ダンケルク 兵士40万人の大撤退作戦・「ダンケルク・スピリット」と負け戦 -1-

話題の『ダンケルク』 映画『ダンケルク』オフィシャルサイト

私も見てまいりました。今日は周辺のことから語りたいと思います。

ダンケルクはベルギー国境に近いフランスの海岸の町。そこに40万人ともいわれる英仏軍の兵士が追い詰められ、袋のネズミ状態*になりました。第二次大戦開始後1940年5月のことです。ドイツ軍の電撃戦により、あっという間に西ヨーロッパの国々は占領されてしまったからですね。

*袋のネズミ:映画の中でドイツ空軍が空から撒いたビラ。誰でも状況がわかりますね(^^)

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そこで兵士たちをドーバー海峡を渡らせ、イギリス本土に撤退させるという一大事業、ダイナモ作戦(Operation Dynamo、1940年5月26日~6月4日)が決行されます。映画は史実を扱ってはいますが、あくまでイギリス側の視点で描かれています。

ダンケルク・スピリット」という言葉があり、イギリスの子どもたちは皆この話を聞いて育つそうですがフランスでは違います。

またいつも「英仏」と言いますが、当然ベルギー人兵士もこの救出作戦には含まれています。手元の資料によると 救出された338 000人のうち、フランス人が123095人、ベルギー人が16816人だったそうです。カナダ人の人数はわかりませんでした。

 

 遠浅の海岸が怖い

 ダンケルクに行ったことはありませんが、そのすぐ近くのベルギー・フランダース地方の海岸には何度か行きました。週末訪れるのにちょうどよく、日帰りもできる海浜リゾート地です。

ダンケルクDunkerqueというフランス名は、 西フラマン語*の Duinekerke、Duin=砂丘、kerke=教会から来ており、この辺の地名にはオランダ語起源のものが多い。

*西フラマン語オランダ語の方言。ベルギーでは現在、戦後に統一された標準オランダ語公用語の一つとして使っている。

映画でわかるように、潮が引くと広大な砂浜が広がります。とにかくとてつもなく広い。

日本の海辺の風景に馴染んで育った私は、こうした遠浅の砂浜にいると不安にかられるのです。声をだして呼んでも向こうにいる人に届かない。そんな思い出が頭の中に染み付いているからか…。まるで砂漠のど真ん中にでもいるような、一面ヒースの茂る荒れ地にひとり置かれたような…うまく説明できないですけど。

このような遠浅の海岸で、しかも浅瀬も多いところで、いったいどうするんでしょうか。兵士たちを輸送するのに大型艦は便利ですが、浜には近寄れません。

そこでチャーチルは、小回りのきく駆逐艦や掃海艇などのほか、民間船なども動員したのです。つまり漁船や個人所有のプレジャーボートです。これを集められるだけ集めて、そこにフランスやベルギーの民間船も加わりました。

映画の中で、小さな船の一群が海原の向こうから現れるシーンは胸を打ちますが、あんな小さな船で海峡を渡ってきたのか、そして一般人がドイツ空軍の攻撃に晒されるなんてとんでもない、と私はハラハラしたものです。

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Photograph: MS Gordon/Warner Bros/Kobal/Rex/Shutterstock

(映画のシーン:本物のスピットファイアMk.Iが2機、Mk.Vが1機飛んでいる。ムーンストーン号でダンケルクに向かう3人。)

 実際にこの救出作戦に参加した船は合わせて約850隻(民間船370)ということです。

映画のためにノーラン監督は、9つの国から数十隻の船を集めたそうで、フランスの駆逐艦マイレ=ブレゼが博物館を離れたことは、フランスでは大ニュースで新聞にも載りました。

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File:Nantes - Maille Breze (1).jpg - Wikimedia Commons

(全長100mの駆逐艦マイレ=ブレゼ。ナントの博物館の展示物だが、エンジンがないので曳航されて映画にお目見えした。船は動けないので兵士たちがずらりと並ぶシーンで使われ、壮観だった)

 

実際のダンケルク

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/88/Dunkirk_26-29_May_1940_NYP68075.jpg 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/88/Dunkirk_26-29_May_1940_NYP68075.jpg

(1940年5月26~29日)

 ②

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http://www.iwm.org.uk/collections/item/object/205086989

https://static.iris.net.co/semana/upload/images/2017/8/11/536124_1.jpg

Dunkerque: la verdadera historia

 ④

.https://i.guim.co.uk/img/media/131832b778989ce0e600ac73700507907af38668/0_0_2461_1666/master/2461.jpg?w=620&q=55&auto=format&usm=12&fit=max&s=6f8a7007671110b82933e0a4b67d0f87

Manchester Guardian, 3 June 1940.

