ベルギーの密かな愉しみ

しばらくの間 お休みします。

ラーメン愛の行きつくところ &あじたまご &ニューヨークのたいやき (ラーメン②)

「ラーメンは自由のシンボルだ」

オランダの全国紙でコラムニストが代わりばんこに寄稿するコーナーがある。映画監督のFow Pyng Hu 氏(姓はHu胡?漢字表記がわからないので)が毎回主に日本のことを書いていると聞いたので「どれどれ」と興味しんしんで読んでみた。Ramen staat symbool voor vrijheid en daarom moeten de pannen weer op het vuur | Trouw

1970年生まれの中国系オランダ人Hu氏は、エッセイの中でコロナ禍の日常を情緒豊かに綴り、最後にAji Tamago(ラーメンの上に乗っている半熟の味付け煮卵)のレシピを載せていた。

「ラーメンは自由のシンボル」というのはエッセイの中にあった言葉。つまりラーメンの作り方に制約がないこと、伝統や流派もない、誰でも自由な発想で好きな材料の組み合わせで作れること。これがラーメンの神髄であると言っている。

記事の中にもHu氏の写真はあるがネットから勝手に引っ張ってきたこちら。

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(映画祭のポスターとか表紙らしい。オランダの若き映画監督たちの紹介)

ミーハーな気持ちで読み始めたが、この人、ただ者じゃなかった。デザイナーから出発し、映画の勉強にニューヨーク留学。映画制作のかたわら和食、特にラーメンに興味を持つ。数年間日本に住み、料理・食材について研究、さらに日本文化への理解も深めていった。好奇心旺盛、行動力、研究熱心、さらに両親が中国料理店を経営していたという素地もあって、アムステルダムにラーメン店を開くのは躊躇なかったようだ。するとこれが評判を呼び、現在は3店舗に増えている。うどん店もオープンした。→サイトはこちら:「フーフーラーメン」Fou Fow Ramen

店内の写真を見るとインテリアのセンスに驚く。デザイナーだったし!

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出自である中国の要素と和とモダン。気軽にふらっと入れるカジュアルさ。アムスに次回行ったら必ず訪問しようと思っている。

料理の品々は上の「フーフーラーメン」でご覧いただきたい。美しい写真がたくさんある。3枚ばかりお借りした。

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笑みがこぼれるほどのビジュアルだ。Hu氏はスープにこだわりぬいているそうだ。うーん、おいしそう。おなかがすいてきた。

あじたまごの作り方

そのラーメンに乗っているあじたまご、一度も作ったことはないけれど、Hu氏のレシピ通りに作ってみよう。

準備するもの:大きめの卵4個、醤油大さじ2、みりん大さじ2、水大さじ6。
四個の卵がかぶるくらいの水を入れた鍋を火にかける。沸騰したら火を止め卵を入れる。強火で6分半茹でる。黄身が真ん中に来るように最初の4分は卵を転がす。茹でた卵は急冷。殻のあちこちをスプーンで軽くたたき、ひびを入れると剥きやすい。剥いた卵は先ほどの調味料に漬けるが、開口部がぴっちり閉まるビニール袋を利用するのが便利。空気を抜きながら閉めたら最低でも冷蔵庫で一日置く。3日は保存できる。切るときはナイフではなくぴんと張った糸で真ん中から切る。(以上が大体の翻訳です)

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初めてのあじたまご完成!だけど縦に二つに切るのが難しかった。糸は製本用のを使ったが切り口が美しくない。やはり針金のほうがいいんだろうね。

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普通のエッグカッターでも切ってみた。黄身が流れないのはよかったと思っている。

 

「別腹」という名前のラーメン屋さん

名前だけで笑っちゃう。どこまで突っ走るんだ、アムステルダム

https://dailynonsense.nl/wp-content/uploads/2019/11/IMG_6320.jpg

Ramen restaurant Amsterdam

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https://images.squarespace-cdn.com/content/v1/5a324d13f6576e6ddd8c98cb/1585744814181-XAD8TSM55ILX7KC5JPYH/ke17ZwdGBToddI8pDm48kCXTVg0ByO0p77g6bpZL7-t7gQa3H78H3Y0txjaiv_0fDoOvxcdMmMKkDsyUqMSsMWxHk725yiiHCCLfrh8O1z5QHyNOqBUUEtDDsRWrJLTmT2Rk9u7KA3hFIM978bk877VmOHOCSpdsNlW7GlpXIXYQVtHu55YcHOEzPLgr3oRG/ec0fbd1c-b3aa-49f0-8954-de6261b24d60.JPG?format=2500w

(サイトから写真をお借りした)コメントは控えたいと思う(笑)。

 

