ベルギーの密かな愉しみ

しばらくの間 お休みします。

価値観の違う相手との対話・外国人就労の問題 (+ストロマエ)

人は話せばわかると思う? 

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人は話せばわかるか…無理でしょ、話通じない人いるもん…正直にいうと私はすぐにそう思うたちである。

ネット上で過激な、差別的な持論を展開して異論を受け入れない人たち。あるいはトランプ大統領のような人たち。自分が正しいと思っており、明らかな事実さえも捻じ曲げて平気でいる、対話を通じて折り合うとか着地点を探すといった民主主義の基本的な手続きも無視する。自分と意見が違う相手に対し「そっちが間違っている」と言い張る人たち・・・話をする気もなくなる。

でもそれじゃいけないのだ。前回記事に寄せてくださったSPYBOYさまのコメントがすばらしく、もうお願いしてあるのでここに引いてみたい。(全文は前の記事で読んでいただきたい)

id:SPYBOY

 (略)

・・・クジラやイルカだけではなく、『私はシャルリ』なんかの騒動、それに『ヒジャブ』や『ブルキニ』なんかの騒ぎを見ていると、多様な価値観を社会に保持していくことは実に難しいものだと思います。

最近の極右も『自由』や『女性の抑圧』を表看板にして、イスラムを非難しているようですし。我々の民主主義とか自由主義もバージョンアップ、再定義が必要なのかもしれません。

片手には棍棒を持ちながらかもしれませんが、今の時代は説明する言葉すら通じない相手に対してでも、話す勇気を持たなければならないような気がします。それが利害の異なる相手の最少公約数だし、それには対話をする勇気と知恵が必要です。

排外主義を唱える政治家はその勇気と知恵が根本的に足りないとは思いますが、かくいう我々もどこまでその勇気と知恵と忍耐を持てるか、試されているような気がします。(*太字は私)

トランプ大統領就任式の動員数をめぐり、政権顧問や報道官の呆れた発言(alternative facts)を聞いて、アメリカ人じゃない私でも背筋が寒くなったものだ。誰が見ても嘘とわかることを「もう一つの真実」だと言い張る。こんな人たちが国のトップに座っているだなんて。

その直後に誰かが現実が『1984年』に近づいている と発言し、ああそうだ、ジョージ・オーウェルだと思い、急いで書棚から古い『1984年』(ハヤカワ文庫、1972年)を取り出した。若いころ読んだときの恐怖は感じなかった。むしろ笑えてきた。

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1949年に発表されたこの小説は、旧ソ連のような全体主義国家が舞台で、「ビッグブラザー」(権力者)によって管理・監視され、個人の自由が完全に奪われた社会を描いている。特徴的なのは「二重思考」(Doublethink)というもので、「相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること」(新庄哲夫訳)である。例としては2+2は4だが、党が5だと言ったらそうなのだ、そう信じなくてはならない。二重思考 - Wikipedia

再読後の印象では、トランプ大統領やその政権はこれとは違うものだということ。予測のつかない不安があるのだ。大統領という立場をわきまえていない。言葉が軽く、思いつきでものを言ったり、ツイッターで人の悪口を言ったり。「俺様の真実」をがなりたてる。やれやれ、お子ちゃまだな。『1984年』とは似ていないなと思った。

しかし、やはり対話はしないといけない。どうせムダだもん、とそっぽを向いていたら社会の分断は大きくなってしまうから。そして対話や議論には最低限のルールや礼儀は必要だろう、お互いに。

それと武装として相手の研究も必要だ。たとえばポピュリスト、排斥主義を唱える人(ヘイトスピーチをして練り歩く人)の心理とはどういうものか、どんな論理を好んで使うかなど、あらかじめ知識があったほうがいいと思う。(関連書物はいろいろ出ていますし)。

私はシャルリ 言論の自由

パリのシャルリー・エブド(Charlie Hebdomadaire)という諷刺新聞社を襲撃したテロ事件は世界中に衝撃を与えた。12人が死亡、20人余りが負傷した。その後「私はシャルリ」という行進がフランス内外で行われた。

私はあのシャルリー・エブドはどうかなとかねがね批判的に思っていた。権力者、例えば政府や個々の政治家、公人、カトリック教会などをからかったりするのはよい。しかしイスラム教徒がいちばん嫌がるマホメットの「肖像」のイラストを描いたり、セリフをつけたりするのはいけないのではないかと。度重なる抗議にもかかわらず、挑発するかのようにマホメットを描き続けた

イスラム教徒はフランスではマイノリティーなのだから、部外者の私の目には嫌がらせのようにうつる。しかしフランスには言論・表現の自由があるのだという。

以前のブログにも書いたのだが、あの新聞の前身は”Hara-Kiri”ハラキリ(=切腹)という左派の風刺雑誌で、かなり悪趣味なものだった(1981年廃刊)。

それはあまりかわっていないと思ったのは、去年3月の↓この表紙を見て…。

手足や目玉があちこちに転がっており、ストロマエが「パパ、どこ?」と言っている。

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cenecio.hatenablog.com

以前、ベルギーを代表する歌手ストロマエのことを書いたのだが、この人は父親がルワンダ人で、ルワンダ内戦の時、里帰りしていてそこで命を落としたのだ。 

その後の報道では「ストロマエの家族は(表紙を見て)心を痛めている」とあり、ベルギー国内外の反響も大きかった。

いったいどういうつもり?…と腹立たしく思っていたところ、ほどなくして、ある全国紙にシャルリー・エブドを弁護する人(文化人?)の談話が載った。

いわく、

この雑誌は初めから同じ路線でやってきた。テロがあったって方針は何も変えてはいない。書きたいことを書いている。

以前はこれを読みたい人だけが買って読んでいた。読みたくない人の目には届かなかったからなんの問題もなかった。

今は事件があったし、ネットの時代だし、読者でない人がそれをとりあげて騒ぎ立てているだけだ。

(ざっくりこんな感じです)