Dunkirk: how the Guardian reported the evacuation - archive, 1940 | Film | The Guardian

(実際の写真ここまで)

 

ダンケルク?ふん、負け戦さ。

学生時代(1970年代後半ですが)、フランスやドイツの家庭にホームステイをしていたころ戦争の話題は頻繁に出ていました。また、そのころはまだ戦争で負傷した人たちを町でよく見かけたものです。

ドイツのお宅のご主人はロシア戦線で右腕を肩から無くし、片足は膝から下が義足だったけれど、普通にバリバリ働いて、車の運転もとても上手であちこち連れていってくれました。戦争の話はきまって奥さんのいないところでこっそりと。彼なりのいろんな秘密があるのです。私は打ち明け話を聞くのが好きでした。

パリの友人の家でも戦争中の話は聞いていました。あるときノルマンディー地方のお宅に連れられて行くと、そこでは戦争観がまるで違っていました。

ノルマンディー上陸作戦(1944年6月6日 - )といえば、一般にはナチスドイツからのヨーロッパ解放につながったという評価だと思います。アメリカ映画『史上最大の作戦』(The longest day1962年)やTVドラマなどの影響もあるでしょう。

しかしノルマンディー地方の人々にとっては、戦闘や空襲などで町を完全に破壊され、大きな犠牲を払った辛い体験です。やっと解放かと思えば、アメリカ軍兵士による殺人、暴行、略奪が横行し、辛酸をなめたのです。「ドイツ人は礼儀正しくて問題行動なんか起こさなかった」というのだから衝撃でした。

1984年と1994年もフランスにいた私は、ノルマンディー上陸作戦の40周年、50周年記念式典の際、冷ややかで懐疑的な声も多く聞かれたのを思い出します。「戦勝国のお祭り?私たちの犠牲の上にね」。

現在では「ノルマンディー全域の民間人死者は米兵戦死者と同等の2万人。60%は空爆犠牲者」という調査結果も出ているし、市民の声も数多く拾ってまとめているようですが。

 

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ダンケルクの市街にて。撤退するイギリス兵たち。Photograph: Hulton Deutsch/Corbis via Getty Images

Evacuation of Dunkirk: share your letters, photographs and stories | World news | The Guardian

http://www.larousse.fr/encyclopedie/data/images/1310922-Dunkerque_en_ruines_1940.jpg

1940年破壊されたダンケルク市街

Encyclopédie Larousse en ligne - Dunkerque en ruines, 1940

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映画のために1940年当時の街並みを再現

Dunkerque métamorphosée pour le tournage du nouveau film de Christopher Nolan

 

ダンケルクに関してはフランス人の意見はほぼ一致すると思います。

「あれは負け戦さ」。「挙句の果てにダンケルクに追い詰められて、フランス兵が盾になりイギリス兵を逃がしてやったのさ」。

 

http://www.lepoint.fr/images/2017/07/19/9485506lpw-9486228-article-wwii-battle-of-dunkirk-1940-jpg_4432590_660x281.jpg

1940年6月、ドイツ国防軍の兵士が、フランス・イギリス人捕虜を監視している。約4万人と言われている。10 chiffres pour comprendre la bataille de Dunkerque - Le Point

「そもそもフランスは政府も軍部首脳も無能だった」し、「ド・ゴールの言うことを聞けばよかったのに」。だけど「つまるところフランス人は戦争に向いていないんだよ。平和主義なんだから」ということです。皆さんの意見、ごもっともです。

 

ここで1940年5月10日、電撃戦を始める前の、ドイツ陸軍参謀本部の作戦室をのぞいてみます。壁に掲げられていた地図がこちら。(もちろん当時は最高軍事機密)

地図:『西方電撃戦』 (欧州戦史シリーズ2 学研)からコピーさせていただきました。p8~9

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赤は仏軍、イギリス大陸派遣軍、ベルギー軍、オランダ軍。

青はドイツ軍、旗が司令部。矢印と点線(←・・・)は予定前進路。

地図を見るだけでドイツ軍の作戦がわかります。ルクセンブルクとベルギーの南を突破して行く。つまりあのアルデンヌの美しい森の中を!(今も深い美しい森で観光名所です)。

そのあとムーズ川を渡って一気にフランスに入る。作戦開始3日目でもう!

連合軍は完全に意表をつかれました。マジノ要塞線は迂回されたし、1200人の守備隊が守るベルギーのエバン・エマール要塞は、ヨーロッパ最強と言われていたのに、(図解Fort Eben-Emael, Fort d'Ében-Émael エバン・エマール要塞『西方電撃戦』 (欧州戦史シリーズ2学研)

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 80人のドイツ空挺部隊がグライダーで着陸し、3時間ほどで制圧してしまったのでした。(エバン・エマール要塞は一度見てみたいです。近くのリエージュの町までは2回行きましたが、ツアーに入らないと見学が難しいらしく未だ行けていません)

 

負け戦のダンケルクのことは、フランス人は誰もよく言いません。フランス軍はその後大勢が捕虜になり、お気の毒でした。

しかしこの撤退作戦は、決断も早く手際もよくてすばらしかったと思います。イギリス空軍が空を守ってくれたおかげでもありました。

こんな短期間であれほどの兵士たちにドーバー海峡を渡らせる…「奇跡」と呼ばれているのもよくわかります。

特に若い人達を大切にしなければならない。若者は将来を担うのだから。戦争を起こすのは年寄りだけれど。…木造のムーンストーン号の持ち主、ミスター・ドーソンが海軍の船舶供出に応じて自ら舵を取るその気持ちがよくわかります。

 次回はそんな大救出劇をいったいどうやって映画にしたか、驚くことばかりなのでそれをまとめてみたいと思います。

 

続き↓

cenecio.hatenablog.com

 

🌸おまけ

おもしろいグラフがあります。

フランスの調査

1945年ナチスドイツとの戦争勝利に最も貢献したのはどこの国だと思いますか

1945年5月: ソ連が57%、アメリカ20%、イギリス12%。

ところが2004年ではアメリカが58%と順位が入れ替わっている。理由を考えてみるとおもしろいでしょうね。

http://img.over-blog-kiwi.com/0/83/76/49/20150511/ob_56511c_sondage-nation-contribue-defaite-nazis.jpg

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 終わります。