛生兵だったヒトラーの甥 改名はしたけれど…-6-

だいぶ日があいてしまいましたが、核シェルターと防空壕 &ヒトラーはイギリス贔屓(びいき)か -5- - の続きです。

ヒトラーのイギリス贔屓は、母親の違う兄とその息子である甥がイギリスにいたことも関係あるのか否か? →・・・ないでしょう。

前々回載せた図をもう一度見てみます。ヒトラーの兄アロイス・Jrはイギリスでアイルランド人のブリジットと結婚。男児ウィリーが生まれますが、のちに母子を捨てドイツに移住し、ドイツ人と結婚(重婚罪!)して家庭を構えてしまいます。アロイスがドイツを旅行中に第一次大戦が勃発したため、イギリスへの渡航が禁止されたという経緯はあるものの無責任極まりない。

ドイツにはハインリヒという息子がいましたが、1942年ソ連で戦死(捕虜となり拷問死?)しました。

http://i.dailymail.co.uk/i/pix/2014/09/20/article-2763514-218622BE00000578-308_634x710.jpg

http://www.dailymail.co.uk/news/article-2763514/Found-The-REAL-Hitler-diaries-astonishingly-reveal-Fuhrers-British-born-nephew-William-Hitler-went-Berlin-cash-connections-end-fighting-Nazis.html

ウィリー(ウィリアム・パトリック・"ウィリー"・ヒトラー:William Patrick "Willy" Hitler、1911‐1987)は母親の手で育てられ、1929年彼が18歳になったとき初めてドイツの父の元を訪ねます。

1933年にも再訪。この時の目的は総統閣下である叔父から何らかの恩恵を受けて、儲かる仕事にありつけるのではと期待したようです。実は母国イギリスでは名前「ヒトラー」が災いして職につけず、貧しい暮らしをしていました。

ところが叔父のアドルフは、銀行の事務やオペル社の工場での仕事くらいしか斡旋してくれない。これに不満のウィリーはなんと叔父を脅迫するのです。ヒトラー一家の恥となる話を新聞社に売りつけると言って。(ヒトラーの父方にユダヤ系の血筋…という巷に広まっていた噂ですが、現在この説は否定されているようです)

ウィリーは図に乗ってヒトラーの山荘ベルヒテスガーデンまで押しかけることもありました。また1938年にはLook誌に「私はなぜ叔父が嫌いか」という記事を寄稿しました。↓

f:id:cenecio:20171012120708p:plain

http://nationalpost.com/news/world/strange-tale-of-hitlers-nephew-resurfaces-as-canadian-sells-1939-why-i-hate-my-uncle-article

1939年になると母と共に渡米して講演会ツアーまでやります。これはアメリカの出版会の重鎮ウィリアム・ランドルフ・ハースト( 1863 - 1951年、映画『市民ケーン』のモデルと言われている)に誘われたからです。

https://www.warhistoryonline.com/wp-content/uploads/2016/07/william-patrick-hitler-aviso.jpg講演会のチラシ

・・・とまあこんなわけですから、ヒトラーの親英感情は親戚とはなんの関係もない。逆にヒトラーは甥をひどく嫌っていたそうです。

ここまできたらウィリーのその後の人生も気になりますね。

 

アメリカ海軍に入隊し、戦場へ

滞米中のその年に第二次大戦が勃発。ウィリーはルーズベルト大統領に手紙を書き、米軍への入隊を懇願します。FBIも彼の身元を調べあげ、問題なしということで1944年海軍に入隊。衛生兵 (combat medic)として勤務します。

志願兵事務所を訪れた際の、繰り返し語られるエピソードがあります。

ウィリーが自己紹介をすると、担当官はヒトラーという名前をジョークだと思ってこう返したということです。

"Glad to see you Hitler. My name's Hess."(お会いできて光栄です、ヒトラーさん。私はヘスです)

https://www.warhistoryonline.com/wp-content/uploads/2016/07/Patrick-Hitler.jpg

f:id:cenecio:20171012124815p:plain 

1947年除隊。戦闘中の負傷により「名誉戦傷章」を受章したそうです。このあとウィリーは改名します。ヒトラーという姓を捨て、その後スチュアート=ヒューストン(Stuart-Houston)として生きていく。改名により、アメリカの「ヒトラー」はいったん表舞台から姿を消しました。

私は記憶をたどってみるのですが、学生時代ドイツ人の戦争体験者に聞いたことがあるのです。ヒトラーの親戚ってまだどこかにいるんでしょうか?

すると

ードイツやオーストリア、それからアメリカにもいるよ。でも名前を変えたって聞いたけどな。

ドイツ人はいろいろな情報源から何かしら知っているんだなと思ったものです。

ここでジャーナリストのイギリス人ガードナー(David Gardner)氏の登場です。1995年ころニューヨーク勤務だったガードナー氏は、「ヒトラーの甥」はどこにいるのだろうと疑問を持ちます。昔の新聞記事や電話帳を頼りに4年かかってついにファミリーの居場所をつきとめ、訪問しました。

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/814SR9A5DZL.jpgガードナー氏の本(2001年)

The Last of the Hitlers: The Story of Adolf Hitler's British Nephew and the Amazing Pact to Make Sure His Genes Die Out Hardcover – December 8, 2001  by David Gardner (Author)

ウィリーは14歳年下のドイツ人の女性と結婚し、四人の息子をもうけ、ニューヨークでひっそりと暮らしていました。姓はスチュアート=ヒューストンですからヒトラーとのつながりなんか全くわからないはずです。子どもたちもどこにでもいるごく普通のアメリカ人として育てられました。近所の人の証言もたくさんあります。

ウィリーは1987年に死去。三男ハワードは特別捜査官でしたが1989年、若くして事故死。こちら↓

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ガードナー氏が訪ねたときは未亡人フィリスと三人の息子たちが健在でした。三人ともも結婚しておらず、「子孫を残さないため」の取り決めがあったという話も…。

ガードナー氏が「50年間で初めての訪問者だった」のですが、その後ファミリーは事あるごとに「ヒトラー」の名前を持ち出す多くの訪問者のせいで、静かな生活は望めなくなりました。お気の毒なことです。放っておいてあげればいいのに。

