前回記事顔真卿(がんしんけい)から 細野晴臣コンサートポスターを思い出した。
こんな地味で簡素なエントリに、まさか1000近くもアクセスがあるとは!思いがけないことがあるものだ。9割以上がSmartNewsとTwitterだった。
展覧会について知りたければ、私のよりこちらのすばらしいブログをぜひお薦めします。→東京国立博物館 - 1089ブログ
井上有一
前回記事では、亡くなった甥を悼み、憤怒と悲嘆のなかで、泣きながら綴ったんじゃないかと思わせる、顔真卿の「祭姪文稿」について書いたが、あれを見て井上有一(1916-1985)を思い出す人は少なからずいると思う。噫横川国民学校 (ああ よこかわこくみんがっこう)のことだ。
Inoue Yuichi Retrospective, 21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawa
©︎Yuichi Ihara
井上有一はいわゆる「書家」の枠には収まらない人で、生き様も含めて、日本国内にとどまらず大きな影響を与えた人だ。ひとことで紹介すると、小学校教員で東京大空襲を生きのび、亡くなるまで書と向き合った人…。まあ、こんなことをちょろっと書くことさえ憚られるほどの巨大な人だ。
ただ、大空襲の3月もじきやってくるし、東京のあと空襲は各地を襲い、日本人にとっては忘れてはならぬ悲惨な出来事だから、この機会に改めて井上の書を見るのもいいと思った。それになんといっても、唐に渡った空海が王羲之や顔真卿の書を学んできて、それが現代に、井上有一に受け継がれているというのも壮大な流れだなと感慨もある。
ところで、去年パリでも 「井上有一 1916-1985 -書の解放-」展
書と絵画の境界線を超えた前衛書家 井上有一の個展がフランスで開催 | パリを彩る日本文化の祭典 「ジャポニスム2018」
戦後を代表する前衛書家 井上のまとまった作品展ということで、日仏友好160周年記念の一環としてパリで開催され、そのあとアルビ市へ移動。作品や詳しいことは上の記事でどうぞ。 (写真もそちらからお借りしています)
書と絵画の境界線を超えた前衛書家 井上有一の個展がフランスで開催 #現代的な書 #個展 #井上有一 #書の解放 #パリ日本文化会館 https://t.co/fDQPG7Kd00
— CREA (@crea_web) 2018年9月13日
井上の略歴はこちらが詳しい→井上有一略歴 — Kami Ya Co.,Ltd.それによると
1958 年ブリュッセル万国博記念「近代美術の50年」展出品。
という記述がある。全然知らなかった。戦後初の万国博覧会だ。
井上は生前、ヨーロッパなど幾つかの都市で個展を開いていた。
そして2016年の中国では、井上の生誕百年を記念して大規模な展覧会があった。
引用
主催者の一人 張健氏:
「17歳の時に井上有一氏の作品に出会って一目ぼれし、現在になってもその思いが消え失せることはなかった。命を削って書き上げられた作品ばかりで、その印象は忘れられない」
作家の王見氏:
「紫禁城太廟芸術館で展覧会を開くということは、中国のアーティストによる井上氏への敬意の表れである。井上氏のアートは、オリエンタルな要素と、ビジュアルを強調する欧州のモダニズムを一つに融合しており、欧州や中国にも大きな影響を及ぼしている」と述べた上で、「中国では井上氏を称える声が多い。一方で、井上氏が伝統的な書をどのようにしてモダニズムへと導いてきたのか、このことに対する研究がまだ物足りないように思う」
…といった熱いコメント。また作品展も1995年の天津のあと、中国各地で11回も開催されてきたという。また中国で出版した本(翻訳本)があるのも驚きだった。
噫横川国民学校(ああ よこかわこくみんがっこう)
横川国民学校は現在もある。墨田区立横川小学校として。スカイツリーのすぐ近くだ。井上はここの教員だった。一時六年生を連れて千葉県へ疎開していたが、東京に戻るよう指令があり、3月3日に生徒を連れ上京した。自宅が被災していたので学校に宿直。
3月10日の未明だった。B29の焼夷弾により、2時間くらいのうちに10万人もの命が奪われた。井上は火消しに奮闘したが、気を失って仮死状態に。校庭に引き出されて人工呼吸で7時間後に息を吹き返した。6年のクラスの生徒8人が犠牲になったことを知る。