ラーメン激戦区のパリに現われたのは築地だった

アムステルダムブリュッセルはまだのどかである。パリ・オペラ座界隈は昔から日本人街で食べ物屋は競争が激しいが、今はラーメン激戦区と言われている。昨年大阪・堺の「龍旗信」が上陸ということで仏紙でも話題になっていた。

しかしまさかパリに築地、横丁、屋台が現れるなんて!もう私たちの想像をはるかに超えてフランス人はどこまでも突き進む。しかもパリの中心部にすでに2店舗あるという。

サイト:こだわりラーメンkodawari-ramen.com/

https://www.kodawari-ramen.com/wp-content/uploads/2019/06/kodawari-tsukiji-homepage.jpg

https://www.kodawari-ramen.com/wp-content/uploads/2019/06/kodawari-yokocho-homepage.jpg

メニューはすごく多い。ラーメンに関しては、鯛の清湯、鯛の白湯、鰯の正油そば、鯛の冷やしそば、オマール海老のまぜそば等…。

鯛のギョウザ「こだわり風餃子」もぜひ試してほしいとのこと。

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https://www.kodawari-ramen.com/wp-content/uploads/2018/06/Ramen-1140x761.jpg

ちょっと見にはテーマパークみたいに感じる。いえいえ、オーナーのムニエ氏(Jean-Baptiste Meusnier)は真剣と情熱とこだわりの人。パイロットの職を辞してラーメンの道に入ったというのだから。いったい何がどうしてそんなに彼を突き動かしたのだろう。

と思ったらきっかけは実に単純だった。日本旅行で渋谷でラーメンを食べ、一目ぼれしたというのだ。その後いろいろなタイプのラーメン、バラエティ豊かなスープや麺の種類や限りない具材のアイディアに驚き、すっかりラーメン文化に魅せられてこれを追求しようと決めたのである。食通のフランス人らしく、材料にはとことんこだわる。(店名も「KODAWARI」というくらいだ)。日本から最高品質のものを輸入もするが、豊かなフランス各地の大地や海からの恵みも最大限に活用しているそうだ。
いやあ、フランス恐るべし!以前ガラパゴス化するフランスのすし事情について書いたことがある。ラーメンもどこまで進化するか楽しみだな。

cenecio.hatenablog.com

ラーメンについてはここまで。

ニューヨークのたいやき

話変わり、日本のものが他国に渡るとおもしろい変化を遂げる例はいくらでもある。私はニューヨークのたいやきに興味しんしん。あちらに在住の人が写真を送ってくれて存在を知った。こちら→Taiyaki NYC (@TaiyakiNYC) 

 

https://pbs.twimg.com/media/D4EarzwWwAA2YxJ?format=jpg&name=large

https://twitter.com/TaiyakiNYC/status/1117203529175842816

https://pbs.twimg.com/media/D0SB_3BWwAEjynq?format=jpg&name=4096x4096

https://twitter.com/TaiyakiNYC/status/1100147251748450308

台風のことが気がかりですね。

ではまた 次回!

*追記:さっき貼り忘れた「こだわりラーメン」動画

世界に溢れるラーメンへの情熱と愛 &BIKA(美華)のニラそば (ラーメン①) 

ラーメン愛

東京のうちの近くでも、コロナ以前はラーメン屋が大変なことになっていた。口コミの力なのか、フランス人など欧州からの観光客で埋まるラーメン屋(「ひだまり」谷中)とか、バカンスシーズンともなれば海外在住日本人が多数集結する、町の小さな中華(「兆徳」 本駒込)とか…あの情熱は何なのだと毎回待つ人の長い列を見るたび思っていた。

2007年にベルギーに住んでいた時、アパートの斜向かいがブリュッセルでは元祖的なラーメン屋やまとさんだった。当時「ヨーロッパで一番おいしいラーメン屋」と言われていたらしい。開店前から並ぶベルギー人を不思議そうに横目で見ながら「へえ、ベルギー人も列作るんだ」と通り過ぎていた私であるが、帰国前に一度だけ行ったことがある。おすすめという「みそラーメン」を頂いた。申し訳ないが特においしいとは思わなかった。

2016年に再び前を通ってみると、店主の日本人は数年前に店を閉め、一家で帰国したと聞いた。

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(写真:2016年3月撮影。美しいアールヌーボーの建物に収まるラーメン屋、違和感なし)

このときは、あとを継ごうというベルギー人青年たちが再開したばかりで、それもブリュッセルの別の地域でラーメン店を営んでいる、ベルギー人経営者が尽力してくれたおかげだとか。ともあれ良かった。内装もシンプルで温かみのある雰囲気だった。お味はどうか知らないけれど。

