ベルギーの密かな愉しみ

しばらくの間 お休みします。

猫と起業家精神 (ポーランド③)

荒れ野の七年八カ月

いや荒れ野はもっと前からだったかも。20年とか30年前からかも…。今は荒れ野に立ち、周りを見回し、また新たに歩み出せそうか確かめているところかな。

今年は日がたつのが早い。1月終わりからずっと悪政と悪性感染症にダブルで振り回されてきた。そしてもう9月。9月1日は毎年地域でけっこう大掛かりな防災訓練があり、私も朝早くから炊き出しや消火訓練をする住民の誘導などお手伝いに回るのだが、今年はコロナで全部が中止となった。

関東大震災のときの、朝鮮人虐殺のことは毎年忘れない。なんせ都知事がアレだから市民が自分たちで、あるいは自宅で追悼することになる。事件現場の地図が回ってきた。9月、東京の路上で | 差別反対東京アクション

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改めて虐殺現場の多さと悲惨と残忍さに、居たたまれない思いだ。

今日はそのことではなく、気分を変えて猫のことを書く。本当は8月8日の国際猫の日に何か書こうと思っていたが、8月という月は私の頭は「戦争」でいっぱいになり、どうしても余白がない。感情をそちらに取られてしまうと猫を誉めそやし、愛でることがたやすくできないのだ。遅ればせながら猫の日おめでとう!Happy #InternationalCatDay

こちらJenny (id:jflkg4u)さまも飼い猫猫ちゃーと遊んでいますね😉(中にお写真が)。

9月1日台風通過中~ - おひとりさまライフ 保護猫ちゃんと一緒

そうそう、先日nofrillsさまから教えてもらったBlack Cat Appreciation Day” (8月17日)黒猫を愛でる日もあるそうだ。

black cat appreciation dayは「黒猫の良さを認識する日(黒猫鑑賞デー)」。このappreciationは「感謝」ではありません。 - Hoarding Examples (英語例文等集積所)

毎日が「猫の日」でもいいな。「パステル三毛猫の日」とか「尾曲がり猫の日」(長崎には神社がある。長崎尾曲がり猫神社)とか…。そんな平和な世界を妄想してみる。

twitterに誰かが書いていた話。銭湯でよく出会うタイ人にあるとき、あなたは猫を持っているかと聞かれ、はいと答えると、それは良い、猫は小さな仏さまだから大切にしなさいと言われたと。小さな仏さま…タイ人らしい発想だ。

 でも猫愛はロシア人にはかなわない気がする。前からそう感じている。猫のサーカス団があるなんてロシアだけだろうし。

乳製品のパッケージに溢れる猫、猫、猫。バーコードも猫の形。ロシア人には負ける。

 

ベルギーの猫カフェ (2016年3月訪問)

あとにもさきにも猫カフェ訪問はこの一回限りだと思う。楽しくて濃いひと時を過ごした。昔書いたエントリをちょっと焼き直して再掲する。

コロナでベルギーがロックダウンになったとき、真っ先に心配したのはこの猫カフェだ。猫ちゃんたちどうしただろうと心配だった。

調べてみるとお店は今でもやっているが、名前と経営者が変わっていたLe New Chattouille

あの日、私が店に入るとすぐさまやってきたのはこのマティス君。(写真上の2枚)

「よく来たね、さっ、遊ぼ!」と私の気を引きたがる。おもちゃで遊んだりかくれんぼしたり。人懐こく美しい猫である。

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写真右下の女性、キッチンに立つ女性が経営者のモニカさん。モニカさんは猫に話しかけるときフランス語ではなかったので、あれ?と思い、聞き耳をたてているとポーランド語だとわかった。ポーランド移民だった。(あとで「起業家精神」のところに繋がります)。

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さすがベルギーだ、猫カフェ猫ビール❢De Poes オランダ語でメス猫という意味)。作っているのはかの有名なブリュージュ醸造Huisbrouwerij De Halve Maan。フルーツっぽい爽やか系…とおもいきや、あとで苦味も来ていい感じだった。

黒猫が私のビールを狙っている。「やめなさい!」と後ろからモニカさんの声がする。ほうら怒られた。漱石の猫じゃあるまいし。どうせ舌は届かないんだから。

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(右下:「ねこ歩き」という日本語が見える。岩合光昭さんの写真集。この日本の雑誌、誰かが置いていったのかな)

たくさんの猫が出たり入ったりしている。どこからかというと床下の小部屋から。猫用のハシゴがあり、人間から離れ、ひとり静かにいたいときはそこへ逃げこむのだ。いいアイディアだ。

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保護猫のカフェなので気に入った猫をひきとることができる。もちろん審査はある。この日も一人の女性がキャリーケースを持って来店。猫たちはクンクンと調査中。もらわれるのは別の猫であるが。

客は私のほかベルギー人が5人、常連さん風だった。そしてひきとりに来た女性を中心に、まるでどこかの家のお茶の間にでもいるみたいにお喋りが始まった。こうしたところが実にベルギーらしい。いやヨーロッパでは普通によくあることだが、レストランやバス停などで見知らぬ人同士すぐに会話が始まる。そんなきっかけで家に招かれたり、人を紹介してもらったりもしたこともある。

この女性はいきさつを話してくれた。深刻な病気で入院しなければならなくなり、自分の飼い猫を泣く泣く手放した。退院してみると心にぽっかり穴が空いた感じ。猫がいなくては生きられない。それで保護センターに連絡をし、このカフェを紹介してもらった。女性がひきとる猫は、このカフェで最も扱いの難しい猫だそうで、そういう猫こそ早く温かい家庭が必要、との考えから決断したと言った。

他の人たちも猫との思い出、子ども時代の猫のことなどを語った。アパートで猫は飼えないが引っ越したら必ず保護猫をもらうつもりと誰かが言うと、みんな大きくうなづいたりして、そのいっときの、猫と共にいる幸せを分かち合った。

 

起業意識

ポーランド人女性がベルギーで最初の猫カフェを開いたこと、これは興味深い。以前ベルギー人と話していて、日本人もベルギー人も会社や組織に属することを好む傾向があり、起業家精神に乏しいという結論に落ち着いたことがある。国民性なのか。

例えば、中国人や韓国人を教えているとき、将来は何するのと聞くと、会社を創るとか自分の店(レストラン)を持つとか、医師・研究者になるなどと夢を語ってくれたものだ。バブル崩壊以前の80年代でも。小さな子どもに聞いても同じ。「ぼくはね、社長になるんだよ」と中国人の子どもは即答した。その点日本人は起業意識が明らかに低いと思うし、調査ランキングを見てもそうだ。(また日本政府は、企業しやすい国でありたいと、2013年「2020年までに先進国(OECD加盟35か国)で3位以内を目指す」という目標を掲げはしたが、笑止千万だった)。

ベルギーでも移民の人たちが起業してEU内のランキングの順位を押し上げていた。ムスリムの人たち、イタリア人やポルトガル人などと並び、ポーランド人もそうだった。

前に頂いたコメントで、ベルギーに短期しか滞在していないanneさんでさえ「ブリュッセルにはポーランド人がたくさんいた」ことに驚いていたし、また、shohojiさんが「ポーランド人はみんな明るい」と書いていたことは注目に値する。本当にどこにでもポーランド人はいた。すごく働き者でベルギー人が避ける仕事を引き受けていた。宅配の仕事や引っ越し(日本通運では多くのポーランド人を雇っていた)や工事現場など。まずはそこから始めて資金を貯めるのだ。もちろん能力が高くヴィジョンがあれば融資を受けてすぐに起業できるさまざまな制度も用意されている。

ポーランド人のエネルギーはどこから来るのか。異国での苦難を乗り切る力を与えてくれるものは何か。それは厚いカトリック信仰だと思っている。それに加えて、家族や友人、人と人との結びつきを大切にする国民性か。

たとえばブリュッセル中心部の教会(Église Notre-Dame de la Chapelle)の日曜日、ミサにポーランド人があちこちからやってくる。あまりに多く集まるため中に入りきらず、四部(時間をずらして四回)に分けて行われるのだと、教会の人が笑いながら話してくれた。信仰を持たない人が多い日本では想像しがたいことだろう。あるとき私はその光景に出くわし、驚いて写真を撮ったこともある。(今すぐに写真が出てこないので後日💦)

では今日はここまでです。また次回!