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(写真:長男アレックス)

出典・参考・写真など:

William Hitler, Nephew of Adolf, Joined the US Navy to Fight The Nazis in WW2

The black sheep of the family? The rise and fall of Hitler's scouse nephew | The Independent 

Long Island - La famille Hitler. Des Américains ordinaires

 

79年前のウィリーの日記がひょっこり

それから10年以上もたった2014年のことです。ドイツ時代にウィリーが書きつけていたポケットサイズの手帳が突然見つかります。リフォームするため壊していた家の屋根裏から。ゴミと埃の堆積物の中から。

http://i.dailymail.co.uk/i/pix/2014/09/20/article-2763514-218622CD00000578-652_634x560.jpg http://i.dailymail.co.uk/i/pix/2014/09/20/article-2763514-218622C900000578-823_634x452.jpg

それはウィリーの母ブリジットが、亡くなる1969年まで住んでいた家でした。

表紙にはドイツ語で「国家社会主義者たちよ!」と書かれていました。中は全部英語らしいですが。興味のある方、下のデイリーメール紙の記事をお読みください。

何かのジョークか下手な小説を読んでいるみたいで、私は正直吹き出しました。

長男のアレックスも、なぜ父はこんなものを残していったのだろうと不思議がります。あんなにヒトラーとのリンクを消し去ろうと躍起だったはずなのに。

しかし私はちょっと疑問を感じています。たとえば長男アレックスですが、本当の名前は Alexander Adolf というのです。わざわざAdolf とつけるなんて。

さらに姓の方も気になります。"Stuart-Houston"?あれ、どこかで聞いたような…。

そうです、ヒューストン・ステュアート・チェンバレン(Houston Stewart Chamberlain 1855- 1927年)を連想してしまいます。人種的反ユダヤ主義の教祖様のような人で、著書は当時のヨーロッパで広く読まれ、ヒトラーにも多大な影響を与えました。ヴィルヘルム2世にも招待され、宮廷に泊まったこともあるという人です。ドイツ大好きでドイツ語に堪能でドイツに帰化しました。

兄はかの高名な日本研究家のバジル・ホール・チェンバレンで、東京帝国大学文学部で教鞭をとり、こちらも長く日本で暮らしました。評価は分かれるにせよ、俳句を最初に翻訳した人でもあります。

出典・参考・写真:

Found: The REAL Hitler diaries which astonishingly reveal how the Fuhrer's British-born nephew William Hitler went to Berlin to cash in on his connections - only to end up fighting the Nazis | Daily Mail Online

 

カズオ・イシグロ『日の名残り』信頼できない語りに身を任せて&イシグロin白熱教室・慶應大学

ノーベル文学賞2017

つい最近また『日の名残り』(1989年)を読んでしみじみ凄い作家だと思っていたので、ノーベル文学賞の発表を聞いたときは「よい人選をしてくれたな」と嬉しかったのですが、でもこんなに早く?と思ったのも本当です。まだお若いイシグロ氏。私と同世代です。

f:id:cenecio:20171007145130p:plain2010年9月、娘のナオミさんと。

Naomi Ishiguro and Kazuo Ishiguro, author of Never Let Me Go (Tom Sandler/Globe and Mail/TOM SANDLER FOR THE GLOBE AND MAIL) Vanity Fair party - The Globe and Mail

 

なぜ『日の名残り』を読んでいたかというと、私は『ダンケルク』を契機にずっと第二次大戦のことを書いています。前回ブログで、イギリスに対しては「ヒトラーの片思い」だったのでは、と書きました。

核シェルターと防空壕 &ヒトラーはイギリス贔屓(びいき)か - ベルギーの密かな愉しみ

フランスが降伏し、ヨーロッパ大陸を支配したヒトラーは、本音はイギリスとは戦いたくなく、連携または黙認を望んでいました。『日の名残り』の中には、このドイツの親英の逆バージョンともいうべき、イギリスの親ドイツの世情が描かれているからです。「歴史がこの屋根の下で作られるかもしれない」…ダーリントン卿に仕える執事にそう言わせるほど、ヒトラーが送りこんだ駐英大使リッベントロップはじめ、英国内外の要人が数多く登場します。英国内の対独協力者やファシスト連盟などの重要人物たちです。今回読み返して一つ一つチェックして、「あら、あなたもいたのね」などと楽しんでおりました。

しかし、急いで付け加えなければならない。この小説ではそうした史実は重要な要素ではない。これは有能な老執事スティーブンスが暇をもらい、車で英国の田舎を旅するのですが、そのかんにこれまでの数十年の人生を省察する話です。

 

あるべき執事像を追求し、「品格」について常に考えているスティーブンス。彼の語りで、そしてあくまで彼の記憶や印象、彼の視点を通して回想は進行します。

さあどうぞ、お付き合いしますよ、という気持ちで読者はゆったりと身を任せるようにして読み進みます。が、なんだかおかしいんです。記憶が曖昧なのか意図的にぼかしているのか、どうも話題を避けたいようだ…変だなと思い始めます。いぶかしく思っていると、内容もいつのまにか変わっていたり、言い訳を始めたり…で一貫しません。

信頼できない語り手」( unreliable narrator)なんですね。ははあ、なるほど…と、予備知識なく読み始めた読者は今度はそれらすべてを受け入れ、おもしろがりながら、自分なりに話を修正してまとめようと試みます。この過程がとても刺激的でおもしろいと個人的には思っています。最終的には事実を再構築できますから。時間が充分に取れる読書でしか味わえない醍醐味でしょう。

記憶とはそもそも信用できないものです。自分の記憶も人の記憶も。都合の悪いことは忘れたり書き換えたリしています。ゆがめたり誇張したりもします。自分(=私)のことを振り返ると、受け入れたくない過去は逃げるか捻じ曲げようとしていることが多いです。

