ベルギーの密かな愉しみ

しばらくの間 お休みします。

美しい日本語・台湾少年工・青島要塞爆撃 日本語-2-

前回の続きです。 

1.日本語の勉強会

台湾には「台湾歌壇」や「台北俳句会」などがあり、活動は活発で、日本の新聞や雑誌にも投稿してくる。ご存じかたも多いのではないだろうか。

また「美しく正しい日本語を残したい」という願いから、1990年代初めから、日本語の勉強会が定期的に開かれているという。台湾の日本語世代を中心に、若い学生を取り込んだり、日本人を教師に呼んだりして、その名も「友愛会(グループ)」(会員130人、2003年当時)という。

仮に私がここに入りたいと思って見学に行っても、おそらくすごすごと帰ってくることになるだろう。レベルの高さが途方もないのである。これまですでに幾つかのレポートや寄稿を読んだことがあるが、今手元に朝日新聞の切り抜きがあるので、ちょっと古いが引いてみよう。(2003年9月25日付)

台北市内で開く月例会では

日本の作家のエッセーなどの朗読に始まり、漢字や成句の読みや意味を考える。

9月の月例会では「須臾(しゅゆ)」=わずかな時間、「晏如(あんじょ)」=安らかなさま、「一刻者(いっこくもの)」=頑固な人、「垂んとする(なんなんとする)」=もう少しでなろうとする

などの言葉を使って勉強が進んだ。

「『80に垂んとする』は使えますか」という質問は、会員に70歳代が多い集まりならではの笑いを誘っていた。

まずいぞ、どの言葉も知らない。意味がわかるものもあるが例文が作れない。人の作った例文が正しいかどうかの判断もできない。愕然とするしかない。

このときの定例会では、芥川賞作家・古山高麗雄氏の作品を朗読したらしい。

参加者は言う。

元大学教授(70歳):「会員の 多くは生まれた時は日本人で、その祖国に捨てられたと思っているけれど、なお祖国愛を持っている」

元貿易商(79歳):「日本語ほどいい言葉はない。きれいな言葉を日本の若者がぶち壊している」

陳会長(77歳):「これまでの蓄積を次の世代にバトンタッチしようと思っている」

友愛会の記事、ここまで。現在の活動もネットでたどれます) 

今日の写真

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Adagio: Winter Freeze  Adagio: Frozen 

今日の写真は豪華でしょう。cranberryさまに許可をいただいて載せています。美しさに一目ぼれして図々しくもお願いしました。どれもこれもよくて目移りして(笑)選ぶのに一苦労でした。全部で4枚お借りしました。カナダの厳しい寒さとクリスマス気分を味わってみましょう。

 

2.戦闘機を作る台湾少年工

前回紹介した本『台湾人生』では生の証言が大変おもしろかった。

二二八事件(1947年)の国民党の残虐ぶりは、侯 孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の映画『悲情城市』(1989年)などを通じて、概要は知っていたが、やはり辛酸をなめた当人が語るエピソードは衝撃だった。この事件では、日本統治下で高等教育を受けたエリート層の多くが、逮捕、拷問、殺害され、財産も没収された。研究機関での成果や資料なども国民党の手に渡ったと言われている。殺害・処刑された台湾人は約2万8千人にも上るという。

 私がもっとも興味を持ったのは、戦時中8千人以上も日本に送られた台湾少年工たちだ。インタビューでは 宋定國氏がつぶさに回想している。

このかたは台湾の同窓会組織台湾高座会」のメンバーである。高座というのは神奈川県旧高座郡(現在の大和市)のことで、当時海軍工廠があり、台湾から集められた少年たちが「雷電」の製造に携わっていた。日本側にも「高座日台の会」があり、現在でも交流を続けている。

台湾と交流続ける「高座日台の会」一行が駐日代表処訪問 - 台北駐日経済文化代表処

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最後一次同學會/二戰赴日童工 彰化70年後剩33人 - 生活 - 自由時報電子報