 

🌸ペレック紅葉の稲荷 (id:Nietoperek)さん、

今日は「ポーランドその3」になってしまいました(笑)。昨日(8月31日)は連帯が発足した記念日で、日本でもTVで紹介していましたよ。若いヴァウェンサやカチンスキ兄弟の映像を見ました。こんなふうに別れてしまうなんてね😐

8月15日は対日戦勝記念日 &国家主義の誘惑 &蝶の羽化

 日本に勝利した記念日

8月15日はイギリスではVJ DayVictory over Japan Day)対日戦勝記念日。 

 ガーディアン紙(The Guardian)から写真を二枚切り取ってみたが、タイトルに

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 Victory over Japan Day 75th anniversary 

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UK marks 75th anniversary of Victory over Japan Day 

Japanというのが入る。終戦記念日解放記念日ではなく対日戦勝記念日

オランダでもJapanが入り、”Nationale herdenking capitulatie Japan”となる。日本が降伏した日、旧植民地インドネシアが解放された日である。

毎年大きな式典が執り行われ、今年はリュッテ首相(写真奥の人)が胸をうつスピーチをした。なんと首相の父上は日本軍占領下のインドネシアに住んでいたのだ。父親から聞いた戦中の話や、映画『戦場のメリークリスマス』を一緒に見にいこうと誘ったら断られたエピソードなどが語られた。

https://nos.nl/data/image/2015/08/14/183652/xxl.jpg

https://nos.nl/

オランダ人被爆

オランダ国営放送にjeugdjournaal.という子ども向けの報道番組があり、世界のニュースを扱い、充実したしかも楽しいラインナップで、私も時々見ている。そのサイトでも15日のニュースの一つは「日本の天皇が戦争をやめた」というタイトル。右下(9日)は、長崎に落とされた原爆を生きのびたオランダ人たちの話。

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ヨーロッパの国々で一般に「終戦」は5月である。しかし旧植民地インドネシアに住んでいたオランダ人は、1942年に日本軍の捕虜になったあと、インドネシアや日本各地で過酷な強制労働をさせられた。

以前朝日新聞で読んだショルテさんという方の終戦は8月19日であった。彼は1943年に長崎の「福岡俘虜収容所第14分所」に移送され、三菱重工長崎造船所で働かされた。ちなみに前回エントリの、きのこ雲写真の香焼(こうやぎ)にも収容所があったそうだ。

ショルテさんの第14分所には敗戦時、195人の外国人がおり、うちわけはオランダ人152人、オーストラリア人24人、イギリス人19人ということである。

原爆投下後も、日本人の遺体運搬の仕事をさせられ、戦争の終わりを告げられたのは8月19日のことである。被爆者の認定を受けたのは2009年。なぜこんなに遅いかと言えば、それまでは日本でしか申請・手続きができなかったからだそうで…(言葉もない)

 

死の鉄道建設

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死の鉄道というものが幾つあるのか私は知らないのだが、インドネシアのこのスマトラ横断鉄道 は第二の泰緬鉄道とも呼ばれるそうだ。ここでも多くの連合国の外国人たちが働かされ、多くの犠牲者を出した。資料がなく(処分したか?)日本でもほとんど知られていないようで、オランダ人の証言は大変貴重なものである。そして日本が降伏したあともそれを知らされず働かされたという。

 

スピーチへの厳しい目

毎年日本ではどのような式典が行われたか、数多くの写真とともに、イギリス、オランダでは特に紙面をさいて報道される。私はオランダ NOSの報道を毎年見ている。

今年の天皇陛下

(引用)

ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

この一節にだけオランダ語字幕が付く。「反省」天皇はちゃんと言った。

首相スピーチには「反省」の言葉はなかった、とバッサリ。

 

国家主義の誘惑

海外に住んでいる日本人は5月の解放記念日はまだよいが、8月のこの時期がとてもつらく感じる。どうして「ナチスドイツとの~」と言うのに、日本は単に「日本」なの?報道などで「日本」と連呼されると、「現代の日本とは違うのに。あれは昔の日本だ」という意見も聞かれる。しかし本当に現在の日本とつながっていないのか。

iPhoneのフォトに、関連した写真が提示されるサービスがある。ああ、去年はこうだったね~と懐かしがったりする。2年前にドキュメンタリ『国家主義の誘惑』を見にいった時の写真がけっこうあって、あの時のことを鮮やかに思い出した。たった2年前なのにすごく昔みたいな気がする。

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私は映画のレビューを書く気はないのでそちらはSPYBOYさまで❢(←いつも丸投げの、他力本願ですが、とってもいいので是非こちら↓↓)

spyboy.hatenablog.com

映画とトークショーがセットになっていて、上映後、日替わりの豪華ゲストが渡辺監督とフリーでお話をするのだ。実は知り合いがゲストの日もあったのだけど、とりあえずミーハーっぽく白井聡氏の回を選んだ。SPYBOYさんは加藤陽子氏の回。

公式HP監督のことば | ドキュメンタリー映画『国家主義の誘惑』

日本上映に寄せて
作品の動機

どうして?どうして!と、つぶやいてる間に日本の政治は常軌を逸して行きます。政治不信という形容を凌駕して、政治への破壊願望がどこかにあると思えてきます。私の経験に照らしここまで地に落ちた日本の政治を見たことがありません。個人的経験を超え歴史という鏡を覗いてみましょう。・・・(ぜひHPで全文読んでください)

 

これね、全く同感。「どうして?どうして!と、つぶやいてる間に日本の政治は常軌を逸して…」。そして今だってそう思っている。どうしていつもこうなっちゃうの?日本、おかし過ぎると思っている。

ところで一点だけ「日本上映に寄せて」とあるのは、渡辺監督はフランス在住の方で、このドキュメンタリはArteという独仏共同出資のテレビ局のために作られており、フランス語、ドイツ語を解する西洋の知識人視聴者をターゲットにしているから。

映画のことはSPYBOYさまにお任せだから、私は他のことを書こう。

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トーク後。当時ほとんどアイドル的存在だった白井氏。サイン攻め(笑)。

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(↑こちらの上品で柔和、かつ知的な雰囲気の方が監督さん。今はもうこのタイプのステキな男性はお目にかからなくなったな。)

ポレポレ東中野」という映画館は予約や当日券で座席が埋まると、立ち見ならぬ座り見の番号札を配る。すなわち通路に座るのだ。しかし私は最も良い場所、白井氏の真ん前に体操座りで陣取るという、何とも凄い座席を引き当ててしまった。だからトークの時、白井氏は私にじっと下から見つめられるわけ(笑)。冗談はさておき、二人ともかっかと怒っていた。わかる、わかる。私はお二人の気分が手に取るようにわかった。会場の皆も共鳴するようにうなづき、怒りを表して、全体で不思議な一体感のようなものを醸し出していた。

白井氏は映画に出演しており、その映画撮影から2年経つわけだが、さらに日本の劣化・腐敗ぶりは甚だしさを増している。そのことをため息交じりに嘆く。語る。もう語りたい、はき出したいのだ。

映画の中で金平茂紀氏(TBSキャスター)が「今の日本は1930年代に似ている」というのに対し、白井氏は「東條内閣の1943年ころに似ている」と。

曰く、東條は戦争回避のために送り込まれたはずなのに結局戦争に突入してしまう。アベノミクスはさしずめ真珠湾奇襲。つまり物価を2%上昇させるのが目的で、あの戦争も短期決戦なら勝てるという目論見だった。株価は大本営発表といったところか。それにしてもあんな頭が悪い人間が2期も総理大臣をやるなんて信じがたい、さらに三選なんて!…

白井氏は怒りのあまりイラついて、終始貧乏ゆすりしていた。私の鼻先でね(笑)。

とにかく話したいことがたくさんあってトークは止まらない。30分くらいオーバーしてしまい、司会の人が「あのう、そろそろ…」と言うと、渡辺監督は「ではまとめに入ります」。会場は爆笑だった。渡辺監督、本当にいいな。

思い出話はここまでにして、このとき私は見なかったが『乱世備忘-僕らの雨傘運動』も上映しており、小さな写真展をやっていた。先日のアグネスさん(周庭)の逮捕でこのドキュメンタリのことも思い出した。

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蝶の羽化はいつ見ても神秘!

先日id:miyotyaさまがクロアゲハの羽化の写真を載せてらした。

miyotya.hatenablog.com

私は今朝ラッキーなことに居合わせることができた。朝の5時くらいに見たらサナギの殻を通してアゲハ蝶の羽の模様が透けて見えたので、まもなく羽化するな、と思った。朝食が終わって部屋にあがってみるとちょうど始まるところだった。

まずブルブル小刻みに震え、頭が出てきた。コラージュ写真で見てね!