ヨーロッパのラーメン熱は来日観光客の増加とともに高まってきたのだろう。昔、たとえばパリにラーメン屋ってあったかな。思い出してみると1980年にはオペラ座界隈にすでに二軒あった。日本人経営で客もほぼ日本人。70年代のことは人に聞いた話しか知らない。パリ在住日本人が「中華麺とスープの組み合わせでできる料理」を食べたいと思ったら命がけという話(笑)。当時中国人コミュニティができていたパリ・リヨン駅界隈の、お目当ての中華料理店に電話をし、店の中国人に駅の待ち合わせ場所まで迎えに来てもらうのだそうだ。治安がとても悪かったから、やわな日本人なんぞ歩いて店までたどり着けないだろうということで(笑)。

そう、中華料理では「ラーメン」と呼んではいけないのだ。たとえばこれから紹介するBIKA(美華)さんは上海料理のお店、知る人ぞ知るといった小路にひっそりとある。旧名は谷中清水町、現在は一般に根津と呼ばれる地域で、私が上野へ向かう途中に通る道のひとつだ。

ニラそばが特に有名で、もちろんほかの上海料理の品々も美味だし、お店や店主小池さん自身もTV・雑誌で紹介されている。ファンも常連も多い。ちなみに今はコロナでそんなに混んでいない。(ちょっとラッキー)

以前まるさんid:garadanikkiがこのお店を紹介していて、その文章がすごくいいのでちょっと引用させてもらう。(まるさん、ありがとう❣)

garadanikki.hatenablog.com

(略)

天女が舞い降りてきたような幸せな気分になります。

豚骨スープや、こっくりした味付けの太麺そばが主流の昨今、真逆の旨さにありついた。

こんな美味しいものがあったとは。。。

ニラそばといえば、炒めたニラがどばっと乗っているものを想像しがちだけれど、

BIKAのニラそばは想像を絶する一品。・・・

ね、 全部読みたくなったでしょ!中で読んでね↑。

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「天女が舞い降りてきたような幸せな気分」に付け加えることは何もない。とはいえ、私もついでに何か感想を書いておこう。

ニラと肉あんの色のコントラストが美しい。ニラと聞いてあとずさりしたそこの貴方、これは天女のニラだから普通のと違うのだ(笑)。スープを一口のんだらもう舞い上がっちゃう。すごく上品であっさりしているけれど奥深い。鶏の頭とモミジ(鶏の足)だけでだしを取ったスープだと店主は言う。ストレートな細麺も私の好みである。

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写真:左下、絢爛豪華な螺鈿の衝立。右下、お店入り口にある睡蓮とメダカ。種類は幹之(みゆき)メダカで、我が家と同じだった)

 

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写真:五目あんかけ飯。丁寧で優しい。何が優しいかというと甘めの餡と、個々の具材がひとつひとつ柔らかく舌や胃のなかでとろけるように用意され、ご飯の上に鎮座していること。

甘めの味付けで蘇る1980年代後半の記憶がある。当時教えていた中国人学生はほとんどが上海出身で、家に招いてくれると当然ながら上海の家庭料理をふるまってくれた。味付けが甘めだったのが印象的で、私はそのころ甘味がちょっと苦手だった。

中国人は国から様々な食材(主に乾物)を持ち込んでいて驚いたものだ。乾物じゃない物ももらったことがある。あるとき学生が家を訪ねてきて、「今姉が上海から着いたんです。こっそりこれ持ってきてくれた」とにっこりして差し出す。何だろうと思ったらあろうことか上海蟹で、袋のなかでうごめいている。私はキャっと小さく声をあげ、「あ、ありがとう。お、お姉さんによろしくね」と言ってすぐさまその紙袋を冷蔵庫に放り込んだ。

あとで冷蔵庫から飲み物を取り出そうとしたら、蟹たちが我が物顔に歩き回っているではないか。バタンと閉め、夫の帰りを待った。そして夫に「大変なの。上海蟹が冷蔵庫の中散歩してる。早く捕まえて」と頼み、捕獲も調理も丸投げしたのである。

それにしても蟹をよく持ち込めたものだ。税関はそんなに緩いのか。私にくれたのは7~8匹だったと思うが、もっと持ち込んだはずで、その夜は上海蟹パーティだったのかな。不思議な笑える思い出。

 

 BIKA(美華)は信濃町駅前にあった名店

手元にある本『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』に載っていた。朝日新聞書評で見てすぐに購入した本である。

1964年の信濃町駅前の光景。左親指の所、見てね。「BIKA」「美華」の文字が見え、右親指の所にも「明治記念館」の下に「美華」という文字が見える。昔から有名な上海料理店だったようだ。

