「ヒトラーの孫」であると信じるフランス人の話 -1-

 先日、アメリカに住むヒトラーの甥とその子どもたちの話を記事にしたのだが

アメリカ海軍の衛生兵だったヒトラーの甥 改名はしたけれど…-6- - ベルギーの密かな愉しみ

出自を隠したがっているスチュアート=ヒューストン家のような人たちもいれば、なんとかしてヒトラーの子孫であることを証明させたいロレ家の人たちもいる。

孫だと主張するのはこちらのフィリップ・ロレ(Philippe Loret)氏。

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Philippe Loret 'believes he is Adolf Hitler's grandson': French plumber tells family story | Daily Mail Online

北フランス、ピカルディ地方に住むフィリップ・ロレ氏56歳(2012年当時)

 

ヒトラーの隠し子騒動が再燃か?

彼の父親が「隠し子」である。つまりヒトラー第一次大戦中、連隊伝令としてフランスのフランドル地域にいたとき、土地の娘との間に生まれた子どもである、という説。

子の母親の名はシャルロット・ロブジョワCharlotte Eudoxie Alida Lobjoie)

息子はジャンと名付けられ、出生届がこちら。(黄色下線は私)

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Jean Lobjoie, fils naturel de  (Charlotte Eudoxie Alida Lobjoie)

「ジャン・ロブジョワ、~の非嫡出子」とある。1985年に亡くなったこともわかる。

 

息子ジャン・マリ・ロレ(Jean-Marie Loret 1918-1985)の話

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写真:Philippe Loret 'believes he is Adolf Hitler's grandson': French plumber tells family story | Daily Mail Online

 まず「息子」の話から振りかえってみよう。

若い皆さんはご存じないと思うが、「ヒトラーに隠し子」は1970年代後半、一大スクープだった。戦争関連の都市伝説はたくさんあって「また~、ウソでしょう」と笑いとばしながら結構楽しんでいた。

ただし「ヒトラーは南米に逃げてまだ生きている」類の眉唾モノと違って、「ヒトラーに隠し子がいた」のほうは本当かもしれないなと思ったものだ。

噂は第一次大戦中も、第二次大戦中も戦後もずっと根強くあって、調べている学者やジャーナリストは何人もいたらしい。だがどうしても母子の居場所がわからなかったのだ。

さてカミングアウトした、ヒトラーの「息子」さんジャン・マリ・ロレ氏(以下ジャンと省略する)は来日もしたのである。日本のTVチーム、TBSとTUCに招かれてのこと。TVチームは事前にドイツでやフランスで取材もしている。

ジャンは1978年4月13日、TBS日曜特番「私はヒトラーの息子だった」という番組に、ドイツ人の歴史学者ナチス研究家のヴェルナー・マーザー(Werner Maser)博士に伴われて出演した。私は見ていないのだが、ご覧になったかた、いらっしゃったらぜひご連絡ください。

ジャンは30歳のとき(1948年)、母親シャルロットからそのことを告白され、まさに晴天の霹靂の気分だった。子どものころ「ドイツ野郎」と近所の子からいじめられていたので、父親がドイツ人だということは知っていたが、確かめようもなかった。というのも母は1918年、生まれたばかりのジャンを実家の両親にあずけパリに出てダンサーになる。それきり息子のもとには戻らなかったのだ。そして4年後にはロレ氏と結婚。ロレ氏はジャンにロレ姓を名乗ってよいと言った。が、ジャンを迎え入れることは望まなかった。

一方、シャルロットの妹アリスは当時、裕福なカトリックの企業家、名門フリゾン家で家政婦をしていた。このフリゾン夫妻が「ドイツ人の子」だとわかっていながらジャンを養子に迎えてくれることになった。

その後カンブレの寄宿学校やサン・カンタンで就学し卒業。1936年兵役につく。第二次大戦が始まると祖国防衛のためマジノ線へ。戦争後半ではレジスタンス組織(Résistance OCM )に加わっていたこともあったらしい。名前は "Clément"だった。

この大戦中、ジャンの身に不思議なことが起こる。1940年パリを占領したドイツ軍司令部に突然呼びだされる。出頭すると父親や母親のことを根掘り葉掘り聞かれるのだ。自分は両親ともどこにいるか知らないので、そのように答えると、ドイツ人は「母親にここで会える」と言ってアドレスをくれるのである。初めて会う自分の母親…しかしこの再会は幻滅に終わった。というのも母は明らかにアル中で具合が悪そうで、怒鳴りつけてばかりだったという。

2年後ドイツ軍からまたも呼び出しがかかる。司令部のドイツ人は皆、自分が母と会ったことを知っていた。その後母方の墓地へ墓参りにまで連れていってくれた。

何かおかしい。ジャンはドイツ軍撤退後(すなわち、もう危険はないと思い)、自分の素性について何としても母から聞き出さねばと何度も母のもとを訪ね、責め立てた。ついに折れた母が言った。「お前の父さんはヒトラーだよ」。