価値観の違う人と話をするのはいつも難しい。文化が違う外国人とはもっと難しく、根気もいる。これからの日本は、といってもすでに始まっているのだが、様々なルーツをもった外国人と共生する社会であるはずで、相互理解のための対話は欠かせない。

先日TVを見ていたら、英語の会話力とはなにか、についてこのように述べている人がいた。英会話の力というのは、ハンバーガーを注文したり、同じ趣味の話で盛り上がることではない。それは、異なった価値観を持つ人と対話ができることだ。お互いに理解しあい、良好な関係を作れるように。非常に納得できる見解である。 

次はこちら。

居候の光さまが「外国人技能実習改正」(介護士について、またSPYBOYさまが外国人労働について書いていらっしゃいます。記事お借りします。

技能実習制度が介護職にも拡大された - 居候の光

外国人問題と中国映画2題:『ブラインド・マッサージ』と『人魚姫』 - 特別な1日(Una Giornata Particolare)

外国人労働 

1980年代後半から外国人留学生・研修生に日本語を教えていたので、関心を持っている。ヨーロッパの国々で出会う移民の人の労働条件と比べると、あまりにひどいと思っている。(私はベルギーで1年移民学校でオランダ語を習っていた)

ベルギーでは介護の仕事は、若くて明るいインドネシアなどの女性たちが多い。養成、労働条件その他、定住に関しても満足なのだという。

「どう、仕事は?困っていることない?」と聞くと、「う~ん、方言がわからないことかな」と笑う。ベルギーのお年寄りの方言は全然わからないからだ。

高齢化の進む世界の先進国では、介護の人材はどこでも引く手あまたで、日本は今のままだと来てもらえないだろう。給料は2倍払ってくれて、条件もはるかによい国を選ぶだろう。たとえばカナダのような。

 

ベルギーやフランスから引っ越し荷物を送るとき、会社は日本の宅配業者だが、働いている人はほぼ全員が外国人労働者だった。移民であるか出稼ぎであるかはわからなかったが、私の印象では短期労働者という感じ。年輩のポーランド人が元締め的な風で、ポーランドでいろいろ指図していた。

本をぎゅうぎゅうにつめた重い段ボールを軽々と肩に乗せ、3階から階段を降りていった。監督する日本人の男性社員に聞いてみると、体が丈夫でよく働くのだという。

同様に農作業、特に決まった時期に果実を摘み取る作業などは、ベルギー人はきついからとやりたがらず、やっても続かないが、ポーランド人は班を作ってやってくる。文句も言わず、夜遅くまで働いてくれるという。残業代はもちろん払うのだが、ベルギー人だと残業そのものを拒否するのだという。こちらも引っ張りだこ。

さらにレストランやカフェでも移民の人たちが多い。すごいイケメンが二人でやっている話題の洒落たレストランも、厨房を見ると移民の人たちが4人で料理を担当していた。

私はカフェなどで、恐らく移民だなと思う給仕人を見つけると、積極的に話しかけるようにしていた。短い間でも交流が持て話が聞けるので勉強になった。

またパリではカフェ業がかなりのハードな労働だから、フランス人がやりたがらず、中国系移民の二世、三世が継ぐケースが増えているという。

アジア系の女性たちも働き者なので人気がある。フランスでもベルギーでも裕福な家のメイド業(家政婦の意味で)は圧倒的にアジア人女性が多かった。

それと関係はないと思うが、私がブリュッセルで1年通った 移民学校にもベルギー人男性と結婚した中国人女性が何人もいたなあ。

日本社会も、様々な分野で外国人に下支えされている。東京だったら飲食業やコンビニなど、あの人たちがいなかったらどうしようと思うくらいだ。

東日本大震災のあと、中国の親が放射能の影響を心配して、日本にいた子どもたちを帰国させたことがあった。そうするとコンビニやスーパーのレジ、厨房で弁当を作っていた中国人留学生(たいてい日本語学校在籍)がごっそり抜けてしまい、大わらわだったのを思い出す。

政府が「移民」(*)は認めていないため、外国人の定住という実態がありながら人権や違法行為・不法就労の問題が無視できなくなっている。

経済協力開発機構OECD)の統計上の定義では、国内に1年以上滞在する人は「移民」になるそうだ。

「移民を受け入れる」のではなく、まず現行の制度、受け入れの在り方と受け入れ先の監督はすぐにでも見直しが必要だと思う。

国は「単純労働の外国人は受け入れない」というが、その建前は虚しい。建設現場や、居候の光さまが書いてらっしゃる、北海道の牧場、それから縫製業や金属加工業など、産業界の本音としてはそうした労働者がほしいのである。それをごまかしているのだから、国連などから批判されても仕方がないと思う。

長くなりましたので、いったん切ります。