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 信濃町慶應病院は最近では辞めた首相の件で耳にするが、うちでも夫と娘の主治医のいる病院なので昔から長く足を運んでいる。しかしBIKAがそこにあったなんて初めて知って驚いた。

そこからどうして根津へ?と興味がわく。BIKAは小林さんの奥さんの実家だったのだ。オイルショックのころ、小林さんは根津の家業のタイル屋ではなく料理の道に入ることを決心する。現在の店の赤いドアは信濃町の店のドアで、両開きの片方だけ設置している。間口が狭いためだ。あの螺鈿の衝立も譲り受けたという。タイル屋は、父親が倒れたのをきっかけに商売もうまくいかなくなり廃業したのである。

タイルってノスタルジーだな。昔はタイル屋さんはあちこちにあった。若い皆さんにはわからないだろうが、かつて流し台やお風呂場・トイレによく使われていた。タイルを貼るお手伝いもしたことがある。

昨日とにほ(id:toniho)さん宅のタイルを見て、モダンな使い方に感心し、タイルへの憧れがうずうずとわいてきた。

toniho.hatenablog.jp

ちょっとお写真お借りします。とっても素敵!

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/toniho/20200903/20200903133532.jpg

 

話が逸れてしまいました。今日はここまでにしてまた明日続けます。

明日は、オランダの映画監督が定期的にオランダの全国紙にラーメンや日本の料理のことを書いていると聞いて、しかもAji Tamago(半熟の味付け煮卵)の作り方など書いていると聞いて、おお、それはお手並み拝見!と思ったらすごかったという話です。

 

🌸最後にまた楽しいツイートの数々を! 

 

猫と起業家精神 (ポーランド③)

荒れ野の七年八カ月

いや荒れ野はもっと前からだったかも。20年とか30年前からかも…。今は荒れ野に立ち、周りを見回し、また新たに歩み出せそうか確かめているところかな。

今年は日がたつのが早い。1月終わりからずっと悪政と悪性感染症にダブルで振り回されてきた。そしてもう9月。9月1日は毎年地域でけっこう大掛かりな防災訓練があり、私も朝早くから炊き出しや消火訓練をする住民の誘導などお手伝いに回るのだが、今年はコロナで全部が中止となった。

関東大震災のときの、朝鮮人虐殺のことは毎年忘れない。なんせ都知事がアレだから市民が自分たちで、あるいは自宅で追悼することになる。事件現場の地図が回ってきた。9月、東京の路上で | 差別反対東京アクション

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改めて虐殺現場の多さと悲惨と残忍さに、居たたまれない思いだ。

今日はそのことではなく、気分を変えて猫のことを書く。本当は8月8日の国際猫の日に何か書こうと思っていたが、8月という月は私の頭は「戦争」でいっぱいになり、どうしても余白がない。感情をそちらに取られてしまうと猫を誉めそやし、愛でることがたやすくできないのだ。遅ればせながら猫の日おめでとう!Happy #InternationalCatDay

こちらJenny (id:jflkg4u)さまも飼い猫猫ちゃーと遊んでいますね😉(中にお写真が)。

9月1日台風通過中~ - おひとりさまライフ 保護猫ちゃんと一緒

そうそう、先日nofrillsさまから教えてもらったBlack Cat Appreciation Day” (8月17日)黒猫を愛でる日もあるそうだ。

black cat appreciation dayは「黒猫の良さを認識する日(黒猫鑑賞デー)」。このappreciationは「感謝」ではありません。 - Hoarding Examples (英語例文等集積所)

毎日が「猫の日」でもいいな。「パステル三毛猫の日」とか「尾曲がり猫の日」(長崎には神社がある。長崎尾曲がり猫神社)とか…。そんな平和な世界を妄想してみる。

twitterに誰かが書いていた話。銭湯でよく出会うタイ人にあるとき、あなたは猫を持っているかと聞かれ、はいと答えると、それは良い、猫は小さな仏さまだから大切にしなさいと言われたと。小さな仏さま…タイ人らしい発想だ。

 でも猫愛はロシア人にはかなわない気がする。前からそう感じている。猫のサーカス団があるなんてロシアだけだろうし。

乳製品のパッケージに溢れる猫、猫、猫。バーコードも猫の形。ロシア人には負ける。

 

ベルギーの猫カフェ (2016年3月訪問)

あとにもさきにも猫カフェ訪問はこの一回限りだと思う。楽しくて濃いひと時を過ごした。昔書いたエントリをちょっと焼き直して再掲する。

コロナでベルギーがロックダウンになったとき、真っ先に心配したのはこの猫カフェだ。猫ちゃんたちどうしただろうと心配だった。

調べてみるとお店は今でもやっているが、名前と経営者が変わっていたLe New Chattouille

あの日、私が店に入るとすぐさまやってきたのはこのマティス君。(写真上の2枚)