宋定國氏は2007年、大学生の息子さんを伴って、日本側の「高座日台交流の会」に出席するため来日し、恩師の墓参りもしたそうである。

台湾少年工は1942年、台湾総督府を通じて台湾全島で募集・選抜が行われた。13~20歳までの約8400人が集められ、日本に送られた。高座には寮が40棟用意され、1棟に200人が生活した。彼らにとってそこは「第二の故郷」だという。

高座海軍工廠には日本人も多数動員された。海軍士官、技術職員、女子挺身隊ら約2千人が少年らとともに働き、動員された学生の中には三島由紀夫古橋広之進(水泳選手)もいたという。このころ、B29による空襲が激しさを増していた。128機を送り出したところで敗戦となった。

台湾少年工たちはここだけでなく、人手の足りない各地へ送られた。たとえば中島飛行機小泉製作所、三菱の名古屋製作所、兵庫県川西航空機などである。

宋さん自身は高座から鈴鹿航空隊、横須賀の海軍航空技術廠へ、そして1945年には甲府にいて空襲を体験する。猛火の中、市民や市役所のトラックを避難させ、感謝されたエピソードを語っている。

2003年は台湾少年工たちの来日60周年にあたり、約600人の元少年工らが「里帰り」した。そして日本政府から工員養成所の卒業が確認できる者には卒業証明書、そのほかの人には在職証明書が授与された。

こちらは70周年大会のしおりだが、挿絵は元少年工の陳さんの手になるもので、大変貴重だと思う

5月9日『台湾高座会留日70周年歓迎大会』のご紹介 - 『日本と台湾を考える集い』 オフィシャル・サイト

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3.話し言葉は何弁?

台湾できっちり日本語教育(+皇民化教育)を受けた世代の、立派な書き言葉については前回述べたが、話し言葉はなかなか厄介な問題である。

統計で明らかになっていることだが、台湾に渡った日本人は西日本出身者が多く、とくに熊本や鹿児島といった九州地方が目立つという。したがって方言や特殊な語彙を生徒たちが真似るということが報告されている。そして現在でも、台湾の観光地で出会うお年寄りが九州地方の言い回しを交えるので、わかる人はほっこり微笑むのだという。 

台湾で使われた教科書の会話文例を見ると、このように標準語である。

母「芳ちゃん、一寸ここはいてちょうだい」

 「芳ちゃん、考へが足りないのねえ」

子「どうして」

母「風邪が向かふから吹いてくるでせう。風上から風下にはかないと、ほらほら人の方に向けてははくんぢやない、それが一番失礼になるのよ」

 『かれらの日本語』安田敏朗人文書院)p60第三学年話方科教案より

女言葉としつけ・作法がセットになっていておもしろい。

しかし実際は、教師側に標準アクセントなどの体系的な国語教育養成がなされておらず、現場まかせであった。山形県出身で女学校教諭だった男性は、「金色」を「チンイロ」と読んで生徒に指摘され、正しいと自認していた自己の発音に信を置けなくなったと回想している。(『かれらの日本語』p80)

また公学校の教員のひとりが詠んだ歌。

「わが使ふ 言葉の癖を そのままに おぼえし児童らを あはれに思ふ」(同)

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(cranberryさまより。両方とも)

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九州のことばと来れば、どうしてもこのエピソードを思い出してしまう。(「皇后を笑わせたロシア大公」木村浩著より)

日露関係の今後はどうなるのかわからないが、そんなロシアともかつて蜜月時代があった。明治20年代、帝政ロシアの軍艦は長崎港に頻繁に出入りしていて、長崎の稲佐村にはロシアの海軍病院まであった。遊女館もあり、日本人妻をめとり、平和な生活を営む者もいた、そんな時代のこと。

その中にニコライ1世の孫のアレクサンドル大公がいた。周囲に勧められて現地妻を迎えるのだが、この人は妻から日本語を習うことに専心する。

あるとき大公は、ロシア皇帝の名代として天皇両陛下にご挨拶申し上げるように、との命を受ける。明治20年7月、大公は二艘の軍艦を従え、横浜に到着。百一発の礼砲で迎えられた。そのあと謁見、宮中晩さん会へと進んだ。