戦後も教師を続け、退職してからこのときの体験を書に表すのである。それまでに30年の月日が必要だった。
「噫横川国民学校」(1978年)
(↑群馬美術館所蔵。http://www.maroon.dti.ne.jp/k3is/ds/tokyoA.htm
2005年8月16日NHK放送では、緒形拳の朗読があったらしい)
横川国民学校は、その地域でもっとも頑丈な建造物だったから千人もの住民が避難していたのだ。多くの人が焼死、川に飛び込んで溺死した人たちも。
内容は上で読んでいただければわかると思うが、夜が明けてみると白骨が散らばり、火葬場さながらだったと書いている。一番ショッキングな描写、妊婦の腹が裂け、胎児が露出しているくだりなどは読むに辛すぎる。親子の断末魔の声を一生忘れない、と結ぶ。
「噫横川国民学校」は1995年ニューヨークの展覧会に出品された。「1945年以後の日本美術」というタイトルである。そこを訪れたジェームス・カプラン氏という文芸評論家が、ピカソの「ゲルニカ」を連想させるとコメント。
・書がわからない人間でもぞっとする衝撃を受ける
・ゲルニカと同様、モノクロである
・無辜の民が虐殺されたという悲劇の訴求が共通している。
美術評論家 海上雅臣氏の談話より。(上記2005年8月16日NHK放送)。
「ゲルニカ」が出てくるとは思わなかったが、書からは凄惨さや執念のような強い感情が伝わってくる。怒りも叫びも感じる。つぶやきながら無我夢中で書いた、と何かで読んだことがある。
太い縦線は焦げた材木のようだし、文字は瓦礫、あるいは死体、ちぎれた四肢のように見える。あまりの衝撃に一度見たら絶対に忘れられない作品だ。目を逸らすなと言っているようだ。
*参考
NHK 昭和の選択 東京大空襲が生んだ悲劇の傑作「噫横川国民学校」ビデオより
赤が東京下町で炎上・消失したところ。
今日は終わります。
🌸お答えします。
先日の「明朝体の横画がなかったら」に、ひふみん(将棋の加藤 一二三)はどうなるの(ni-runi-runi-ru)という質問がありました。ツイ主さんによりますと、
三角のちっちゃな山になってしまい、ひふみんらしくて可愛いんじゃないですか。
ではまた~!
追記:おもしろい。シュ・ビン(徐冰)
天書 シュ・ビン(徐冰)
そんなことよりもこれ見てこれ見て!きのうイェールのミュージアムに行ったら徐氷の「天書」が展示してあって、思わず声が出ちゃったよ!ご覧の通り、偽の漢字で綴られた読めない奇書。学生時代に存在を知り、見たい見たい見たいと念じ続けていたらこんなところで叶った。幸せだ……。 pic.twitter.com/sNw6X7aTlw
— 瀬川深 Segawa Shin (@segawashin) February 12, 2019
天書
徐氷1991/1991
『天書』は、作者を一躍有名にした作品である。1989年に中国美術館(北京)で開かれた「中国現代芸術展」で、巻子装の『析世鑑』とともに、広い空間全体を飾るインスタレーションとして発表された。当時の中国においては、その表現形式も斬新であったが、最も耳目を驚かせたのは、実社会では意味をもたない「文字」であった。それらは、一見漢字のようでありながら、『康煕字典』を参考に独自の法則を作り、それに従って漢字の偏や旁を組み替えて一つひとつ設計した「文字」であった。版木に彫られ、伝統的な書物の形に印刷された「文字」は4000にものぼり、4年という歳月と労力をかけて作られている。この作品以降も、作者は漢字とアルファベットを融合した「文字」や、象形文字や絵文字を使った造形など、文字にこだわり続けている。それは、漢字を発明した中国文明を脱構築し、現代社会にふさわしい文化の創造を提示する試みだといえよう。
徐 冰(シュー・ビン、XU Bing、1955年2月8日 - )は中国の芸術家である。重慶生まれ。
中央美術学院(北京)にて版画を専攻、1987年芸術学修士号取得。
独創によって全く意味を成さない偽漢字を数千文字作成し、これを用いた書や印刷物、インスタレーションなどの作品(「天書」)を発表し、大きな反響を呼んで中国の現代美術の旗手となった。その後、ローマ字を組み合わせて一つの英単語から一つの漢字風の文字を作る「新英文書法」のシリーズへと移行している。1999年マッカーサー賞受賞。2003年第14回福岡アジア文化賞芸術・文化賞受賞。2008年より、中央美術学院副院長。