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お別れ トゥーツ(Toots Thielemans)と ベラ・チャスラフスカ(Věra Čáslavská)

ベルギー アート・文化全般 新聞・TV・ニュースまとめ 日本・日本語

トゥーツ・シールマンス Toots Thielemans(1922~ 2016 )

ベルギーのジャズマンが8月22日に亡くなった。人間国宝とも伝説とも言われ、世界中の人に愛され、オバマ大統領も弔意を表した、ジャズ・ハーモニカ奏者。94歳だった。先日、国葬級の葬儀がしめやかにとりおこなわれた。

2年前の2014年に引退したが、それまで70年以上も世界中を回って演奏活動を続け、日本にも何度か来日、日本のCMにも出たことがある。

2001年にアルベール2世から「男爵」の爵位を授与された。

 

どんな人って?

あのね、「セサミストリート」のハーモニカの曲をふいている人。たぶん誰でも一度は聞いたことがあるでしょう。また映画『真夜中のカウボーイ』のテーマも有名だと思う。


Classic Sesame Street Closing Theme (FULL/COMPLETE)

 

こちらの鳥肌もの "Bluesette" お薦めです。 


Toots Thielemans - Bluesette

本名はちょっと長くて 

Jean-Baptiste Frédéric IsidoreThielemansという。” Toots” というのはミュージシャンのToots Mondello(アルトサクソフォン1911-1992)やToots Camarata(トランペット奏者1913-2005)からとったらしい。ブリュッセルの下町マロール地区の生まれで、両親はカフェを営んでいた。小さいころから音楽や楽器に関心があり、3歳からアコーデオン。

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その後ギターやハーモニカも始める。戦時期にはジャズに夢中で、ジャンゴ・ラインハルトに憧れ、チャーリー・パーカーからも影響を受ける。

 

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1940年代は、ギターを弾きながらハーモニカを吹く、といったスタイル。トゥーツの最初の国際的な演奏は1950年にベニー・グッドマンのヨーロッパ・コンサート・ツアーに参加したときで、この後トゥーツはアメリカへ移住することとなり、本格的にジャズへの道を歩むようになる。

ジョン・レノンはビートルズとしてデビューする前の1959年、ドイツでトゥーツの演奏を見てそのスタイルに憧れたと言われる。トゥーツと同様に、ショート・スケール型のリッケンバッカー モデル#325とハーモニカを使うようになった。ビートルズデビュー後もしばらくはリッケンバッカーとハーモニカがジョン・レノンのトレードマークになっていた。(詳しくはウィキペディアをどうぞ)

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 70 jaar carrière van de grootste Belgische jazzmuzikant ooit

 

こちら吉岡正晴氏のブログ、お薦めです。

2011年トゥーツ・シールマンス来日時のすばらしいライブ評。そこからほんの一部、引用させていただいた。(吉岡さん、ありがとうございます)

(略)

「世界一小さな楽器を、世界一大きな心で奏で、世界一たくさんの感動を人々に与えるトゥーツ・シールマンス」

まさに90分の夢見心地とはこのこと。おそらくこの日のトリフォニー・ホールの中で、客席の誰よりも最長老であろうトゥーツは1922年4月29日生まれの89歳。トニー・ベネットの85歳よりさらに4つ上。大正11年生まれの戌年(イヌドシ)だ。前回より若干足がおぼつかなくなっているのか、ステージ中央まで支えられて歩み進んだ。

だが、ひとたびハーモニカを口元に手繰り寄せ、それを吹けば、世界中がとろける音になる。ドラムス、ベース、ピアノとの4人編成。毎回思うが、世界中の国の指導者がトゥーツのハーモニカを聴けば、絶対に戦争などなくなると思う。

>世界中の国の指導者がトゥーツのハーモニカを聴けば、絶対に戦争などなくなる

同感です。

 

ameblo.jp

吉岡さんは2001年、2003年、2006年にも評を書いておられるので、そちらもぜひ。

 

トゥーツの死を悼み、ブリュッセルのシンボル、小便小僧のジュリアン君がトゥーツのコスプレをしている。

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1980年モントルー・ジャズ・フェスティバルでギターを演奏するトゥーツ。

さようなら、トゥーツ。

Belgien trauert um Toots Thielemans, den Baron der Mundharmonika - Kultur - SRF

(トゥーツ記事 ここまでです)

 

 

1964年東京オリンピックとベラ・チャスラフスカ

リアルタイムで見ていた私の思い出のなかでも、ベラ・チャスラフスカという名前は、バレーボールの「東洋の魔女」、マラソンの「アベベ」と並んで、子供心には呪文のような美しい響きのことばだった。

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旧チェコスロバキア(この国名はカレル・チャペックで知っていた)の女子体操選手。もともと舞踊のバレーやフィギュアスケートをやっていたが、才能を見込まれ、体操競技の世界へ。たちまち各競技会ですばらしい成績をおさめ、五輪代表に選出。東京で金メダル3個に輝く。(五輪全部合わせると11個のメダルを獲得)。当時「東京の恋人」と呼ばれ、アイドルか銀幕スターのようなフィーバーぶりだった。

1942年プラハ生まれ、母国の政治的激動の中を生き抜き、苦難多き人生だったが、惜しくも先月8月30日になくなった。74歳。

 

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Zemřela Věra Čáslavská. Před OH vzpomínala na své osudové chvíle a jak ji komunisté vyměnili za uhlí | Reflex.cz