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翅は最初はくしゃくしゃ、でもすぐに伸びる。それをパタパタと乾かして1~2時間もすると空へ飛び立っていった。

では今日はここまで。また次回。

カラー写真で見るきのこ雲の衝撃 &夏はトトロを見る(笑) 

戦争のことを考える8月です。

前回に続き、今日も戦争について新たに学んだことなどをメモしておこう。

昔の白黒写真のカラー化

カラーで見るときのこ雲の恐ろしさが限りない。

元の写真はこちら原爆投下15分後に爆心地から9.4㌔の旧香焼村の造船所から撮影された巨大な雲(松田弘道氏撮影) 写真|【西日本新聞ニュース】

地名の香焼こうやぎと読むそうだ。香焼にこのとき立って見ていたあの人たちはどうしたんだろう。雲の立体感・重層感に加え、カラー化により立ち現れた雲の複雑な色に驚く。

写真のカラー化や補正をなさっているのは、渡邉英徳氏(東京大学 大学院情報学環・学際情報学府 教授)である。氏のツイート(写真)を見るのは普段なら楽しみであるのだが、戦争関連は身が引き締まり、圧倒され、恐ろしくもある。 

一匹、二匹と数えられ、国に捨てられた孤児たち

2年前に朝日新聞NHKでは戦争孤児(「駅の子」)に関する特集を組んだ。

インタビューや数多くの資料・写真をもとにまとまった企画だった。どのエピソードも胸を締め付けられる。特に女児の苦労、襲われぬように男子の格好をしたことや、上野駅の狩り込みに遭った子らはトラックの荷台に積まれ、山奥へ捨てられた話とか…。

厚生省は1948年になってやっと調査を開始。戦争孤児は12万と算出したが、そのなかに養子になった孤児・沖縄県の孤児・路上にいた浮浪児などは含まれていないのだという。病死8万人も内訳はわかっておらず。国のやる気のなさは見え見えだ。結局ここでも動くのは民間や個人だった。

もう5年も前によんばばさんがこちらの本を紹介しているのでシェアしておきたい。

yonnbaba.hatenablog.com

新しいものでは、NHKディレクターが孤児たちの壮絶な体験をまとめて書籍化した。→

「駅の子」の闘い 戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史 (幻冬舎新書)

2020/1/30 中村 光博 (著)

 

長崎修学旅行

タイムラインで流れてきたこちらのshirasshさんの話がよかった。

20年前の長崎への修学旅行を振り返っている。初日の夜は被爆者講話をしてもらう。実行委員会の生徒たちが中心になり司会進行する。講話のあとのお礼も、まじめで優秀な模範的女生徒がきちんと原稿を用意していた。

(引用)だが知識と体験者の生の話は全然違う。妹が火傷にウジがわきもがき苦しんだ末に、列車に飛び込んで死んだという壮絶な話に、生徒たちは真剣に聞き入った。

講話が終わりお礼の挨拶となった。原稿を用意していたはずの彼女がまったくしゃべれない。涙をこらえながら彼女は言葉を絞り出した。それは今聴いたばかりの講話の内容を踏まえたものだった。彼女は講話を聞くうち予定原稿ではダメだと判断し現場で全部やり直していたのだ。
被爆者講話は何度聴いてもつらい。教員だって泣きたくなるのだが仕事だからと堪えて聴いている。でも彼女のお礼の挨拶で完全に涙のダムが決壊してしまった。

ツイートの反響が大きかったので翌日のことも書いている。

3つのクラスが朝イチで平和公園に行ったのだけど、生徒がスーパー真面目モードになってて、予定時間より30分も早く集合完了してしまい、平和公園に着いたのが7:10。

セレモニー終えても7:30。原爆資料館の開館は8:30。

早朝ガラガラの平和公園で過ごす1時間は長かったよ〜。

…と明るく締めくくっている。

 

長崎は巨大な墓の上にある街

さきのカラー化きのこ雲のツイートへの返信steward_fox/が話題を呼んでいた。私も長崎は行ったことがなく、被爆地層という言葉も初めて聞いて無知を恥じている。

(長崎の)爆心地公園に地面を掘って横から覗ける様にしてある

被爆地層と言うものがあります

30cm程の隙間に家も家具も全てそのまま圧縮されて残って居ます

私達の街は巨大な墓の上あるのだとよく分かると思いますsteward_fox/

参考:被爆当時の地層 | 長崎市 平和・原爆 

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ベルギー大使

現在の駐日ベルギー大使は女性のかたでロクサンヌ・ドゥ・ビルデルリング 氏。就任して1年だそう。コロナにも負けず精力的な交流活動をなさっている。

広島にも長崎にもいらした。

先日(8月12日)国際青少年デー(InternationalYouthDay)には東京の小学校を訪ねている。

核兵器ゼロが広島と長崎の犠牲者への償いになる」

ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相のメッセージがすばらしかった。

全訳:NZアーダーン首相「核兵器ゼロが広島と長崎の犠牲者への償いになる唯一のこと」【広島原爆の日・メッセージ全文】 | ハフポスト

 

死者の声を運ぶ小舟

小川洋子NYタイムズに寄せた文章がとてもいい。長いけど本当にいい。お時間あるときにでも。

www.nytimes.com

 

ベルギーの新聞のひとこま漫画

見るだけでわかる(笑)。コロナと太陽のヤツ、手を組みやがって腹がたつったらありゃしない! 

https://plus.lesoir.be

Le Kroll du jour sur le Covid-19 et la chaleur

https://plus.lesoir.be/sites/default/files/dpistyles_v2/ena_16_9_extra_big/2020/08/07/node_317896/27661724/public/2020/08/07/B9724229758Z.1_20200807232857_000+GGRGF3BN4.1-0.jpg?itok=R3IzGdoC1596874371

ここからは単なる個人的なメモなんだけど、先日金曜ロードショーでトトロをやったのでファンがかまびすしい。

①ファニング姉妹可愛いんだな!

https://i.ytimg.com/vi/l26xb0FRsO0/maxresdefault.jpg

②お父さん

③ オート三輪の解説

④「す」何度も見ているのに気が付かなかった💦

 ⑤宮崎駿

ではまた次回!

コメント欄、一旦閉じさせていただきますね。みなさん、いつもありがとうございます。

渋谷の青ガエルが去り、上野公園口に新駅舎と広大なロータリーができた話。

引き籠っている間にどんどん変わる東京

戦争のことを考える8月の続きを書こうと思っていたが、今日は別の話題にしたい。

先日もぶじん(id:kofunmeguri)さまが、渋谷駅前でハチ公とともに愛されてきた青ガエル("green frog")撤去の話を書いていた。コロナ禍で外出しないものだから、周辺のことにすっかり疎くて寝耳に水だった。待ち合わせ場所のひとつであり、案内所としても使われていた青い車両。だからきっとTVニュースでもやったはずなのだ。それなのに全く知らなかった(私だけかも😌)

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 渋谷の「青ガエル」駅前から去る 東急5000系

kofunmeguri.hatenablog.com

青ガエルちゃんは秋田県大館市にもらわれていった。ぶじんさまのエントリは、経緯や梱包されて運ばれていく様子など、写真付きで丁寧なレポートになっている。

ピカピカの上野公園口

徒歩で行ける上野近辺は前はしょっちゅう散歩に行っていたものだ。新駅舎がオープンしたのは6月くらいだったと思うが、先日重い腰をあげて見てきた。

以前は公園口から小さな横断歩道を渡って、動物園やミュージアム群のある上野恩寵公園(←正式名称)の敷地に入っていた。動線が悪く人混みになりやすく、安全面にも問題があり、待ち合わせをするにも適切な場所がない。というわけで、五輪に合わせて大掛かりな工事が行われていた。

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新しい駅舎。右端に見える緑色の所が旧改札口。あそこから100m北側(写真の左端)に移動させた。

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現在の改札口。写真がよくなくてすみません。駅舎にはカフェやコンビニなど店舗が入っている(エキュート上野)。私の訪ねた時間は朝7時なのでまだ開いていない。

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二階から見る。左に東京文化会館、右に西洋美術館の建物が見える。まっすぐ先に動物園があり、歩行者の動線としては理想的。

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展望テラス。植栽がとってもきれい。

 

上野愛と上野動物園モノレール

これもぶじんさまに教えてもらったことである。

記事はこちら↓ お写真が良い🤩

kofunmeguri.hatenablog.com

多摩美術大学 ・統合デザイン の学生さんが授業の課題をツイート。(「反乱」か「氾濫」かはさておき)。

これを紹介しながらぶじんさまのエントリはこのように始まる。

 Twitterで話題の「不忍池大反乱」上野への愛が溢れてる。ちなみに上野動物園のパンダ舎は今年3月頃完成予定で、不忍池のとなりの西園の旧子ども動物園跡地に移転して新しいジャイアントパンダ展示施設「パンダのふるさとゾーン」(仮称)として新規整備中。これでパンダが不忍池で大暴れする環境は整う。

新しい施設もできれば消えゆくものもある。この学生さんの絵で心打たれるもの、それは北斎和船モノレールになっていることである。上野動物園に来たことがある人ならあの可愛らしい懸垂式のモノレール、乗ったことがなくてもご存知だろうと思う。(ぶじんさまもモノレールの写真を載せてらっしゃる↑)

子どもと一緒に何度も乗った思い出がある。しかし昨年秋、62年の歴史に幕を下ろした。やはり採算面で難しいらしく苦渋の決断だったようだ。確かラストランには抽選で当たった50人が乗車と報道にあった。

それでも上野動物園モノレールは永遠に私たちの記憶の中で走っている。

 

観光客がいないと静かな上野・御徒町エリア

前にガード下のお店「金魚」を載せてたまうきさまがしきりに懐かしがっていた。あそこは有名でファンも多いしコロナ禍にあっても大丈夫。ちょっと通りかかったら、ステキな女将さんがテーブルをアルコール消毒して忙しそうに動いていた。

長く上野・御徒町に来たことがない人はきっと驚くだろう。ガード下はずいぶんおしゃれになった。最近の写真を載せてみよう。

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↑右:自転車置き場にしている。↓自転車一台、さすがに人が来ていない😓

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クラフトビールのお店。

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他にもカフェやブティックや…。

ガード下のおしゃれなゾーン以外は、昔と変わらず昭和臭漂うお店が立ち並ぶが、コロナ禍、人出は大変少ないと言える。いつもならアメ横は外国人観光客で混雑し、中国語はじめ様々な言語が飛び交い、なかなか前に進めないのだが。

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ここまで2020年8月、閑散と言ってよいほどのアメ横の昼時。

去年(2019年)の写真を二枚引っ張り出してきた。見てみよう。

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服装・持ち物でわかると思うが圧倒的に中国人が多い。

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最後に上野の喫茶店2軒 (私は入ったことがない)

ギャラン」人気の喫茶店

入り口は狭いがお店は二階で広く、昭和の高度成長期のギラギラ感に溢れているとか。インテリアのことだと思う。名前からしてギラギラの昭和だ。

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昭和に完全にタイムスリップした気分「」。老舗の純喫茶、よい佇まい。
参考:『純喫茶に恋をして』より - フジテレビュー!!