執事スティーブンスの旅の目的には、ダーリントン卿の屋敷を去って結婚した女中頭ミス・ケントンに会うことも含まれています。

ティーブンスにはこの20年、いつも鮮明に思い出される一葉の写真のような光景がある。自分が廊下に立っていて、前にはミス・ケントンの閉じたドアがあり、ノックしたものかどうか決断しかねている。ドアの向こう側でミス・ケントンが泣いている。そのとき自分が抱いた名状しがたい感情の渦は、しっかりと脳裏に刻み込まれているのだが、前後の状況を自分で思い出せないでいる。(p303~。*1)

イシグロ氏は小説のなかで、記憶というツールの複層的な性質、流れる時間だけでなく、切り取られた光景などいろいろな使い方を見せてくれるマジシャンです。記憶は手段にも素材にもなって、見事な手さばきに読者はワクワクします。(イシグロ氏はよくプルーストの記憶の扱いについて語っています)。

NHKの「白熱教室(*2)」で、自分が過去を記憶するやり方は少し特殊なのではないかと言っていました。切り取られた絵のような写真がまずあって、その前後に記憶が広がる。それは映像にしたらはっきりしすぎるので、ぼんやりと曖昧なもの過去の感触のようなものを描くのに、小説は最適であると話していました。

 

執事スティーブンスはダーリントン卿を盲目的に慕い、崇め、屋敷の小さな世界だけで生きてきた、世間知らずの人間でした。旅の途上、村人と触れ合ったり、ミス・ケントンと再会することで少しずつ考えを変え、また深めていきます。自分を見つめなおし、「真実」(わかってはいたのだが、認めたくなかったこと)と向き合うとき、もはや「信頼できない」語り手ではなく、誠実な人間として立ち現れます。

ティーブンスは自分の人生を総括したあと号泣します。読者である私はミス・ケントンとの再会シーンでもう涙ぐんでいるのですが、ここにきてもうたまらなくなり、やはり号泣します。ああ、なんと今頃気づいた!ロマンスの話でもあったのに私は愚かだったな、という嘆きも含めて。

執事がなにかのメタファー(*3)だとしたら…なんと悲しい話だろう。そう思ってちょっとイシグロ氏を恨みたい気分になります。自分も執事だったと思うのです。

でもこれから読まれる方、ご安心ください。最後まで読めばわかります。最後はニッコリしていただけます。

こんなに心を揺さぶられるのに、声高なところは微塵もなく、静謐でユーモアも交えつつ淡々と語られる文章ー イシグロ氏ご自身のようで、そこも気にいっています。

ユーモアは執事の性格から醸し出されるのですが、小説の随所にたくさん織り込まれています。そのたびに読者はクスっと笑い、心の中でツッコミを入れながら読みすすめる。あとで思い出しても可笑しい。再読すると一度目では気づかなかったところが見つかり、著者の目くばせを感じ、うなづいてしまいます。イシグロさん、やはり只者ではないですね。

 

(註)

*1:『日の名残り』 (ハヤカワepi文庫)  – 2001/5/1
カズオ イシグロ (著), Kazuo Ishiguro (原著), 土屋 政雄 (翻訳)

*2: 再放送:2015年のNHKカズオ・イシグロ 文学白熱教室」明日夜再放送

【放送予定】10月8日(日)[Eテレ]後11:00

ノーベル文学賞の受賞が決定した、ベストセラー作家カズオ・イシグロ。自作をひもときながら、学生たちに文学の神髄を語った「白熱教室」を特別アンコール。

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【ノーベル文学賞受賞決定!】カズオ・イシグロ 文学白熱教室 再放送! カズオ・イシグロ 文学白熱教室 |NHK_PR|NHKオンライン

*3:大きなメタファー(比喩)については「白熱教室」で熱く語っています。ぜひこちらで。(youtubeでも見られます)

 

カズオ・イシグロ氏の講演会 (慶應大学

2015年6月カズオ・イシグロ氏は、10年ぶりに出版される長編小説 “The Buried Giant”(日本語訳:『忘れられた巨人』)のプロモーションのため来日しました。

NHKの「白熱教室」出演や出版社でのイベントなどのほか、慶応大学で講演(正確にはオープンインタビュー)がありました。なんと申し込みもいらず、無料だったので息子を誘って行きました。

大学の文学部創設125年記念行事の一環ということですが、英文学の教授たちと古くから親交があるようでした。河内恵子教授が聞き手となって、インタビューは英語で行われました。

Faculty of Letters 125th Anniversary Commemorative Event: “Kazuo Ishiguro Talks” 「カズオ・イシグロが語る」 - YouTube

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写真:ニュース:[慶應義塾]

2015年6月5日(金) 15時30分~17時 なので、息子は会社を早退しました。「イシグロさん、見にいってきます」と言って。

話したいことはたくさんありますが、私が最も興味を持ったのは、ケント大学で英文学や哲学を専攻した後、イースト・アングリア大学(University of East Anglia)で文芸創作のクラスを受講し、そこでメンター(mentor)ともいうべきアンジェラ・カーター (Angela Carter1940 - 1992)と知り合ったこと。創作の修業ともいえるようなすごいエピソードだらけなんです。またいつか、別の機会に。

http://www.angelacarter.hmg-g.com/img012.jpghttp://www.angelacarter.hmg-g.com/index.html

アンジェラ・カーターは日本に住んでいたことがあります。

 

おまけ

🌸英ガーディアン紙の記事を添付しておきます。

https://i.guim.co.uk/img/media/9f018efbbf52667d1a2511d85e18f9498c51734d/0_18_4740_2844/master/4740.jpg?w=620&q=55&auto=format&usm=12&fit=max&s=9216ee3e417db0ab5b3d312efb5b7675

www.theguardian.com

メモ:

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Kazuo Ishiguro, le Japon et le rôle de la mémoire | nippon.com - Infos Japon

核シェルターと防空壕 &ヒトラーはイギリス贔屓(びいき)か -5-

核シェルター

朝の情報番組で、家庭用の 核シェルターの注文が相次ぐという話題をやっていました。

下の写真はアメリカの会社の製品だそうで、壁に銃が飾ってあるのを見てもわかります(笑)。新築物件用や個人用など様々なタイプがあるようです。

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核シェルター、日本からの注文「勢い止まらない」:朝日新聞デジタル

6人用のがおよそ1100万円らしい。お金持ちしか生き残れない?