 

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 体操の写真や動画は普通にネットで見られるので、チェコのサイトからあまり見ない写真を拾ってきている。亡くなって10日なので追悼番組や記事が多い。日本でもNHKなどでスペシャル番組を、日本のチェコ大使館でも弔問記帳のおり、彼女のドキュメンタリ映画を放映(上映)した。

 

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(発音:大使館のHPにあるように「チャースラフスカー」と音を伸ばすのが正しい。Čáslavská aの上のアクセント記号は長音の印である。ついでに言うなら「ヴィェラ」が正しいことになるが、ここでは日本での慣用の表記にした。)

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Až do posledních sil. Čáslavská svedla boj s totalitou, soupeřkami i rodinnou tragédií — ČT24 — Česká televize

波瀾万丈

 東京オリンピックのときは22歳、メキシコ五輪は26歳。このころ陸上選手のヨゼフ・オドロジル(Josef Odložil、東京五輪で1500m走の銀メダリスト。1938 - 1993)と結婚した。

写真を見ると、若くて幸福そうでピカピカ輝いている二人。しかしこのあとの人生は壮絶だった。

実はベラ・チャスラフスカは、1968年のメキシコ五輪に出られるかも危ぶまれていたのだ。68年といえば、パリ五月革命や東大紛争など、若者・労働者の運動が目立った年。(そして円谷幸吉の自殺にもびっくりしたものだが)。そんな68年は「プラハの春」の年でもある。この年の初め、アレクサンデル・ドゥプチェクがチェコスロヴァキア共産党第一書記に就任して、改革(民主化)の機運が高まった。このプラハの春運動を象徴するものとして、「二千語宣言(Dva tisíce slov)」が市民の側から改革への支持表明として出された。起草者は作家のルドヴィーク・ヴァツリークで、6月に、四つの新聞に同時掲載された。エミール・ザトペックやベラ・チャスラフスカをはじめとし、3万人以上が署名をしている。

8月にはとうとう軍事介入に至ってしまう。ソ連率いるワルシャワ条約機構軍が侵攻してきて、チェコスロバキア全土を占領下に置いた。自由化の芽は無惨にも踏みつぶされてしまったのである。

チャスラフスカは一時身を隠し、不安のなかで黙々とオリンピックに向けて練習を続けた。オリンピック直前になってようやく出国許可が出た。チャスラフスカはこのとき、祖国であるチェコスロバキアの屈辱をはね返すために、最高の演技を誓い、競技に臨んだと後に語っている。五輪本番は、抗議の意を示すため濃紺のレオタードで競技を行った。(出典:ウィキペディア)

 

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Vera Caslavska - The International Gymnastics Hall of Fame

二千語宣言の署名を撤回せず、信念をあくまでも貫こうとする彼女への迫害は、1989年にチェコスロバキアが民主化するまで、20年続いたのだ。体操界を追放されたため、仕事がなく、掃除婦などをしてひっそり暮らし、二人の子供を育てた。多くの友人も離れていったが、夫までも去り、別の家庭を作った。

民主化後、名誉を回復して大統領顧問やチェコの五輪委員会会長にも就任し、さあこれからという時になって、とんでもない事件が起こる。息子が、夜の酒場でばったり会った父親(=元夫)と口論になり、押し倒して死なせてしまうのである。このショックから鬱病になり、入院して闘病生活に入ることに。

10年以上にわたる闘いの日々を乗り越えると、たびたび日本へも来た。2011年の震災被災地も訪れ、また岩手県の津波被災地の子供たちをプラハに招待してくれた。

ところがまたしても一難である。去年は膵臓がんの手術。今年は肝臓に癌が見つかって、余命が短いことを宣告されたという。

 

日本ファン

チェコ・日本友好協会 名誉会長を務めたり、歌「上を向いて歩こう」が好きだったり、と日本には特別な思い入れがあり、日本ファンを明言している。メルアドが「sakura1964@…」だとか、鬱病の薬の作用でむくんだ顔を日本の皆さんに見せたくないので取材を受けなかった、というような話を聞くと、目頭が熱くなる。

ほかにもこんなエピソードがある。

 

東京オリンピックに出場した際に、日本のファンが体操競技に詳しいことに驚き、また、滞在中に多くの日本人ファンから扇子、浴衣や日本刀などをプレゼントされたことに感激したことを語っている。それらの贈り物は2013年の時点でも自宅に保管していた。

このときの贈り物はトラック1台分にもなったと語っている。また、扇子や浴衣が社会主義国では見たことの無いような包装紙で包まれていて、これも長い間とっていたと語っている。(ウィキペディア)

 

お二人とも ご冥福をお祈りいたします 。

 

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「プラハの春」から10年後、初めてチェコへ旅行した。 (写真は朝の買い物風景。1978年)

プラハは沈鬱で影の多い町だった。そこでふた夏 を過ごし、思い出もいっぱいあるのだが、その話はいずれまた。

 

追記:9月12日、プラハの国民劇場で葬儀。

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http://www.ceskenoviny.cz/zpravy/sportovci-a-politici-se-v-narodnim-divadle-louci-s-caslavskou/1391508

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zpravy.aktualne.cz

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Na Hradě se rozezněly zvony za Věru Čáslavskou. Symbol úcty, řekl zvoník - iDNES.cz