 

そんなわけで今日は上野のレポートをお送りしました。

レポーターは私、東京藝大の学園祭がコロナで中止、つまんないとすねているスネシオでした😥

75年の夏 戦争を振り返るメモ

あれから75年、また戦争のことを考える8月がやってきた。

学んだことをメモしておこう。

1.見るなり凍り付いた写真

散っていった特攻隊員と船上の甲板から見ているイギリス兵たち、どちらのことも考えた。だけど「激突」したのか?

重巡洋艦サセックス は1945年になると東南アジアへの攻撃作戦に参加していたが、7月26日、カミカゼの攻撃を受けたという。九九式襲撃機(開発・製造:三菱重工業)であるらしい。連合軍のコードネームは Mitsubishi Ki-51 "Sonia". ソニアと呼ばれていた。(HMS Sussex (96) - Wikipedia

直接ぶつかったのではなく撃墜された機体の破片が偶然こうした跡を残したということらしい。(私の理解が正しければ)。言葉を無くす。

*追記:8月9日たまうきさま id:ni-runi-runi-ru から教えてもらいました。ありがとうございます。引用させていただきました。

107教育飛行団第3教育飛行隊の練習機九七式戦闘機3機(イギリス軍はソニアこと九九式襲撃機と誤認)  で編成された陸軍特別攻撃隊七生昭道隊が攻撃。

対空砲火で撃墜された1機の破片が側面鋼板に衝突して 飛行機型の傷を残したが、死傷者は出なかった。

他の1機は掃海艦ヴェステルに命中しこれを撃沈、 残る1機は護衛空母アミールへの至近弾となった。

2.「原爆の図」を紙芝居にしたアメリカ人

よくそんなことを思いついたものだと当初は思った。「原爆の図」は屏風仕立てで壮大な世界であるし、紙芝居といったら普通ジャンルとしては子ども向けと考えてしまうから。アメリカ出身の詩人アーサー・ビナードさんが美術館の協力を得て制作を開始、という新聞記事を読んだのはずいぶん前のことで、それが昨年完成したことはやっと最近知った。完成まで7年の年月が流れている。

https://www.doshinsha.co.jp/book_imgs/9784494080847.jpg

ちっちゃな声。

「はじめまして ぼくのなまえは くろ

君は人間だな 

ぼくの ことば わかるかい 

それはよかった…」

 で始まる。あまり内容に触れたくないので気になった方はご自身で読んでください。

「原爆の図」私は直接見るチャンスはまだないのだが、あちこちで紹介されるので幾つかの絵は見たことがある。画家の丸木位里、俊夫妻が30年以上の年月をかけて共同制作した屏風絵、全15部から成り、1~14は丸木美術館(埼玉)、第15部「長崎」は長崎原爆資料館蔵。東京在住だった夫妻は原爆投下後に位里さんのふるさと広島に入り、家族や親戚の世話や救援に当たった。その当時見た事を中心に1950年から制作を始めた。

一方ビナードさんは福島の原発事故がきっかけだという。「原爆の図」のメッセージを新しく読み直そうと思い、じっくり向き合った。これはゲノム編集そっくりだと言う。丸木さんは将来紙芝居が生まれるとは思ってもいなかっただろうが、絵の中に具象的な表現が多くあり、それをもとに紙芝居が作れるな、子どもたちに見せたいと思ったそうだ。紙芝居は童心社から出ている。

www.doshinsha.co.jp興味のある方、去年中国放送RCCテレビ)の特別番組。丸木夫妻の「原爆の図」をもとにしたアーサー・ビナードさんの新作紙芝居『ちっちゃい こえ』制作を追う。2019年3月27日

www.dailymotion.com

 

3.原爆を落としたのは…

国外に住んでいると、大人でも子どもでもどうしても気が塞ぐ日が、年に何回かあるといってよい。やはりこの時期8月はそのひとつだ。そうした子ども時代の思い出を紹介してくれたリサさんlisakogawaのツイートに胸打たれたので紹介しよう。(全文はtwitterのほうでどうぞ)

この時期になると、中学2年生の時に歴史の授業で「原爆を落としたのは正解だったか否か」のディベートがあったことを思い出す。大抵の場合アメリカ的には原爆を落としたからこそ戦争が終わったという的なことを大抵教えられ、…(略)

で始まる。クラスに日本人はひとり。順番が回ってきたら「同じ意見です」と言おうと思っていた。 番が回ってくる前に教科書にふと目を落とすと、手紙の写真があった。原爆に遭った人が震える手で書き記した街の情景と絶望の気持ちと「あつい。あついよ。お母さん。」のようなことが書いてあったという。その日本語を読めるのは自分だけだ。読んでいるうちに心が重くなり息苦しくなった。皆が自分を見ている。やっとしぼり出した言葉は「わからない」だった。

(引用)最初は私も、みんなと同意見でした。日本人だけど親戚に被爆した人がいるわけでもないし、過去のことだし、まだ戦争のこととかよくわからないし…でもこの手紙、私だけがこの手紙の内容を読める。これを読んで、どうしても原爆を落としたことが「正解だった」とは言えない…」的なことを言ったと思う。もっと何か言ったかもしれないが覚えていない。頭がぐわんぐわんしてた。涙がじわりと出てきた。
やってしまった、と思った。泣くな、泣くな!!!これ以上奴らに恥を見せるな!と言い聞かせたけど涙が何故か止まらなかった。…

すると隣の席の人が いきなり「私の意見を撤回します」と言うのだ。

(引用)「私もさっきまではアメリカがしたことが正解だと思っていましたが、今のリサを見てみて相手の立場の目線にも立つべきだと思います!」と言ってくれた。驚いた。え?とびっくりしていると周りもどんどん「同じくです!訂正します。」「そもそもこの教科書の内容は一方的すぎでは?」「他に違う方法があったんじゃないでしょうか?」「異議あり」とディベートが再熱し始めた。…

さすがアメリカの学校だなと思わせるエピソード。あとでわかるが先生も学校の方針もすばらしい。生徒の自主自立、個性を大切にする方針でディベートとプレゼンが多かったそうだ。

ここで思い出すのは猪口邦子氏の「パール・ハーバーの授業」(以前ちょっと扱ったパール・ハーバーの授業 & 日系人収容所再び)。ここに出てくる教師もすごかった。

話が脱線して申し訳ないが、その猪口邦子氏である。稲田元防衛相ら「国防女子」議員 打撃力保持を提言:朝日新聞デジタル

国防女子になっちゃったの?こちらの写真松川るいに「国防女子の会」メンバーが写っている。信じられない。

 

4.原爆投下の惨状伝える取り組み 高校生が作ったVR

終戦75周年ということで、アメリカの番組で福山工業高校を取材していた。(↓中に動画があり、なんとスクリプトまでついている。親切!)

www.pbs.org

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取り組み自体については、こちら日経の記事が詳しいので貼っておくwww.nikkei.com/

広島県立福山工業高校の生徒たちがVR技術で爆心地の様子を再現した。専用ゴーグルとイヤホンで追体験するらしい。

記憶の継承はどこでも大きな課題である。惨禍を生き抜いた人たちも高齢化が進み、少なくなっていく一方であるが、こうして若い人が伝承に力を貸してくれるとは勇気づけられる。

この制作にあたり、計算技術研究部の生徒たちは100人ほどの被爆者に取材し、当時の資料、特に産業奨励館の設計図などを集めた。建物の高さや色や音などにこだわり、映像として作り込んでいったという。

 

www.nikkei.com

今日は終わります。

また次回!