「よく来たね、さっ、遊ぼ!」と私の気を引きたがる。おもちゃで遊んだりかくれんぼしたり。人懐こく美しい猫である。

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写真右下の女性、キッチンに立つ女性が経営者のモニカさん。モニカさんは猫に話しかけるときフランス語ではなかったので、あれ?と思い、聞き耳をたてているとポーランド語だとわかった。ポーランド移民だった。(あとで「起業家精神」のところに繋がります)。

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さすがベルギーだ、猫カフェ猫ビール❢De Poes オランダ語でメス猫という意味)。作っているのはかの有名なブリュージュ醸造Huisbrouwerij De Halve Maan。フルーツっぽい爽やか系…とおもいきや、あとで苦味も来ていい感じだった。

黒猫が私のビールを狙っている。「やめなさい!」と後ろからモニカさんの声がする。ほうら怒られた。漱石の猫じゃあるまいし。どうせ舌は届かないんだから。

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(右下:「ねこ歩き」という日本語が見える。岩合光昭さんの写真集。この日本の雑誌、誰かが置いていったのかな)

たくさんの猫が出たり入ったりしている。どこからかというと床下の小部屋から。猫用のハシゴがあり、人間から離れ、ひとり静かにいたいときはそこへ逃げこむのだ。いいアイディアだ。

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保護猫のカフェなので気に入った猫をひきとることができる。もちろん審査はある。この日も一人の女性がキャリーケースを持って来店。猫たちはクンクンと調査中。もらわれるのは別の猫であるが。

客は私のほかベルギー人が5人、常連さん風だった。そしてひきとりに来た女性を中心に、まるでどこかの家のお茶の間にでもいるみたいにお喋りが始まった。こうしたところが実にベルギーらしい。いやヨーロッパでは普通によくあることだが、レストランやバス停などで見知らぬ人同士すぐに会話が始まる。そんなきっかけで家に招かれたり、人を紹介してもらったりもしたこともある。

この女性はいきさつを話してくれた。深刻な病気で入院しなければならなくなり、自分の飼い猫を泣く泣く手放した。退院してみると心にぽっかり穴が空いた感じ。猫がいなくては生きられない。それで保護センターに連絡をし、このカフェを紹介してもらった。女性がひきとる猫は、このカフェで最も扱いの難しい猫だそうで、そういう猫こそ早く温かい家庭が必要、との考えから決断したと言った。

他の人たちも猫との思い出、子ども時代の猫のことなどを語った。アパートで猫は飼えないが引っ越したら必ず保護猫をもらうつもりと誰かが言うと、みんな大きくうなづいたりして、そのいっときの、猫と共にいる幸せを分かち合った。

 

起業意識

ポーランド人女性がベルギーで最初の猫カフェを開いたこと、これは興味深い。以前ベルギー人と話していて、日本人もベルギー人も会社や組織に属することを好む傾向があり、起業家精神に乏しいという結論に落ち着いたことがある。国民性なのか。

例えば、中国人や韓国人を教えているとき、将来は何するのと聞くと、会社を創るとか自分の店(レストラン)を持つとか、医師・研究者になるなどと夢を語ってくれたものだ。バブル崩壊以前の80年代でも。小さな子どもに聞いても同じ。「ぼくはね、社長になるんだよ」と中国人の子どもは即答した。その点日本人は起業意識が明らかに低いと思うし、調査ランキングを見てもそうだ。(また日本政府は、企業しやすい国でありたいと、2013年「2020年までに先進国(OECD加盟35か国)で3位以内を目指す」という目標を掲げはしたが、笑止千万だった)。

ベルギーでも移民の人たちが起業してEU内のランキングの順位を押し上げていた。ムスリムの人たち、イタリア人やポルトガル人などと並び、ポーランド人もそうだった。

前に頂いたコメントで、ベルギーに短期しか滞在していないanneさんでさえ「ブリュッセルにはポーランド人がたくさんいた」ことに驚いていたし、また、shohojiさんが「ポーランド人はみんな明るい」と書いていたことは注目に値する。本当にどこにでもポーランド人はいた。すごく働き者でベルギー人が避ける仕事を引き受けていた。宅配の仕事や引っ越し(日本通運では多くのポーランド人を雇っていた)や工事現場など。まずはそこから始めて資金を貯めるのだ。もちろん能力が高くヴィジョンがあれば融資を受けてすぐに起業できるさまざまな制度も用意されている。