いえいえ扇動されてはなりません。危機をことさらに煽り、勇ましいことばかり言う大統領のもとで、笑いが止まらないのはアメリカの軍需企業でしょう。株価が急上昇です。

また、核シェルター先進国のスイスの例も紹介されていました。冷戦時代の1963年(キューバ危機後)に、「全国民に核シェルターを」というスローガンのもと、核攻撃に備えて公共の建物の地下に核シェルター設置を義務づける連邦法が制定されたということです。現在はもう義務というわけではありませんが、すでに国民の114%を収容できる設備が地下空間にあると言っていました。

スイス式の個人用シェルターを扱う会社が神戸にあるそうですね。

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Bunkers for all - SWI swissinfo.ch

 

ちょっと寄り道して防空壕も見てみましょう。子どものころ雑誌で見た写真で、お気に入りがあって、画像検索で探してみると簡単に出てきました。

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c. 1943A South London resident waters the vegetables planted on the roof of her Anderson shelter.IMAGE: FOX PHOTOS/GETTY IMAGES

How families lived in their WWII backyard bomb bunkers

これです、アンダーソン式シェルター!(アンダーソンは当時の内務大臣の名前)

場所は戦時下のロンドン。1940年9月から約8カ月、市街地にドイツ軍による大規模な空襲がありました。

この防空壕の仕組みは簡単、掘った穴に波形アーチ状トタン板を二つ向かい合わせに入れ、前後に板を立てて上に土を盛ります。かなり頑丈だったことが爆撃後の写真などで証明されています。

年収250ポンド以下の家庭には無償提供されたのですが、都市部は庭が少なく、道路も舗装されていたため、まず設置場所を探すのが大変だったそうです。

それにしてもロンドン市民は何かしら楽しみを見つけようとしていますね。

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1940 An elaborately decorated Anderson shelter. IMAGE: WATFORD/MIRRORPIX/CORBIS 

 

 

ヒトラーはイギリス贔屓だったか

先日「フランス人は平和主義ですか」というコメントにお答えしました。

今回はヒトラーのイギリスへの思いについて。といっても私がこれまでの読書などで得た印象が中心になるのであくまでも私の意見です。

ナチス時代を振りかえる-1-『我が闘争』がベストセラー・膝まづくヒトラー - ベルギーの密かな愉しみ

ヒトラーが守りたかったユダヤ人 ナチス時代を振りかえる-2- - ベルギーの密かな愉しみ

以前2回扱った『我が闘争』の中の分類では

  1.文化創造者(アーリア人種)

  2.文化支持者(その他の人種、日本人も)

  3.文化破壊者(ユダヤ人)

イギリス人は1番目に入り、人種的にドイツ人ゲルマン系と同じです。 

またイギリスは当時多くの植民地を持つ世界帝国であり、強国を目指すナチスヒトラーにとってひとまずモデルのような存在だったのではないかと思います。確かに第一次大戦以前は世界は「パックス・ブリタニカ」とまで言われ、イギリスを頂点にした秩序がありました。

ヒトラーは政権を握ると1933年からすさまじい早さで、屈辱だったヴェルサイユ体制の打破と、近隣諸国への勢力拡大にまい進します。

国際連盟脱退1933年

・ザールラント1934年

再軍備宣言1935年

イギリスはなぜ何も言わないんでしょうか。それどころか同じ年に英独海軍協定(イギリスの35%の海軍保有を認める)を結びます。

ラインラント進駐1936年:生涯最大の賭けだったとヒトラーが告白。イギリスからどんな阻止行動も受けなかったため、大陸制覇を承認したとヒトラーは早とちり。

1936年腹心のリッベントロップを新たに駐英大使としてイギリスに送るが、交渉は失敗に終わる。(1938年外相になったリッベントロップは、今度はイギリスを牽制するために日本・イタリアと同盟するようヒトラーに提言した)

・イタリアのエチオピア征服1936年

おまけにスペイン内戦勃発(1936年)ときた。

いったいイギリスはどうしたの?という感じです。実際は悲惨を極めた前大戦で疲弊しきっていたのですね。

オーストリア併合とズデーテンラント(チェコのドイツ人居住地区)併合1938年

このあとチェンバレン首相が出てきてミュンヘン協定が結ばれます。戦争の危機に怯えたヨーロッパじゅうの人々が胸をなでおろした瞬間でした。しかしナチスドイツはすぐにチェコへ進駐し、一国を地図上から消し去ります。

イギリスではこの辺から「三度の飯より戦争が好き」なチャーチルが登場です。

そのあとポーランド侵攻で世界大戦に発展してしまうわけですが、ヒトラーにとっては「ドイツとポーランド二国間の問題」なのに何故イギリスが宣戦するのか理解できなかったそうです。

その後の流れは前のブログでも扱ったとおり。大陸に派遣された英軍はダンケルクから撤退。フランスも占領され降伏したので、イギリスはもう孤立無援です。

そこでヒトラーはイギリスに対し、和平を提案します。イギリスと徹底的に交戦する気はなかったのです。しかしチャーチルはこれをはねつけ、国民も団結して戦う意思を見せるー このことはヒトラーを大変に驚かせます。イギリスは圧倒的に不利な状況なのにおかしいな、と。結局ヒトラーはイギリスに片思いしていたようなものです。イギリス国民の気持ちもまるで理解できませんでした。

 

ヒトラーにイギリスの親戚がいたことは関係あるでしょうか。たぶんそれはないと思います。詳しくは次回で。

図からわかるようにヒトラーには異母兄弟アロイスがいて、この人はイギリスで結婚し、男児Willyが生まれます。アロイスはのちに母子を捨ててドイツに移住し、結婚(重婚!)して家庭を構える困った人です。

http://i.dailymail.co.uk/i/pix/2014/09/20/article-2763514-218622BE00000578-308_634x710.jpg

http://www.dailymail.co.uk/news/article-2763514/Found-The-REAL-Hitler-diaries-astonishingly-reveal-Fuhrers-British-born-nephew-William-Hitler-went-Berlin-cash-connections-end-fighting-Nazis.html

ヒトラーの母クララは、実はヒトラーの父アロイスの姪に当たる。

上記の図は簡略化されていますが、本当の家系図はけっこう複雑です。

次回はWillyの話などを書きますね。

 