 

🌸わが家の写真

桔梗がいつになく花盛り。

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やっとクロアゲハが来たっ!飛び立つ日まで観察します。

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コロナ時代を健気に生きる &雨合羽の行方 &銀河元老院みたいな映画館 ほか

末期症状の支離滅裂列島

さきほど爽風上々 (id:sohujojo)さんもこの話題だったが、結局今年のお盆は動けないだろう。移動を控える人は多いようだ。

五月の連休もダメだったし、その前のいわゆる春休みだってどっこも行けなかった。ご実家が心配な人は大勢いるにちがいない。お盆に会えないとなれば次はいつ?と考え、もしかしたら最悪のことも…と心の用意をする。

強盗キャンペーンとコロナ対策の無為無策で、今や日本列島は人体実験場になっている。衆愚の極みばかり目にし、精神的なダメージをより減らすため、ツイッターを見るのは一日に朝夕15分程度と決めているのだが、さきほどめちゃくちゃ大きなパンチを喰らってしまった。

ギャグならわかるんだ。でもすぐあとで大阪在住の人が、ドラッグストアの空の棚を写した写真をツイートしていた。 現実世界の話だった😱

吉村氏は超マイナーと思われるベルギー関連のイベントにも参加してて、見た(←会ったとは言わないよ)ことあるけれど、一応まともそうに話はしていた。でもこんなに愚かとは。

例の雨合羽の件もあるから大阪の人は辛いな。ま、よそのことは全然笑えない東京である。緑のたぬきさんに投票した人はどう思ってるのか。

今日のこのツイート見ても泣けて仕方がない。あれから何カ月たったか。

システムは既にあるがうまくいかない理由はこちらで→ 東京新聞 TOKYO Web

東京都庁にはコロナ対策部のファックスは二台しかないという。これ、もう有名な話だと思う。在住の外国人たちも盛んにツイートして呆れていた。

しかも田村智子議員が厚労省に確認したら、統計担当の正規職員がたった1人だったというのである。相も変わらず保健所から集まる数字を手作業で処理しているんだとか😰

小池さん、この期に及んでもまるでやる気なし。

また雨合羽の話にもどる。あの時、つまり夥しい数が郵送で届き、対応に大わらわだった大阪市の職員たち、その様子を報道写真で見て憐れみと怒りを覚えた。何ということをさせるんだと。

まず雨合羽は医療ガウンの代わりにはならない。

そんな必要でないものを一方的に送り付けるのは、地震や洪水等の災害時、被災地応援のやり方として最も避けるべきことの一つ。そのことは私たちは既に学んでいる。

さらに職員の時間と労力を無駄に奪い、保管場所にも困り、処分方法も難しい。

個人的にこの雨合羽の件はどう処理するだろうと興味を持っていたら、以前こんなツイートをしている大阪の人が。

「雨合羽の行方 」私もぜひ知りたい。

雨合羽は台湾からも大量に贈られたはずだ。この記事http://japan.cna.com.を見たとき愕然とした。医療ガウンを頼めばよかったのに。

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でも台湾の人にはいつも心から感謝している。優しい人たちだ。ありがとう。

今になっては、4月~5月の緊急事態宣言の時期って、予行演習のようなものだったなと思う。これから、といってももうだいぶ経つけど、本番、しかも第一章を迎えているのだろう。そしてコロナの生活はこの先何年も続くのだ。 

 

このあとは心休まる楽しい話でいこう❢

ツイートのおかげで救われてる私。神経病みそうな所から毎回引き上げられる感じかな。

①どこも行けない夏なのに、皆さんみせびらかすかのように執拗にツイートで誘惑してくる😅

行ってみたい!もうね、どこでも行きたい。

このブログを読んでいるみなさん、信じられないかもしれないけど、私は1月21日に東京都美術館ハマスホイ展を見に行ったあと、誰にも言われるともなく翌日から自主的に外出自粛生活に入った。人が動くことはウィルスも移動させるから。

そのあと緊急事態宣言。解除になってから一度だけ、6月末に映画『なぜ君は総理大臣に~』を見に行ってまた外出自粛生活に。長くうんざりする日々である。どこまで耐えられるか挑戦しているわけではないんだが。(歩いて買い物には行っていますよ😁当たり前か)

セガが小さくすればニンテンドーは大きくする。(とTwitter主の解説。私がフォローしているフランス人)

 香川県にあるゲームボーイ型の郵便受けらしい。香川県では有名なのかな。

③コロナ時代の映画館(パリ)

銀河元老院みたいだと話題になっている。

https://i.dailymail.co.uk/1s/2020/07/16/19/30799046-0-image-a-5_1594922614126.jpg

www.youtube.com Pierre Chican

これからできるらしい。この建築家  Pierre Chicanはここ10年以上パリの劇場を設計している。去年うちの夫と息子はChican氏の前の作品、同じくパリのUGC Bercyという映画館に行ったようだ。

④ベルギー人もおもしろい。ぶっ飛んでる!

 Atsukan「あつかん」というお店。なんと風呂に浸かって日本酒が飲める。カウンターにとまってお酒と料理でもいい。ブリュッセルにある。

詳しくはHP:Wellness - Atsukan — JAM

https://images.squarespace-cdn.com/content/v1/56d84af24c2f850e70b66923/1591256391631-6AL4I0PTFOKYVQLTQYQZ/ke17ZwdGBToddI8pDm48kKtijf5x5S0rIV7X_qDH3dB7gQa3H78H3Y0txjaiv_0fDoOvxcdMmMKkDsyUqMSsMWxHk725yiiHCCLfrh8O1z5QPOohDIaIeljMHgDF5CVlOqpeNLcJ80NK65_fV7S1UaZbTVdO5VSPAOxIcVIbmIFLIFeVDbQiz7iBIgNCzklBDD2o6CESiqIlH5ssNFrtmA/ATSUKAN-200602-5D4_4428-WEB-XP-PRESSE.jpg?format=1500w

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また次回に続きます。

哀惜 ひとつの時代の終わり

李登輝氏が亡くなった。ひとつの時代の終わりを感じる。とりわけ最近の中国は動きが不穏だからよけいに危機的に感じる。

李登輝氏は司馬遼太郎氏と同じ年で親交を結んでいた。「私は22歳まで日本人だった」という言葉も有名だと思う。旧制高校から今の京都大学に進んだ。そして「民主主義の父」と呼ばれ、現在の台湾の基礎を創った人だ。2002年に慶應大学で学生相手に講演をするという噂を聞き、私も何とか会場に潜り込めないか探りを入れていたが、日本政府からビザ発行を拒否され、実現しなかった。日本に対し、特に日本の若者たちに向けて話したかったことがたくさんあっただろう。日本人が真摯に耳を傾けなければいけない貴重な指摘や忠告の数々が。

「台湾に生まれた幸福」

その国に生まれて幸せだった、と言えるっていいね。

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(上野 ガード下 2019年)

 

リーダー氏の訃報

10日ほど前のエントリに上がダメでも市民で勝つ(願い)&ベルギーには井上礼之通りがある(トリビア) 財務省前抗議に行った話を書いた。その抗議自体は2018年4月22日とずいぶん前のことだが、主催する人たちと私が初めて言葉を交わした思い出深い集会なのである。この方たちがデモを準備し主催し、呼応した市民たちが安全に集まれるようにサポートしてくださるおかげでこれまでつつがなくやってこれたのだ。

「今はコロナで集まれないけど、皆さんお元気だといいな」と書いた。するとSPYBOYさまがコメント欄で「怒りの可視化氏が亡くなった」ことを教えてくださった。あまりの驚きで俄かには信じられなかった。まさか、そんなことって!

彼の写っている写真をスマホの中に探した。何枚も持っている。ほらこんなにお若いのだ。私より20歳くらいは下だ。どうして?急逝なんて理解できない。

今日は、あの財務省前のエピソードをもう少し続けようと思う。まず前回書いた分。

私はいつも周りの皆さんにご挨拶をする。その時一人の男性が「twitter見てきたんですか」と聞いてくれ、会話が始まったのだ。女性たちは皆明るくて服装がおしゃれだった。プラカードを渡してくれた。

この最初の男性は、物静かでちょっと仙人風な紳士だった。とはいえ、私よりは年下だろう。「あの人がリーダーだよ」とも教えてくれた。

仙人氏はさらに聞いてきた。「前にもデモや集会に行きましたか?」

「はい、行きましたよ。先日の国会議事堂前とか、3月の新宿伊勢丹前とかですね」

仙人氏は私の目の奥を覗き込むようにしてこう言った。「あのう、そういうのとちょっと違って、うちのコールはあまり品のよくない言葉も入るんです。それは大丈夫ですか?」

この人は何を言っているんだろうと思った。ややあって、やっと意味を理解した私が「ああ、全然大丈夫ですよ。ご心配なく」と言うと仙人氏はニッコリして去った。何と優しい細やかな心遣いだろう。下品なコールに私がショックを受けるのではないかと心配してくれたのだ。今思い出しても驚きだし、笑ってしまう。

リーダー氏のコールが始まった。「セクハラ フクダ は さっさと 辞めろ」とか、麻生氏の責任もあるから二人とも辞任しろ、といった内容のコールだった。別に過激なことは何もない。リーダー氏はちょっと休憩するため、マイクを女性(「肉球新党 」さん?)に渡して後ろにさがり、私の隣に来た。女性のコールが始まる。

セクハラ フクダ は ジゴクに 落ちろ!