ポーランド人のエネルギーはどこから来るのか。異国での苦難を乗り切る力を与えてくれるものは何か。それは厚いカトリック信仰だと思っている。それに加えて、家族や友人、人と人との結びつきを大切にする国民性か。

たとえばブリュッセル中心部の教会(Église Notre-Dame de la Chapelle)の日曜日、ミサにポーランド人があちこちからやってくる。あまりに多く集まるため中に入りきらず、四部(時間をずらして四回)に分けて行われるのだと、教会の人が笑いながら話してくれた。信仰を持たない人が多い日本では想像しがたいことだろう。あるとき私はその光景に出くわし、驚いて写真を撮ったこともある。(今すぐに写真が出てこないので後日💦)

では今日はここまでです。また次回!

 

🌸ペレック紅葉の稲荷 (id:Nietoperek)さん、

今日は「ポーランドその3」になってしまいました(笑)。昨日(8月31日)は連帯が発足した記念日で、日本でもTVで紹介していましたよ。若いヴァウェンサやカチンスキ兄弟の映像を見ました。こんなふうに別れてしまうなんてね😐

8月15日は対日戦勝記念日 &国家主義の誘惑 &蝶の羽化

 日本に勝利した記念日

8月15日はイギリスではVJ DayVictory over Japan Day)対日戦勝記念日。 

 ガーディアン紙(The Guardian)から写真を二枚切り取ってみたが、タイトルに

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 Victory over Japan Day 75th anniversary 

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UK marks 75th anniversary of Victory over Japan Day 

Japanというのが入る。終戦記念日解放記念日ではなく対日戦勝記念日

オランダでもJapanが入り、”Nationale herdenking capitulatie Japan”となる。日本が降伏した日、旧植民地インドネシアが解放された日である。

毎年大きな式典が執り行われ、今年はリュッテ首相(写真奥の人)が胸をうつスピーチをした。なんと首相の父上は日本軍占領下のインドネシアに住んでいたのだ。父親から聞いた戦中の話や、映画『戦場のメリークリスマス』を一緒に見にいこうと誘ったら断られたエピソードなどが語られた。

https://nos.nl/data/image/2015/08/14/183652/xxl.jpg

https://nos.nl/

オランダ人被爆

オランダ国営放送にjeugdjournaal.という子ども向けの報道番組があり、世界のニュースを扱い、充実したしかも楽しいラインナップで、私も時々見ている。そのサイトでも15日のニュースの一つは「日本の天皇が戦争をやめた」というタイトル。右下(9日)は、長崎に落とされた原爆を生きのびたオランダ人たちの話。

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ヨーロッパの国々で一般に「終戦」は5月である。しかし旧植民地インドネシアに住んでいたオランダ人は、1942年に日本軍の捕虜になったあと、インドネシアや日本各地で過酷な強制労働をさせられた。

以前朝日新聞で読んだショルテさんという方の終戦は8月19日であった。彼は1943年に長崎の「福岡俘虜収容所第14分所」に移送され、三菱重工長崎造船所で働かされた。ちなみに前回エントリの、きのこ雲写真の香焼(こうやぎ)にも収容所があったそうだ。

ショルテさんの第14分所には敗戦時、195人の外国人がおり、うちわけはオランダ人152人、オーストラリア人24人、イギリス人19人ということである。

原爆投下後も、日本人の遺体運搬の仕事をさせられ、戦争の終わりを告げられたのは8月19日のことである。被爆者の認定を受けたのは2009年。なぜこんなに遅いかと言えば、それまでは日本でしか申請・手続きができなかったからだそうで…(言葉もない)

 

死の鉄道建設

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死の鉄道というものが幾つあるのか私は知らないのだが、インドネシアのこのスマトラ横断鉄道 は第二の泰緬鉄道とも呼ばれるそうだ。ここでも多くの連合国の外国人たちが働かされ、多くの犠牲者を出した。資料がなく(処分したか?)日本でもほとんど知られていないようで、オランダ人の証言は大変貴重なものである。そして日本が降伏したあともそれを知らされず働かされたという。

 

スピーチへの厳しい目

毎年日本ではどのような式典が行われたか、数多くの写真とともに、イギリス、オランダでは特に紙面をさいて報道される。私はオランダ NOSの報道を毎年見ている。

今年の天皇陛下

(引用)

ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

この一節にだけオランダ語字幕が付く。「反省」天皇はちゃんと言った。

首相スピーチには「反省」の言葉はなかった、とバッサリ。

 