🌸みなさんのコメントでよく膝をたたくんですが、宮崎駿ラピュタ、ご指摘のとおりですね!

yokobentaro

 (略)それと終戦直後に乗り捨てられた車の森が、まるで宮崎駿のアニメに出てきそうな風景みたいで目を瞠りました!!! 

 bg4kids

 車の墓場、文明を自然が侵食する姿はラピュタのような幻想的な雰囲気がありますね。人類が滅びると、地球全体がこうなってしまうんだろうな。 

 

またこちらのss-vtさまは、菊月保存会の方と面識もあるそうで、大変興味深いです。お話を聞きたいくらいです。

ss-vt 

 菊月は第23駆逐隊所属。20番台は佐世保鎮守府籍を表しています/いくつかの艦これ同人誌即売会で菊月保存会の「20歳の青年」と顔を合わせ話もした 

みなさま、いつもありがとうございます。 

Uボート沈没理由は機雷 &駆逐艦「菊月」&シュールな車の墓場 -4-

みなさま、こんにちは。

言い訳から始まりますが、前回パソコンの調子が悪くて途中で諦めてUPしてしまいました。PC、買い替えるかな、どうしようかな…と思案中。今日も相棒DELLさまのご機嫌を伺いながらやっています。初めて読まれる方、前回(9月30日)の続きになっています。

 

Uボートの調査は続行中

第一次大戦Uボートが沈んでいる場所は、ダンケルクの近く、赤い印の沖です。でもフランダース政府は場所は絶対秘密にしたい。お宝ハンターや部品を盗んで売りさばく輩に荒らされたくないからです。

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これまでもイギリスやオランダの沈没船は数多く、こうした盗難と破壊の被害に遭ってきましたから。

f:id:cenecio:20171002131310p:plain

f:id:cenecio:20171002131351p:plain機雷

Duitse duikboot uit Eerste Wereldoorlog gevonden voor Belgische kust

Uボートの沈没の理由は機雷に当たったことらしい。写真は2枚ともオランダ語の歴史サイトから借りています。私は機雷を直に見た事がないのですが、みなさんはどうですか。あんなトゲトゲがついているんですね。

アメリカ軍が行った日本周辺の機雷封鎖作戦「飢餓作戦」については少し読んだことがあります。詳しくはウィキペディアで。 飢餓作戦 - Wikipedia

Uボートの件、続報が出たらまた書きますね。

 

駆逐艦「菊月」の砲身 舞鶴

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Getty Images

南太平洋のソロモン諸島のきれいな海に横たわる駆逐艦菊月

さすがGetty Images、美しい写真です。錆びて朽ちたところから植物が生え、水中はさだめし魚たちのお宿でしょう。戦争の虚しさをつくづく感じます。

去年も記事を書きました。

cenecio.hatenablog.com

この菊月を引き揚げて修復保存するべく、「菊月保存会」なるものが結成され、クラウドファンディングで資金調達を開始したのでした。そのときは引き揚げなんて無理でしょうと思っていましたが。

菊月は1926(大正15)年、大正時代最後の駆逐艦としてに舞鶴海軍工廠(こうしょう)で作られました。所属は佐世保鎮守府だそうで、舞鶴で進水しましたが、1942(昭和17)年米軍の攻撃を受け、南太平洋で沈没。座礁したまま放棄されます。

その後、錨やスクリューなど運びやすいものはほとんど盗まれてしまい、重く動かしにくいものしか残っていなかったそうです。

そこで保存会は長さ5・6メートル、重さ3トン主砲の砲身を引き揚げることにし、ソロモン諸島政府から許可をもらいます。

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https://trafficnews.jp/post/52235/

 そして9月5日、砲身は日本へ「帰国」を果たしました。

こういう活動をするのは年輩の方かと思っていたら、千葉県在住の20歳の青年であるらしく、祖父が特攻隊員だったそうです。2015年に現地訪問し、菊月の一部でもいいから故郷に帰し、保存して戦争を伝える資料にしてほしいと思ったということです。

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旧海軍駆逐艦の砲身、若者ら引き揚げ 京都・舞鶴で展示目指す : 京都新聞

 

 アルデンヌの森 シュールな車の墓場

「アルデンヌ」という言葉、私のブログにはもう何度も出てきましたね。フランス・ベルギー・ルクセンブルクにまたがる森林地帯です。

先ほどの残骸・廃墟つながりでいくと、私はアルデンヌと聞いて車の墓場をすぐに思い出します。それほどショッキングだったんです、初めて写真と映像を見たときは。

 

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The Belgian Forest Graveyard

この場所はシャティヨンという村の近くで、500台を超える自動車が200~300mくらいの列を作って打ち捨てられています。第二次大戦のときやって来た米兵の車ですが、戦後帰国の際、車の運送費は個人持ちと言われたので、やむなくこの森に車を隠していったのです。この辺はめったに人の来ないところで、最初に見つけたのは村の子どもたちだったといいます。

ところがベルギーのTV局が来てルポをして以来、ここを訪れる人が急増したために、事件や事故を懸念してか村長は撤去を決断します。2010年ころらしいです。

ですから車の墓場はもう存在しないのです。

しかし多くの人が写真を残してくれているおかげで、私たちはネット上で「墓場」見学ができます。自然の作り出す思いがけない効果が美しく、新鮮に驚いてしまいます。苔の緑(日本人ならみんな好き)や錆の茶系統のグラデーションが見事です。季節ごとに植物や蔓や落ち葉などが絵を描いたでしょう。現代アート作品のようです。車を正面からみると、悲し気な虚ろな顔をしていて、胸ふさがれる思いもします。

いかがでしたか。

シュールレアリスムの国ベルギーらしい光景といえるかもしれませんね。

 

次回はまた質問に答えます。

ヒトラーはイギリス贔屓だったか」。

人生80年、戦争はごめん‼ 第一次大戦のUボート、ベルギー沖で発見 -3-

人生80年と言われます。

その間に戦争などなく、ミサイルも飛んで来ず、飛行機からの落下物に当たることもなく、まあまあ健康で暮らせて、ある日自宅でポックリ逝く…っていうのが理想です。はて、どうなるでしょうか。昨今の情勢はかなり不安ですが。