リーダー氏は下を向いてぷっと噴き出した。私も同じく噴き出した。他の人も笑っていた。過激なコールをするのは女性のほうだったというわけ(笑)。

私も大声でコールを繰り返したが、その甲斐なく福田淳一氏は地獄には落ちず、前にも書いたとおり、通信制SBI大学院大学の教授になった。

リーダー氏のご冥福を祈ります。残った私たちは自分のできる範囲でまだまだがんばります。

 

R氏のいないHatena Blog あれから1年か。

R氏の釣りブログ、ご存じでない方はごめんなさい。

私ははてな帰属意識が希薄で、あまりフォローもしないしフォローされても返さない。というのも心の中で「もうすぐ止めるんだから」と思っていたので。ブログを始めて半年過ぎたころはブログを書く意味はすっかり失っていた。そのころR氏のブログに出会ったのだ。ちらと読んだらおもしろくてもう少しはてなを続けてもいいんじゃないの、やめたら読まないだろうし、と思った。

何がおもしろいか、当初は「日本語」だった。彼の使う独特な日本語文。まあ知っているかたもいると思うけれど私、一応それが専門だったので。

それから中毒になりそうな独特の語りだ。話術というのか。やや古めかしく個性的な文体と用語選びも特徴的。国立国語研究所は彼のブログを調べに来い、と思ったものだ。(文章サンプルを集めている)

本文記事のおもしろさに加えてコメントの返しが秀逸だった。飄々としたユーモアで相手をくるみ、毒舌だけど決して傷つけない。ものすごい数の読者を相手にしているのに、誰に対しても分け隔てなく公平で、ひとりひとりきちんと応対する様子をいつも感心して見ていた。お悩み相談に応えて人生経験からひねり出す助言も適切だったし、社会批判は辛辣、政治関連事象の記憶力は抜群だった。

一度R氏が「セネシオさん、選挙には出ないのかね」と書いてきて面食らったことがある。応援すると言うのだ。何を勘違いしたのか不思議だ。

そしてそれは絶対にない!私がフィギュアスケートでオリンピック目指すとか、今からラッパーとして全国デビューするとか…そんなことがありえないと同じく絶対ないのだっ!さすがにわかってもらえたようだ。

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(丸いのはすべて「泥団子」 東京藝大学生の展示作品)

R氏のエントリ全体で感じるのは「包容力」かな。途方もなく大きな包容力。皆さんはどう思うだろう。在日の人たちへの視線の温かさは特に印象に残っている。

彼の中では日本も朝鮮半島も「東アジアのへん」。ざっくりとひとつの地域でいいじゃないかという持論だった。宇宙から見たらそんなものだろうと。「今ある国はいつ消滅するかも分からないし、国境など人間の欲の引っ張り合いの結果生まれたもの」と考えていた。国籍だって同じ、頼りがいのないものだと。

近所に、戦前夫婦で韓国から日本に渡ってきて、その後夫と死別し一人で子どもを育てたおばちゃんが住んでいたが、日本語を書くことができない。だからR氏は代筆をしたり、こまごました用を手伝っていた。在日の人たちからきっとすごく感謝されていたことだろう。

それは、子ども時代、仲良しの在日の釣り仲間(三人組だとか)がいて無心で遊んだ楽しい記憶が根っこにあるのだ。当時、差別があるのは知っていたがそれは大人の都合であって、気の合った子どもたちには垣根などあるはずがなかったと書いていた。

 

 R氏について書くと本当にキリがなくなるのでこの辺で終わりにしよう。

これまでも彼を話題にたくさん書いてきているが、ひとつあげるとしたらこちらお初のおめもじなれば… 

全く神様ときたら R氏を自分の脇に置きたくて連れていったにちがいない。

ではみなさん、また次回に!

民主主義は時間がかかる &シンボルスカの詩と大震災 ポーランド②

前回世界中がレーニン造船所にくぎ付けだった頃 「連帯」に続き、今日も、ポーランド在住のペレックさんのことと、私のささやかな思い出を中心に。また皆さんのコメントも紹介。

 

Airbnbに泊まる

1975年から夏は毎年旅行していた。81年は前年始まった「連帯」の活動に興味があって、チェコとドイツに行く前に10日間滞在した。(ビザを下に貼っておく)

実は最も困ったのは食事だった。ストライキ続きだったから商店の棚はほとんど空。市民には配給があるので少ないとはいえ問題はなかったようである。ホテルで何か食べられるでしょう?と思うかもしれない。当時西側の若者、バックパッカーでホテルに泊まる人はほとんどいなかったんじゃないかな。ホテルは団体観光客やビジネス客のためのもの、少なくとも私の認識はそうだった。なにしろヒッチハイクする人も多かったし、自転車・バイクも人気の移動手段だった。ヨーロッパの若者たちはキャンプ場を利用していたが、安全面から私はこれを避けた。

ワルシャワ空港に着いて中央駅まで電車に乗り、外に出ると民泊(今でいうAirbnb)を申し出る人たちが手に紙を持ち、並んでいる。紙には家の場所や値段などが書いてある。タクシーの運転手でこうした民泊と契約して(或いは友人で)紹介する方法もあった。私はプラハではこの方式で、運転手さんに案内してもらい、郊外の、大きな庭付きのすばらしい一軒家に、イギリス人やドイツ人と一緒に滞在していた。70年代、80年代はもちろんのこと、私たち一家がフランスにいた95年でも、帰国前住居を引き払ったあとは、民泊を利用してあちこちに住んでいた。

さて、ワルシャワ駅の外では値踏みが始まる。金額の話ではない。ドル払いで2千円前後(1泊食事なし)と大差はない。旅行者にとって重要なのは家主の雰囲気と家の場所。当然ながらポーランド人の側だって相手を選びたい。

私は小柄な婦人を見つけ、歩み寄った。退職した小学校の教師で夫とは死別、子供二人は独立したので部屋がふたつ空いている。街の中心に近く、閑静なところだと言った。実際に環境も家主の人柄も文句のつけようがなく、彼女からは多くのことを教わった。

さきに書いた食事の件だが、開いている数少ないレストランを探して一日一食はなんとかできたし、知り合ったポーランド人が家に呼んでくれたり、また家主が教えてくれたたドルショップで必要なものは買えたのである。

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写真:1981年のワルシャワ旧市街の広場。

こちらはwikiの写真。1860年代の広場 Old Town Market Place, Warsaw

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↓第二次大戦終戦直後の広場。

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Old Town Market Place, Warsaw

 

度重なる悲運の国 ポーランドのイメージ

マミーさん id:mamichansanから頂いたコメントに「何度も分割された悲劇の国家…」というくだりがあり、私も全く同じことを思っていた。なぜ?どうしてこんな目に遭うの?隣国ソ連スターリン)とドイツ(ナチス)はポーランドを山分けした…なんという酷いことを!悪い奴らめ!と憤っていたものだ。世界史の教師は地形的特徴を説明した。「平らな国土で攻めやすかった。山はポーランド南部の、国境辺にしかないからねえ」と。

ポーランドと聞いてギアさま id:sinsintuusin は「コペルニクスショパンキュリー夫人」とおっしゃる。私はショパンはともかく「あれ、そうだったの?」と常識のなさがバレる。そうだった、キュリー夫人。2回もノーベル賞をもらった偉人だった。

ポーランド文学賞に至っては4人が受賞している。そのことはあとのテーマで取り上げるとして、またちょっと脱線を…。世界史で習う「ポーランド回廊」Wikipedia

高校生の私はあれがおもしろいなと思っていた。「ぽーらんどかいろー」というのどかな音の響きから、古びた修道院の、中庭を取り巻く細い廊下(回廊)を、夢想癖のある頭の中で勝手に繋げていた。あの地域から『ブリキの太鼓』や「連帯」の運動が生まれるまでのことだが。その後頭の中の修道院は消えた。

 

ポーランドは詩の国 シンボルスカ

ペレックさんとポーランド人のご主人(←カッコいいからね!)との出会いがよかった。ヴェスワヴァ・シンボルスカ (Wiesława Szymborska)のノーベル文学賞受賞を祝う大使館主催のパーティで知り合ったのだ。お二人とも学生で。

nietoperek.hatenablog.com

シンボルスカさんが仲人と言ってもよいでしょう(笑)。

そしてシンボルスカだ。ポーランドの人はどう思うかわからないが、日本ではシンボルスカの詩「眺めとの別れ」は東日本大震災や福島と強く分かちがたく結びついている。

またやって来たからといって
春を恨んだりはしない
例年のように自分の義務を
果たしているからといって
春を責めたりはしない

 

わかっている わたしがいくら悲しくても
そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと
草の茎が揺れるとしても
それは風に吹かれてのこと

・・・

ネットでも全文を読めるので興味のある方はできれば全文、最後までどうぞ。

始まりは池澤夏樹氏だった。朝日新聞に寄稿し、シンボルスカの詩の一部を引用。震災からまだ1カ月もたたず、私たちが皆言葉を無くしてただ悲しみにくれていたころだ。詩の力は強い。その後多くの人がこの記事に触れ、シンボルスカ自身や訳詩集にも注目が集まった。2011年秋池澤氏は『春を恨んだりはしない - 震災をめぐって考えたこと』 という著書を中央公論から出した。

シンボルスカの詩はそれから一人旅であちこちに広まっていった。そして毎年3月が来ると人々の心の中でうたわれる。この時くらい、ポーランド語ができたらなあと思うことはない。やはり詩は原語だ。