国家主義の誘惑

海外に住んでいる日本人は5月の解放記念日はまだよいが、8月のこの時期がとてもつらく感じる。どうして「ナチスドイツとの~」と言うのに、日本は単に「日本」なの?報道などで「日本」と連呼されると、「現代の日本とは違うのに。あれは昔の日本だ」という意見も聞かれる。しかし本当に現在の日本とつながっていないのか。

iPhoneのフォトに、関連した写真が提示されるサービスがある。ああ、去年はこうだったね~と懐かしがったりする。2年前にドキュメンタリ『国家主義の誘惑』を見にいった時の写真がけっこうあって、あの時のことを鮮やかに思い出した。たった2年前なのにすごく昔みたいな気がする。

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私は映画のレビューを書く気はないのでそちらはSPYBOYさまで❢(←いつも丸投げの、他力本願ですが、とってもいいので是非こちら↓↓)

spyboy.hatenablog.com

映画とトークショーがセットになっていて、上映後、日替わりの豪華ゲストが渡辺監督とフリーでお話をするのだ。実は知り合いがゲストの日もあったのだけど、とりあえずミーハーっぽく白井聡氏の回を選んだ。SPYBOYさんは加藤陽子氏の回。

公式HP監督のことば | ドキュメンタリー映画『国家主義の誘惑』

日本上映に寄せて
作品の動機

どうして?どうして!と、つぶやいてる間に日本の政治は常軌を逸して行きます。政治不信という形容を凌駕して、政治への破壊願望がどこかにあると思えてきます。私の経験に照らしここまで地に落ちた日本の政治を見たことがありません。個人的経験を超え歴史という鏡を覗いてみましょう。・・・(ぜひHPで全文読んでください)

 

これね、全く同感。「どうして?どうして!と、つぶやいてる間に日本の政治は常軌を逸して…」。そして今だってそう思っている。どうしていつもこうなっちゃうの?日本、おかし過ぎると思っている。

ところで一点だけ「日本上映に寄せて」とあるのは、渡辺監督はフランス在住の方で、このドキュメンタリはArteという独仏共同出資のテレビ局のために作られており、フランス語、ドイツ語を解する西洋の知識人視聴者をターゲットにしているから。

映画のことはSPYBOYさまにお任せだから、私は他のことを書こう。

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トーク後。当時ほとんどアイドル的存在だった白井氏。サイン攻め(笑)。

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(↑こちらの上品で柔和、かつ知的な雰囲気の方が監督さん。今はもうこのタイプのステキな男性はお目にかからなくなったな。)

ポレポレ東中野」という映画館は予約や当日券で座席が埋まると、立ち見ならぬ座り見の番号札を配る。すなわち通路に座るのだ。しかし私は最も良い場所、白井氏の真ん前に体操座りで陣取るという、何とも凄い座席を引き当ててしまった。だからトークの時、白井氏は私にじっと下から見つめられるわけ(笑)。冗談はさておき、二人ともかっかと怒っていた。わかる、わかる。私はお二人の気分が手に取るようにわかった。会場の皆も共鳴するようにうなづき、怒りを表して、全体で不思議な一体感のようなものを醸し出していた。

白井氏は映画に出演しており、その映画撮影から2年経つわけだが、さらに日本の劣化・腐敗ぶりは甚だしさを増している。そのことをため息交じりに嘆く。語る。もう語りたい、はき出したいのだ。

映画の中で金平茂紀氏(TBSキャスター)が「今の日本は1930年代に似ている」というのに対し、白井氏は「東條内閣の1943年ころに似ている」と。

曰く、東條は戦争回避のために送り込まれたはずなのに結局戦争に突入してしまう。アベノミクスはさしずめ真珠湾奇襲。つまり物価を2%上昇させるのが目的で、あの戦争も短期決戦なら勝てるという目論見だった。株価は大本営発表といったところか。それにしてもあんな頭が悪い人間が2期も総理大臣をやるなんて信じがたい、さらに三選なんて!…

白井氏は怒りのあまりイラついて、終始貧乏ゆすりしていた。私の鼻先でね(笑)。

とにかく話したいことがたくさんあってトークは止まらない。30分くらいオーバーしてしまい、司会の人が「あのう、そろそろ…」と言うと、渡辺監督は「ではまとめに入ります」。会場は爆笑だった。渡辺監督、本当にいいな。

思い出話はここまでにして、このとき私は見なかったが『乱世備忘-僕らの雨傘運動』も上映しており、小さな写真展をやっていた。先日のアグネスさん(周庭)の逮捕でこのドキュメンタリのことも思い出した。

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蝶の羽化はいつ見ても神秘!