その母は1951年になくなるが、部屋から母をモデルにしてヒトラーが描いた絵が見つかった。絵の左上 A.Hitler 1916 とサインがある。

f:id:cenecio:20171019162742j:plain出典*註を見てください。

↓シャルロットの若いころの写真

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https://ww2gravestone.com/people/hitler-adolf/

ジャンは出自の秘密を守り、自分の家庭をもうけ、余計なことを考える時間を極力なくすためにも20年間仕事だけに埋没した。

隠し子については村人など証言者はかなりいたのだが、母子の消息を知っている者は一向に見つからなかった。そんなときこの絵が公に登場したのだ。ベルギーのグラフ雑誌「パノラマ」(1972年4月11日号)がこの絵を掲載。ヒトラーの署名のある油絵で、鑑定の結果、本物ということだった。この絵の女性を探せ!ということに。

 

マーザー

歴史学者ヴェルナー・マーザー(1922 - 2007年)は1960年代には「ヒトラーの子ども」についてすでに調査を始めていた。

ジャン・マリ・ロレと名乗るフランス人から連絡を受けるのは1975年のことである。当初は疑ってかかっていたという。

だがジャンは、母から聞いたこまごまとした情報の中で、当人しか知り得ないことがら、博士が調査しても不明であったデータなどを語るのである。

たとえば母がなくなる前、この人を訪ねていきなさいと言ったドイツ兵のこと。それはヒトラーが1916年に左大腿部を負傷したとき野戦病院で一緒だった友人カーレッツホーファー(Karletshofer)であった。ヒトラーはシャルロットとの交際を打ち明けており、のちに息子が誕生したこともカーレッツホーファー経由で知ったらしい。またヒトラーが1918年に帰国してからも食料品などの調達を手伝ってくれたという。カーレッツホーファー自身は1946年に亡くなっていたが、甥が叔父とヒトラー野戦病院でのツーショット写真を確認している。

ハインツ・リンゲ(Heinz Linge1913 –1980)はヒトラーの従者の中で有名だと思うが、総統のプライベートを最もよく知る人物である。しかも最期を見届けている。自殺したヒトラーの遺骸を毛布に包んでガソリンを注いで焼き、官邸脇の穴に埋めた人物。そう言われている。

このリンゲも1977年には沈黙を破った。ヒトラーはフランスを占領すると、過去の思い出の地に行きたがり、自分も同行した。ヒムラーに、母親と息子の捜索命令を出したときも同席していたと語っている。

 

マーザー氏は証言の裏付けを取ったりして調査を進めるうち、ジャンがヒトラーの息子であると信じるに至り、"Adolf Hitler: Vater eines Sohnes"という本を出版する。

*註ヒトラー・ある息子の父親』。訳は西 義之氏、TBSブリタニカ (1978/09)。

 

またジャンも1981年にお前の父さんはヒトラーという回想録をフランスで、大学・教育関連の出版社から「証言シリーズ」の一環として出版。

http://www.lepoint.fr/images/embed/livrehitler.jpgTon père s'appelait... Adolf Hitler

Jean-Marie Loret (narrateur) et René Mathot (historien, coauteur),, Paris,  Éditions de l'université et de l'enseignement moderne « Dossiers de l'histoire », coll. « Témoignages », 1981, 287 p., biographie 

 

 ヒトラーは…

ヒトラーはフランスを占領すると、自分がかつて過ごしたフランドル地域を訪問し、地域の人たちと語らったという。写真も残っている。http://memchau.free.fr/alain/hitler/hitler.htm

http://memchau.free.fr/alain/hitler/hitler1.jpg http://memchau.free.fr/alain/hitler/hitler2.jpg

左:1940年6月25日、Cerny-les Bucy.を訪問。(photo A. Oget)

右:同、ラン大聖堂を訪問。(Coll. Jean Hallade)

ヒトラーは、20年後のシャルロットに写真で再会するも、その荒廃あらわな風貌に幻滅したと伝えられている。また息子のジャンとも結局会わなかった。民族的に劣等なフランス人との間に子供がいるなど、絶対に知られてはいけないことなのである。

それでも自分の息子に違いないこの青年を引き取るべきかどうか考えた時期もあったという。オペル(Wilhelm von Opel )のところに預けようか。いやダメだ、とすぐに考えをひっこめる。ウィリーの件があったからだ。過去記事「アメリカ海軍の衛生兵だったヒトラーの甥」でも書いたように、ウィリーは問題ばかり起こしており、1939年に厄介払いしたところだったのだ。それでジャンのことは放っておくことにした。

 

ロレ家の孫たちの物語

フィリップ・ロレ氏(上の写真)はジャンの子息の一人。

1962年、フィリップが16歳のとき、ある日の夕食のテーブルで父がこう言った。「話しておかなければならないことがある。おまえたちの祖父はアドルフ・ヒトラーだ」。

 

ここから孫たちの物語が始まりますが、ほぼ同じ分量があるので、次回にします。

資料

TBS 日曜特番「私はヒトラーの息子だった」(ナビゲーターはミッキー安川

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当時のフランスの雑誌 Paris Match ロレ氏の特集

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