 

U2も「連帯」のために歌を捧げた

ファンの人はご存知と思うが、アイルランドのロックバンドU2 が、1983年に出したアルバム「WAR」の中の”New Year's Day(NYD)”がそうだと聞いている。wikiからの引用をつけておこう。

www.youtube.com

ニュー・イヤーズ・デイ - Wikipedia

(略)

後にポーランドの大統領となるレフ・ヴァウェンサ率いる独立自主管理労働組合「連帯」をテーマとする曲となった。ボノはなかなか歌詞を完成させることができず、危うくアルバムから漏れるところだった(ちなみに歌詞にある「Under a blood red sky」の一節は、その後、ライブアルバムのタイトルになった)。レコーディング中、リリーホワイトは「Sunday Bloody Sunday」には特別なものを感じていたものの、「NYD」にはピンと来なかったが、スタジオに出入りしていたインターンの少年が、この曲が流れる度に興奮しているのを見て、「もしや」と思ったのだという[2]。

そして「War」のレコーディングが終わった後の1983年1月1日、実際にポーランド戒厳令が解かれ、この偶然にU2のメンバーは大変驚いた。…

 

ポーランドにミルクやおむつを送った大阪の人たち

九条の映画館シネ・ヌーヴォが「連帯」当時を振り返るツイートをしており、胸打たれる内容なのでぜひ紹介したい。

一部引用するが連ツイをどうぞ。 

1981年12月13日、厳寒のポーランドでは戒厳令公布で、血の日曜日と化し、組合員の逮捕、暴力など残虐行為が行われ、非常事態となった。今井氏から軍政となる前に「連帯」から生活物資の要請が日本に届いていたことを知り、この場で支援組織「ポーランドへミルクをおくる会」を結成することになった…

 

「私たちの組織は徹底した民主主義なので時間がかかります」ワレサ委員長の言葉)

前の記事にこれを書いたとき、この一文からshohojiさんが考えることは私ときっと同じだろうと確信があった。ベルギーやオランダの政治のことだ。組閣に一年以上かかることがざらにある。選挙が終わってもまだ内閣ができないの?と私は当初驚いたものだ。

連立を組むために徹底的に話し合うからだ。譲歩も必要なのだが、最近はますますまとまらない傾向で、さすがに王様にもお困りの様子(笑)。でも私はこれこそが民主主義だと思うし、民主主義は議論するから時間がかかる。日本の現政権はこれから最も遠い位置にあると思う。また市民の政治意識が低く、意見も言わず、投票にさえ行かず、監視もせず、お上にお任せの日本ではこうした民主主義はありえない。

shohoji id:shohoji さんがくださったコメントのなかで「民主主義は時間がかかる」のは「参加者の受ける教育と参加者自身の余裕が不可欠な面でも」とあった。この「教育」というところ、わかるなあ。学校だけじゃなく社会全体で、よい市民を育て、政治家を厳しくチェックし、ちゃんとした人を選ぼうということをまるでやってこなかった。今さら議員の質が…とか能力が…と言っても虚しい。人間性にも欠けたような、数合わせのためだけのタレント議員が増えるのはシステムにも問題あるかもしれないが、やはり私たち市民の意識の低さ、社会や政治は自分たちが作っているという意識が欠如しているからだと思う。それと、マスコミが全く機能していないからね(嘆息)。

今振り返ってみても、ワレサ委員長と連帯の運動は凄かったなとつくづく思う。

 

最後にまた写真を何枚か貼ってみる。1981年8月ワルシャワと10日間の観光ビザ。

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ポーランドは一旦終わりです。頂いたコメント、もっと取り上げたかったんですが、すみません。いつもありがとうございます。

 

世界中がレーニン造船所にくぎ付けだった頃 「連帯」ポーランド①

僅差の大統領選 わずか2ポイントで惜しくも…

書く書くと約束して伸ばし伸ばしにしていた方面のこと、少しずつ書いていきたい。ポーランドチェコ、イラン…あと何が続くかわからないけど、今日はポーランドである。

先日(12日)のポーランド大統領選は、見たこともないような僅差で驚いたし、何より国を二分してしまった問題を他国の人にも知らせる結果となった。

51.03%(現職)と48.97%ワルシャワ市長のチャスコフスキ氏。下の写真)

https://pbs.twimg.com/media/EdEKS0FWoAckRmH?format=jpg&name=large

(写真:チャスコフスキ氏のtwittertrzaskowski_

普通ポーランドなど東欧諸国の選挙の報道はTVではあまりやらないが、これに関してはNHKBSは朝6時台のロシア、7時台のドイツやBBCなどで選挙前から詳しく動向を伝えていた。NHK自身も特集国際報道2020を組んだほどだった。

与党「法と正義」を含む保守連立の現職ドゥダ氏は、様々な社会保障政策のほか、LGBTを争点に持ってきて「共産主義よりも破壊的なイデオロギーだ」と敵視し、キリスト教を土台にした伝統的価値観の保守層に訴えかけた。ポーランドEU内でLGBTに最も不寛容な国と言われているらしい。

対する野党「市民プラットフォーム」、ワルシャワ市長のチャスコフスキ氏は、LGBTの権利擁護はもちろんのこと、LGBTを政治利用するドゥダ氏のやり方も批判している。私の考えだが、ドゥダ氏はコロナ対策で批判を浴び、支持率が低下した分を何とか埋め合わせようとしたのか。

ツイートを下まで見ていたら支持者の人が色分けした地図を載せ、州でいくとチャスコフスキ氏は10州も獲得している、と書いていた。(68.2%は投票率

 

https://pbs.twimg.com/media/EdEMQiFWoAA6cfi?format=jpg&name=large

@Mertxxnl
 

お飾り的な大統領職もあるが、ポーランドの大統領は議会が可決した法案の拒否権を持つということだ。ますます強権的な政治が進むのか。保守の与党「法と正義」はこれまでも、難民受け入れ拒否や、司法の独立性を揺るがすような制度改革などをめぐってEUからも「非民主的」だと批判を受けていた。今後のEUとの関係はどうなるのだろう。誰に聞こう?もちろんこの人!

教えて ペレックさん!

ポーランド在住のペレック紅葉の稲荷 (id:Nietoperek)さんを紹介したい。ポーランドの方と結婚して2004年からあちらにお住まいで、フリーライターとして数多くのメディアに寄稿したりラジオ出演をしていらっしゃる方。

ペレックさんは決戦投票が済んだ7月15日に「大荒れの大統領選挙」と拙ブログにコメントをくださった。「まだこの右翼大統領?に投票する人が半分もいるのか」と驚き、

街頭インタビューで「何故この右翼系の大統領に投票したのか」という問いに「金をくれるから」という民衆。言論の自由や民主主義を守るより、今この瞬間に金をくれる大統領のほうがいいと言い切りますからね。 大学生の子供たちの話では、いま、学生たちが本格的に外国語を学んで国を出る準備を始めているそうです。この国に見切りをつけたんでしょうね。

と結んでいる。ペレックさんには今後もたくさん教えてもらうね!

ところでおもしろいことにこの与党と最大野党、元は民主化運動を牽引したあの「連帯」から出たのだ。同じところから出てこうも違ってしまうとは驚く。

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(写真:1981年8月 ワルシャワ。 ストで交通機関は動いていなかった。)

世界中がレーニン造船所の「連帯」のサポーターだった頃

そう言っても言い過ぎではない。80年代のポーランドといったら、世界の注目の的、民主化運動でソ連に刃向かうカッコいい存在だった。もちろんそれ以前も映画や文学(スタニスワフ・レムゴンブロヴィッチブルーノ・シュルツなど)にコアなファンがついていたが。

始まりはグダンスクのレーニン造船所で、食肉値上げ反対・賃上げのストライキだった。1980年夏にプラハに滞在していた私はそのことを、息を切らして階段を駆け上がってきたチェコ人の友人に知らされた。「ニュース!ポーランドストライキが始まった。造船所だって」

え、社会主義国でストって大丈夫なの?逮捕されたり弾圧をうけたりするんじゃないの、と思ったものだ。プラハの春から10年と少し経ったチェコは陰鬱な空気が漂っていた。チェコから見たらストライキなんて信じがたい。民主化運動なんて無理、成功しない、そう思っていた。

その後チェコ滞在が終わり、西側へ出て報道をみると、あっぱれポーランド人は本気だった。あっという間にストから独立自治労組「連帯」の結成へこぎつける。これが8月末。そして9月には全国組織結成。それを率いたのが電気工のレフ・ワレサ(より正しい発音はヴァウェンサ)、争議を指導して初代の委員長となる。

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写真:Internowanie Lecha Wałęsy

翌1981年5月にはワレサ委員長と連帯ご一行が来日。ちょっとしたフィーバーを巻き起こした。特徴的な髭と人懐こい笑顔の男はいつも人垣の中心にいて、もみくちゃにされていた。特に思い出すのは、新幹線の中で修学旅行中の女生徒たちに囲まれて大変そうだったこと。