大公は皇后の右隣に席を占める。思い切って日本語で話しかけた。日本語を使いたくてたまらないのだ。皇后は一瞬びっくりされたようだが、微笑んだふうにも見えたので、それに勇気づけられ、日本の発展についてとうとうと賛辞を述べた。

そのとき、皇后の咽喉から奇妙な音が洩れた。皇后は食べるのをやめて、唇をかまれた。いや、その肩まで震えていた。が、それも束の間、皇后はけたたましく笑いだされた。次の瞬間。天皇をはじめ一座の人々もまたたまりかねて爆笑した。

退出した後、大公は伊藤博文にこう言われた。「殿下に稲佐弁を立派に教えたそのご婦人に日本政府の名において感謝したいものですな」

 

4.青島要塞爆撃命令

前回Jさまからいただいたコメントです。(部分引用)

J.パーキンソン (id:PSP-PAGF)

台湾で、古い(?)大和言葉に出遭う・・ それを聞いて、古語ドイツ語が東南アジアの某島に残っていて、ドイツ人が驚いた・・と言う話しを思い出しました。きっと、その昔、ドイツ領だったのでしょう。

残留する外国語という現象は興味をそそられる研究対象だと思う 。日本語でも「ランドセル」「(博多)どんたく」「ブリキ」「マスト」「ズック」などはオランダ語由来のことばは多い。

「東南アジアの某島」についてはわからなかったので、夫に聞いてみるとやはりドイツ関係では思い当たらないようだった。

しかし「ドイツ+中国」と聞いて、いの一番に思い浮かぶのは、膠州湾租借地(こうしゅうわんそしゃくち)いわゆる青島(チンタオ)だろう。ドイツ語の残存状況と話者については残念ながら知識がないのだが、とうにリサーチはされていると思う。(お役にたてずすみません。)

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ドイツの青島租界(ウィキペディア

青島は西洋風のとても美しい町らしい。そして青島ビールは世界的に有名で評価も高い。私が初めて飲んだのは、1976年のことで、欧州便南廻りの経由で北京空港に降り立ち、空港ビルのカフェで冷えたおいしいビールをいただいた。どなたかのおごりだったので値段も忘れてしまった。

青島は1898年から1914年までドイツ人の町だった。ドイツ人が長期的展望を持って作りあげた都市だった。当時、ドイツの巡洋艦艦隊やドイツ東洋艦隊の母港でもあり、重要な拠点であった。が、日本が1914年8月に第一次世界大戦に参戦し、膠州湾の青島要塞などを攻撃して占領するに至る。翌年の1915年には中国の袁世凱政府にたいし「対華21ヶ条要求」を突きつけた。(ここまで世界史的知識)

我が家ではここから、映画『青島要塞爆撃命令』(1963年)の話で盛り上がる。夫は子供のころこの映画を劇場で見ており、このドタバタ活劇がどれほど可笑しいかを微に入り細に入り話してくれるのである。第一次世界大戦を扱った作品は珍しい。それにしても『のらくろ』(田河水泡の漫画)ばりのおふざけは、私にはあまり笑えないものになっているのだが。青島要塞爆撃命令 - 作品情報・映画レビュー -

 追記:

japan.cna.com.tw

一部引用

台湾高座会は、台湾の元少年工らの同窓組織。第二次世界大戦末期の1943年、台湾から8000人以上の少年が工場要員として“内地”入りし、神奈川県の高座海軍工場で訓練を受け、各地で戦闘機の生産に従事した。リーダーだった李雪峰さんは帰台後も日本との交流を願い、結社が禁じられていた戦後の台湾で仲間たちと連絡を取り合い、戒厳令解除翌年の1988年に高座会を立ち上げた。定期的に日本で大会を開き、また日本各地の民間団体と交流し台日の友情を育んできた。

「日本統治下の台湾で厳しくも愛にあふれた教育を受けた、日本人であることを誇りに思っていた」という李さんの自慢は、有能な少年工として雷電の製造に奮闘した日々。メンバーは高齢化し、設立当初は3000人を超えた会員数も今では1000人以下になってしまったが、この日、会場には20人以上の仲間がそろいのネクタイで駆けつけた。