「80年」の話から始めたわけは、前に「フランス人は平和主義者ですか」というコメントをいただいたので、ちょっと補足したいと思います。(私がフランス人の言ったことばを引用してそのように書いたもので)。

 

「平和主義」=「戦争はもうまっぴら」

フランス人の知り合いのお年寄りは皆口々に言います。「酷い時代だった。あいつらのせいさ」「戦争なんか、フランスもイギリスもしたくなかったんだよ。だけどまたボッシュ(ドイツ人の蔑称)がおっぱじめたもんだから」

あの「大戦争 (Great War)」と呼ばれた第一次大戦が、かつてない規模の悲惨なものだったから、戦争なんかもう絶対イヤという国民感情だったでしょう。

やっと1918年11月の第一次世界大戦休戦条約をもって戦争は終わり、ヨーロッパの人々は平和を享受していました。でもその平和も20年しか続かなかった。

「ま、平和ボケと言われてもしかたないけどね。フランスじゃあ軍備なんかまるで考えていなかったよ」「ポーランドと同盟を結んでいたから仕方なく宣戦布告」(事実上はポーランドを見殺しでしたが)。

 

それまでは英仏はドイツに対して宥和政策をとっていました。このことがヒトラーの自信を深めさせ、悲惨な戦争への道を切り開いてしまったと言われています。あとになっての非難や反省は簡単ですが、なんとか戦争は避けたい、多少の妥協はしてもよい、フランスが軍備増強などしたらかえってドイツを刺激するのではないか、経済的にも人口問題(*註)を考えても戦争は避けるべきだー そのように考えていたんですね。

アンドレ・モーロワ(André Maurois、1885- 1967)は数多くの評伝や『英国史』『フランス史』など歴史書を著して、かつてはよく読まれたフランス人作家・歴史家ですが、この人は英語に非常に堪能で、第一次大戦にはイギリス側との英語通訳官として出征しました。

第二次大戦でもドイツのフランス侵攻(1940年)のとき、やはり通訳官としてイギリス大陸派遣軍の本部(ベルギー)にいて、ドイツ軍の電撃戦と英仏軍の敗れるさまを目の当たりにしました。そして驚いたことに、ニュース速報的な早さでフランス軍崩壊の分析を一冊の本にまとめて出版します。ただしアメリカで、したがって英語で。(ユダヤ人だったのでアメリカに亡命。モーロワはペンネーム、本名はヘルツォークといった)。

こちらの本です。

"Tragedy in France"  Harper & Brothers: new York; 7th Edition. edition (1940)
するとその一か月後にはもう邦訳が出ます。

http://cache.cart-imgs.fc2.com/user_img/someya/0621b8a71a85d63fdc97acaff60b26fe.jpghttp://someya.cart.fc2.com/ca160/8004/p-r160-s/

 

『フランス敗れたり』 (高野弥一郎訳 大観堂。現在新しい版がある)

(ウェッジのサイトより引用)

昭和15年に刊行された邦訳は、3ヶ月後には実に200版と版を重ねる記録的な大ベストセラーになりました。

ドイツがわずか6週間でフランス全土を打倒し、全ヨーロッパはヒトラーの前にひれ伏しました。この出来事は当時の日本人に大きな衝撃を与え、日本は日独伊三国同盟の調印に踏み切り、太平洋戦争へと突入することになります。…フランス敗れたり アンドレ・モーロワ 著/高野彌一郎 訳 WEDGE Infinity(ウェッジ)

(太字は私)

 

チャーチルの警告

 チャーチルは1935年にはすでに「フランスの軍備強化が急務である」と警告していたそうです。

(モーロワに向かって)

ーいまやフランス空軍を追い越し、ドイツ空軍が世界一になろうとしている。フランスは滅亡するかもしれない。文化や文学も大切だが、強い軍事力を伴わない文化は明日にでも滅びる危険にさらされる。

ー君はもう男女の愛だの野心だのを書いてる場合じゃないだろう。空軍の増強を新聞で訴えるべきだ…云々。

同様にド・ゴールも「マジノ神話」(第一次大戦の英雄ペタン元帥の権威が残っていたため、マジノ要塞に過剰依存する防衛戦略だった)を危険だと批判し、戦車と航空機による機動戦略の必要性をとなえていました。多量の戦車生産を強く主張しましたが、受け入れられることはありませんでした。

 

80年の人生

ちょっとここで、1870年生まれのフランス人の人生を想像してみましょうか。なぜ1870年かといえば普仏戦争の起きた年だから。そして計算しやすいので。

80歳まで生きるとすると1950年に亡くなります。普仏戦争のあと戦争は、世界大戦が第一次、第二次とある。つまりその人の人生80年は母国が常にドイツと戦争状態なのです。フランス人がドイツのことをあしざまに言う気持ちもわかりますね。

でもその反省から今のEUがあるわけで、イギリスは抜けてしまいましたが、仏独はこれからも牽引役として協力して進んでいくでしょう。(先日のドイツの選挙結果で、不安が全くないわけでもありませんが)。

http://www.historyplace.com/worldwar2/defeat/attack-france-panzers.jpg

写真上下ともThe History Place - Defeat of Hitler: Attack on France

http://www.historyplace.com/worldwar2/defeat/attack-france-infantry.jpg

(1940年5月、ベルギー、アルデンヌの森をぬけて西へと進むドイツ軍。この森林地帯は古くから自然の要塞と言われていたから、私は今でも、あんな鬱蒼とした森をドイツ装甲部隊が切り拓いていった様子をなかなか想像ができない。)

 

*註:人口の問題

フランスはナポレオン時代以降、人口が急速に減っていきました。ナポレオン戦争が青年、壮年男子の命を奪っただけでなく、妊娠率の低下や子供に高い教育を受けさせるために子の数を少なくしようという傾向もあったようです。その後は離婚や妊娠中絶が増えることで出生率はますます下がります。