81年冬には戒厳令、約1年の身柄拘束と苦難の連続、そして83年ノーベル平和賞ソ連では85年ゴルバチョフ政権の誕生。(話は逸れるけれど87年にはすでにソ連ポーランド関係の「歴史の空白」を埋める作業も始まり、「カティンの森」事件などの見直しもこのころなのは興味深い)。そしてだいぶ飛んで、1990年にはレフ・ワレサは大統領に就任する。

筑紫哲也氏が書いていたことだがワレサは「私たちの組織は徹底した民主主義なので時間がかかります」と来日時話したそうだ。よい言葉だ。組織の構成員に上下関係はなく、徹底した話し合いで物事を決めていく。構成員は「自主自立」でいて「連帯」している。人間が人間の主人公でなくなっているのが問題だ。人間尊重こそが大切で、政権を取りにいくのではない。

こうしたワレサ氏の考えは理想主義だと批判されるだろう。それで組織を作ってもすぐに立ち行かなくなるし、たやすく権力に潰されてしまうだろう。

ところが違った。この自主自立的な活動は出版、FMラジオ、各職場、地方へとどんどん広がっていった。活動を指導するのは「連帯」の全国執行委員会である。ブリュッセルには「連帯」の対外代表機関も置かれた。組織は持ちこたえ、政府の情報独占を阻止し、民主化は少しずつ根をはっていったのである。

続きはまた次回書きます。

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写真:同じく1981年8月、ワルシャワ中心部。私の部屋の窓から見た風景。石炭を集合住宅の地下室に入れるところ。

  

 🌸今日の写真は

プレゼントにもらったお手製の手帳

20×13cm、布装、28頁

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shellさまが戻ってらしたのでルリユール製本の手帳を載せてみます。

これは娘の作品です。美しい造りで布の柄も完璧に私の好みです。

もったいなくて使っていませんでしたが、今日写真をお見せしたからこれから使おうかな~(❁´◡`❁)

上がダメでも市民で勝つ(願い)&ベルギーには井上礼之通りがある(トリビア)

(前回の続き)

書きそびれたことやほかのニュース。もうね、世の中の動きが早すぎて追いつけない。

まずは今朝の日経広告。宝島社の広告は毎回楽しみにしている。

そして前回、マミー さんから頂いたコメントを貼らせていただく。足すところも削るところもないほど同感なので。特に消費税減税、ホントやってほしい。

日本の人口の1割以上が東京に住んでいるのに、それを除外するキャンペーンをやって、一体どれほどの効果が上がるのか…謎です。
特に関東の観光地は厳しいだろうなあ。東京からのお客さんを見込んでの商いですものね。
業績が悪化している企業もたくさんあるわけですから、できたら消費税の引き下げを検討してくれたらいいのに、と思わずにはいられません。

 このミゾーユーの国難においても、どうしてもお友達企業に中抜きさせた強盗キャンペーンをやりたいらしい。朝日新聞の電話調査によると74%もの人が反対だというのに、日経では80%が22日開始は早すぎると言っているのに。今度は「旅行を予約した人のキャンセル料を補償する」と言いだした。そのお金も私たちの税金である。

「GOTO~」が何かに似ていると思ったら「食べて応援キャンペーン」とパラレルな気がする。

羨んでもしかたがないことだが、よその国(10か国以上?)ではとうに減税を実施している。お金を配るよりもずっと簡単で公平で、それこそ「スピード感」が消費の下支えには必要なのだから。年内限りといった条件はあるようだが。

ドイツは付加価値税(日本の消費税に相当)が、7月1日より19%→16%、軽減税率(食品など)は7%→5%に。英国も付加価値税を20%→5%などである。もう一度言う。やってほしい。

 

奈良鹿つけてくれるなら。

あちこちで移住の話を聞くようになり、特にアメリカ人が脱出を始めたらしい。ついでにジョークも満開で、エリザベス女王がコロナに勝利したニュージーランドに住みたがっている(←信じないでね)とか楽しそうなフェイクニュースがいっぱい。

でもジョンソン首相はいい。やる気満々だもの。

英国のジョンソン首相は17日、新型コロナウイルスに関して10月末までに1日50万件の検査体制を目指すと表明した。18日から地方自治体に、特定の施設の閉鎖やイベントの中止を命じる権限も与える。経済活動の再開と秋以降の第2波への対応を両立させる狙いだ。日本経済新聞

驚いた話。ミック・ジャガーが仏トゥーレーヌ地方で農業をやっているそうだ。羊たちと散歩する姿はすっかり風景に溶け込んでいる。76歳か。ああ、これも一つの贅沢だな。

インタビューにフランス語で答えているが、英語特有のアクセントもなく流暢なのでビックリする。https://www.youtube.com/

わが家も上の日経記事を読んで、「住むなら奈良がいい。もれなく一家に一匹、可愛い鹿さんをつけてくれるならね~」と妄想して楽しんでいる。

移住と言えばフランス人一家が8月末に日本へ移住してくると書いていた。マジで?止めた方がいいよ…なんてことは言えないのだ。なぜなら長く準備してきたことであり、書類をそろえ、向こうでの生活を畳み、手続きを済ませ、信念と覚悟を持ってやってくるのである。コロナがあろうとなかろうと関係ないのだ。とはいってもお恥ずかしい日本の現状、東京の感染拡大と混乱、GOTOひとつ取ってみても情けなくて…(だんだん声が小さくなる私)

 

財務省前抗議の思い出

みなさんもこれご存じだった?報道を知ったときは口ぽっかーんだった。あの福田氏か、すっかり忘れていたな。よりによって先生をやるって😱

2年前の4月、抗議に行ったことを思い出している。

夕刻、ちょっと出かけてくる、と言うと夫が、今日はどちらへ?と聞いた。「財務省行ってくる。ふざけんなと言ってくるだけだから」

あのころはいつも燃えるように怒っていたから、電車の中でも私の周りだけ人が寄らなかった。(…なわけないじゃん😅)

 

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「全くふざけんなよ」「いいかげんにしろ」と怒っている人たちがあちこちから集まっていた。写真はもっとたくさん撮ったけど、今日のエントリは「抗議」ではないので😁これだけにしよう。下は財務省入り口。(2018年4月)

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「怒りの可視化」さんたちに合流した。私はいつも周りの皆さんにご挨拶をする。その時一人の男性が「twitter見てきたんですか」と聞いてくれ、会話が始まったのだ。女性たちは皆明るくて服装がおしゃれだった。プラカードを渡してくれた。

この最初の男性は、物静かでちょっと仙人風な紳士だった。とはいえ、私よりは年下だろう。「あの人がリーダーだよ」とも教えてくれた。その後もデモなどで皆さんを何度もお見かけすることになる。今はデモや集会はできないけど、お元気でいらっしゃるといいな。

 

ベルギーには「井上礼之(のりゆき)通り」という日本人の名前のついた通りがある。

昔のTV番組、トリビア的な始まりにしてみた。井上礼之さんはダイキンCEOだ。今日ダイキンについて書こうと思ったのは、sugarlessさんの三回に渡るエントリ(とても勉強になる!)やwww.sugarless-time.com

https://www.daikin.co.jp/press/2020/20200213_02/images/img_01.jpg

ポータブルエアコン『Carrime』が「iFデザインアワード2020」を受賞  ダイキン

ダイキンの持ち運べるエアコンについて読んだりしたから。それとダイキンはヨーロッパではとても有名なのでそれをいっぺん紹介したかった。

ダイキンは事業発展や雇用創出などでベルギーの経済・産業界での貢献は大きく、そのことで井上氏はベルギー王国からレオポルド勲章コマンドール章をもらっている。

こちらがその標識でNORIYUKI INOUEのあとにPADとあるのは、英語で言うPATH、小さな道、自転車・散策者のための道のこと。

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オーステンデ(仏語オスタンド)市のサイトによると、空調の世界大手ダイキンはヨーロッパ本部を1972年この地に置いて以来、町の発展に大きな貢献を果たしてきた。市が大切に保護している緑地帯の中の小路に、ダイキンCEO井上氏の名前をつけることにより(2011年)、和風の庭園Shin Kai Teiととも、日本との友好・強い絆を改めて表明すものである。

www.youtube.com

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写真:ダイキン・ヨーロッパ Daikin Europe

従業員1000名を構える空調機・暖房機の生産を主とする工場と、地域に密着した戦略商品開発センターが入る。拠点・販売網はイタリア、ドイツ、フランス、トルコをはじめヨーロッパ全域に広がっている。(*)

昨年はベルギー・フランダースから「ライフタイムアチーヴメント」部門にノミネートされ、トロフィーを受賞。(ちなみに受賞2018年はファイザー、2016年はVOLVOだった)

そういえば2018年は別部門で株式会社カネカが受賞していた。

*資料

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https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400115375.pdf

*参考記事  

エアコンだけで2兆稼ぐ、ダイキンの凄み | ダイキン工業 空気で答えを出す会社 | 東洋経済オンライン |

今日はここまで。また~!

 

🌸東京写真ギャラリー 谷中地区(1年前の写真です。服装でもわかると思いますが、多くが中国・台湾からの観光客です)

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(おはなしは小さな美しい声で・・・ひみつ堂)