そして第一次大戦が始まった1914年を見てみると フランスの人口は約3900万人。

ドイツ約6500万、イギリス約4600万、と比べて明らかに少ない。(1914年日本は約5200万人だった)。そのことは兵士の数にはねかえってくるわけで、人命の損失を防ぐためにもあのマジノ要塞に頼らざるをえなかったのです。

〈人生80年、ここまで〉

 

 第一次大戦の沈没Uボート、ベルギー沖で発見

つい2週間前のニュースです。海洋考古学者でアマチュアダイバーでもある人が、オステンデの沖、水深25~30メートルのところで見つけました。

自分でカメラをまわし、スケッチをしたようですが、もっと調査を進めるには助手が必要だということです。Uボートは端のほうが一部破損しているが、そのほかは保存状態は極めて良好だそうです。

http://1.standaardcdn.be/Assets/Images_Upload/2017/09/19/duikboot2.jpg

・長さ27×幅6メートル。

・UB-27, UB-29, UB-32 このいずれか。

・乗組員23人は中にいる。

f:id:cenecio:20170930165757p:plain

これを読みたいと思ったのですが定期購読者限定でした。残念!

Duitse duikboot uit WO I gevonden in Noordzee, lichamen moge... - De Standaard

 

潜水艦の中って…悪夢です!

こちらのサイトへどうぞ。

mashable.com

 

続き

cenecio.hatenablog.com

 追記:

www.afpbb.com

映画『ダンケルク』父親が息子たちを家に連れ帰る物語-2- 追記:2018年2月20日 

(前回9月25日の記事の続き)

cenecio.hatenablog.com

 

『鳥』+『恐怖の報酬』?

ダンケルクの撤退作戦では、戦闘機や大小の船舶がそれぞれ100機、100隻をくだらない数集結していたはずです。それを映画にするってどうやるの?と私は素朴に思っていました。しかもCGなど一切使わないという。予算は低めだという。でも戦闘機は飛び、当時の本物の船も登場するという。さらに実際の撤退作戦が行われた5月27日から6月4日に合わせて、ダンケルクの海岸で撮影するというのです。そこまでこだわるのかと唖然としながら、情報を追っていました。まずいことにパリとベルギー(2016年3月)の連続テロもありました。

http://www.lepoint.fr/images/2017/07/19/9488455lpw-9548988-article-bodega-bay-jpg_4446647_980x426.jpg

http://www.lepoint.fr/images/2017/07/19/9488455lpw-9548988-article-bodega-bay-jpg_4446647_980x426.jpg

しかし制作チームは予定通りフランス入りし、ダンケルク(一部アムステルダムのアイセル湖で。これはもと海だったのをせき止めて湖にした。ムーンストーン号のシーンはここで撮った)で町の人々の協力を得ながら撮影に臨みました。

そしていち早く映画を見たフランス人の感想の中にこのようなものがありました。

ヒッチコックの『鳥』とクルーゾー『恐怖の報酬』を混ぜた感じ。」

おや、戦争映画じゃなくてどうやらサスペンス映画のようだ。そして私はノーラン監督の作品といえば"Memento (2000) "しか知らないのですが、これは三回見ました。そういえばMemento もサスペンスかな。(いずれ記事にするかも)

このあたりで映画がとっても楽しみになってきました。血の出る戦闘シーンが多い映画は苦手なので戦争映画はできればパスしたいと思っていたのです。戦争を扱いながらいわゆる戦争映画じゃないらしい。う~ん?

 

アイディアに脱帽

映画は三つの視点からこの作戦を描きます。

1. The Mole: One Week 防波堤:一週間

2. The sea: One Day 海:一日

3. The Air: One Hour 空:一時間

上の文言はスクリーン上に現れるものです。それぞれ一週間、一日、一時間と時間の長さが違うのがおもしろいです。

1の陸では40万人もの兵士たちが救出を待つ列を作っている。船に乗り込めてもドイツ空軍の爆撃に遭ったり、燃油まみれになって泳いだり、また陸に戻って乗れる船を探したり、と過酷なサバイバルが次々に淡々と描かれる。この一週間をまとまりごとに細かく分けてトランプの一枚一枚のカードを作ったと思ってください。

2の海では、小型船の船長ミスター・ドーソンを中心に展開します。前回述べたようにイギリス海軍は民間の船を徴用するのですが、彼はこれに応じて息子とその友人とダンケルクに向かいます(下に写真あり)。様々なエピソードがあり、それらも一枚ずつカードにします。

3の空は、戦闘機スピットファイア3機とパイロットの話です。撤退作戦を支援するべく、陸と海上の様子を見ながら、ドイツ側と交戦する。空中戦が迫力です。この空での出来事も細切れにしてカードを作ります。

映画全体はこれらのカードを、時系列は守りつつ、シャッフルしたような構成で差し出されます。それが独特のサスペンスを生み出します。観客は完全に戦場に連れていかれた気分です。ずぶ濡れで惨めな気持ちになったり、コックピットの中で頭がクラクラしたり、爆発音で耳を塞いだり…戦場の恐怖をたっぷりと体感させられるのです。敵のドイツ兵がほぼ出てこないのもおもしろいと思いました。敵は時間でしょうか。

とにかくサバイバルして国に帰る。若者を国に連れ帰る。この一点に集中です。国民が官民一丸となって成功させた史実を三つの視点からうまくまとめていると思いました。

心をひとつにして困難を克服する精神を「ダンケルク・スピリット」と呼ぶことは、今回初めて知りました。フランス人にとっては「負け戦」でも、イギリス人にとってダンケルクは栄光の地なのですね。

他にも音楽などいろいろありますが、SPYBOYさまがよいレビューを書いていらっしゃいますのでこちらでどうぞ。

『#お前が国難』と映画『ダンケルク』 - 特別な1日(Una Giornata Particolare)

 

父親が息子たちを家に連れ帰る物語

そう言ってもいいかもしれません。

ダンケルクの砂浜にたつ、この子どもみたいな顔をした若者、彼が主人公というわけではない。兵士たちの中心に置かれてはいるが、彼の内面や感情は一切描かれない。戦争に駆り出された大勢のなかの一兵士にすぎない。この映画は主役もいなければ、ヒーローも出てこないのです。

ノーラン監督はヒーロー映画を作る気はさらさらなかった。彼の祖父は英空軍で、フランス・リールで戦死したそうです。初めて史実をもとに映画を制作するにあたって葛藤も多かったことでしょう。

http://www.asahicom.jp/and_M/articles/images/AS20170710001026_comm.jpg

今この若者が考えていることは生き延びてイギリス(home)に帰ることだけ。

一人目の父親はさしずめチャーチル首相でしょうか。兵士たちに「戦え」ではなく「退却しろ」と言うのです。父チャーチルは、悪い結果になるかもしれないと悲観した時期もあったようですが、33万人あまりの兵士たちを撤退させることに成功します。

この「奇跡」をお膳立てした偶然のひとつに、それまでの快進撃をなぜか止めたドイツ軍であることも皮肉で興味深い史実です。(理由は一番下に)。

また忘れてならないのは撤退の援護に当たった兵士で命を落とした者は少なくないこと、またダンケルク近くのカレー(Calais)の港にいたイギリス・フランス兵はというと、ドイツ軍をひきつけておくために救出されませんでした。何とも非情です。

ともあれイギリスに渡った兵士たちはその後再びあちこちの戦場に送られていきました。なにせ戦争は始まったばかり。何年かあとノルマンディー上陸作戦をきっかけに、連合軍は勝利をおさめる…そのことを私たちは歴史で知っていますが、今ここにいる誰もそのことはわかりません。

https://i.guim.co.uk/img/media/e4bc2e9ca50992effb1c4f7d35a3a8b313550469/0_113_5977_3587/master/5977.jpg?w=620&q=55&auto=format&usm=12&fit=max&s=071587d031788bdb515fb8b8c15f7732

From the film ‘Dunkirk’, 2017. Photograph: Bros/Kobal/REX/Shutterstock

 

二人目の父親は

https://i2.wp.com/theperrynews.com/wp-content/uploads/2017/07/Dunkirk-Mr-Dawson.jpg?resize=696%2C325

Mr. Dawson (Mark Rylance). Courtesy of Warner Bros.

http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/004/936/18/N000/000/013/150536629377943479177_dunkirk-03.jpg

プレジャーボートムーンストーン」号の船長で自ら舵を取り、ドーバー海峡を渡ってダンケルクを目指すミスター・ドーソンでしょう。

この映画はセリフも極力少なく、登場人物の内面は見えませんが、ムーンストーン号のシーンには血の通った感じがあります。次第に謎が溶けていく、というか理解が深まっていくおもしろさがあります。この人がイギリスの父親を代表しているのだと思います。 書きたいことはいろいろあるけど、これから見る人のために書きません。とにかくカッコいい人物設定です。お楽しみに! 〈映画『ダンケルク』はここまで〉

 

再び周辺のことや資料など。

ダンケルク今昔

映画がきっかけとなり、多くのフランス人の関心を呼び覚ましました。

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À Dunkerque, sur la piste des épaves de l'opération Dynamo

⚓当時のダンケルク市民は…

やはり映画がきっかけで市民から当時の写真が多く集まったそうです。(1940年5月か6月)

http://o1.llb.be/image/thumb/59a42a63cd70d65d25a716b6.jpg

Dunkerque, mai-juin 40, côté civil - La Libre

ダンケルク博物館にて

https://kidsindunkerque.files.wordpress.com/2017/07/img_1865-1.jpeg?w=676

kids In Dunkerque | sorties et activités pour les enfants à Dunkerque et ses environs

 

⚓「ダンケルクの奇跡」をお膳立てしてしまったドイツ軍

せっかくあそこまで英仏軍を追い詰めたのになぜ?と思いますね。5月24日、ヒトラーは機甲部隊の前進停止命令を出します。私がかつて読んだりしたことをまとめると

1.ドイツ空軍の最高責任者ゲーリングが「空軍だけでダンケルクの英仏軍を全滅させる」と豪語したので、空軍に花をもたせてやろうとヒトラーが決断したという説。

2.「英軍に多少逃げられるかもしれないが、ドイツの戦車がフランドルの泥にはまりこむのは我慢できない」とヒトラーが言ったという説。(たしかにベルギー・オランダは低地ゆえにぬかるみだらけで、皆が木靴を履いているというステレオタイプな偏見は、驚いたことに今でも残っている)

3.ヒトラーはイギリスと徹底的に戦う気はなかった。本当の決戦相手はソ連だったから兵力温存しようとした説。

他にもありましたら教えていただけると嬉しいです。

追記:撤退最終日(6月4日)に、フランス兵27000人以上を救出しているらしい。ドイツのおかげ(*^^)v

 

ダンケルクからイギリス兵を救出する姉妹のお話

人生はシネマティック!』(”Their Finest” 2016年)

またイギリスはおもしろそうな映画を作っています。戦時中イギリス政府が国民の士気高揚のために作ったプロパガンダ映画製作の話だそうです。

http://eiga.k-img.com/images/movie/86687/photo/373a1b69ff8fea92.jpg?1504576949

人生はシネマティック! : 作品情報 - 映画.com

 

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BBC - Their Finest - BBC Films

clothesinbooks.blogspot.jp

 

🍺スピットファイアというビールもあります。飲んでみたいです。

https://i.pinimg.com/564x/b2/2b/cf/b22bcf606f03c98f0026f0be85e0f222.jpg

ロンドンの地下鉄に貼られていたというポスターだそうで。

 

 🌸参考:過去記事

「フランス人は平和主義か」→

人生80年、戦争はごめん‼ 第一次大戦のUボート、ベルギー沖で発見 -3- - ベルギーの密かな愉しみ

ヒトラーはイギリス贔屓か」→

核シェルターと防空壕 &ヒトラーはイギリス贔屓(びいき)か - ベルギーの密かな愉しみ

 

🌸追記:2018年2月18日 BAFTA(英国アカデミー賞

ダンケルクのオランダ人カメラマン、 Hoyte van Hoytemaも撮影部門でノミネートされた。写真で膝をついている人。

https://www.ad.nl/show/opvallend-veel-nederlanders-in-de-race-voor-een-bafta-vanavond~abde634b/

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受賞者発表

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