先日id:miyotyaさまがクロアゲハの羽化の写真を載せてらした。

miyotya.hatenablog.com

私は今朝ラッキーなことに居合わせることができた。朝の5時くらいに見たらサナギの殻を通してアゲハ蝶の羽の模様が透けて見えたので、まもなく羽化するな、と思った。朝食が終わって部屋にあがってみるとちょうど始まるところだった。

まずブルブル小刻みに震え、頭が出てきた。コラージュ写真で見てね!

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翅は最初はくしゃくしゃ、でもすぐに伸びる。それをパタパタと乾かして1~2時間もすると空へ飛び立っていった。

では今日はここまで。また次回。

カラー写真で見るきのこ雲の衝撃 &夏はトトロを見る(笑) 

戦争のことを考える8月です。

前回に続き、今日も戦争について新たに学んだことなどをメモしておこう。

昔の白黒写真のカラー化

カラーで見るときのこ雲の恐ろしさが限りない。

元の写真はこちら原爆投下15分後に爆心地から9.4㌔の旧香焼村の造船所から撮影された巨大な雲(松田弘道氏撮影) 写真|【西日本新聞ニュース】

地名の香焼こうやぎと読むそうだ。香焼にこのとき立って見ていたあの人たちはどうしたんだろう。雲の立体感・重層感に加え、カラー化により立ち現れた雲の複雑な色に驚く。

写真のカラー化や補正をなさっているのは、渡邉英徳氏(東京大学 大学院情報学環・学際情報学府 教授)である。氏のツイート(写真)を見るのは普段なら楽しみであるのだが、戦争関連は身が引き締まり、圧倒され、恐ろしくもある。 

一匹、二匹と数えられ、国に捨てられた孤児たち

2年前に朝日新聞NHKでは戦争孤児(「駅の子」)に関する特集を組んだ。

インタビューや数多くの資料・写真をもとにまとまった企画だった。どのエピソードも胸を締め付けられる。特に女児の苦労、襲われぬように男子の格好をしたことや、上野駅の狩り込みに遭った子らはトラックの荷台に積まれ、山奥へ捨てられた話とか…。

厚生省は1948年になってやっと調査を開始。戦争孤児は12万と算出したが、そのなかに養子になった孤児・沖縄県の孤児・路上にいた浮浪児などは含まれていないのだという。病死8万人も内訳はわかっておらず。国のやる気のなさは見え見えだ。結局ここでも動くのは民間や個人だった。

もう5年も前によんばばさんがこちらの本を紹介しているのでシェアしておきたい。

yonnbaba.hatenablog.com

新しいものでは、NHKディレクターが孤児たちの壮絶な体験をまとめて書籍化した。→

「駅の子」の闘い 戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史 (幻冬舎新書)

2020/1/30 中村 光博 (著)

 

長崎修学旅行

タイムラインで流れてきたこちらのshirasshさんの話がよかった。

20年前の長崎への修学旅行を振り返っている。初日の夜は被爆者講話をしてもらう。実行委員会の生徒たちが中心になり司会進行する。講話のあとのお礼も、まじめで優秀な模範的女生徒がきちんと原稿を用意していた。

(引用)だが知識と体験者の生の話は全然違う。妹が火傷にウジがわきもがき苦しんだ末に、列車に飛び込んで死んだという壮絶な話に、生徒たちは真剣に聞き入った。

講話が終わりお礼の挨拶となった。原稿を用意していたはずの彼女がまったくしゃべれない。涙をこらえながら彼女は言葉を絞り出した。それは今聴いたばかりの講話の内容を踏まえたものだった。彼女は講話を聞くうち予定原稿ではダメだと判断し現場で全部やり直していたのだ。
被爆者講話は何度聴いてもつらい。教員だって泣きたくなるのだが仕事だからと堪えて聴いている。でも彼女のお礼の挨拶で完全に涙のダムが決壊してしまった。

ツイートの反響が大きかったので翌日のことも書いている。

3つのクラスが朝イチで平和公園に行ったのだけど、生徒がスーパー真面目モードになってて、予定時間より30分も早く集合完了してしまい、平和公園に着いたのが7:10。

セレモニー終えても7:30。原爆資料館の開館は8:30。

早朝ガラガラの平和公園で過ごす1時間は長かったよ〜。

…と明るく締めくくっている。

 

長崎は巨大な墓の上にある街

さきのカラー化きのこ雲のツイートへの返信steward_fox/が話題を呼んでいた。私も長崎は行ったことがなく、被爆地層という言葉も初めて聞いて無知を恥じている。

(長崎の)爆心地公園に地面を掘って横から覗ける様にしてある

被爆地層と言うものがあります

30cm程の隙間に家も家具も全てそのまま圧縮されて残って居ます

私達の街は巨大な墓の上あるのだとよく分かると思いますsteward_fox/

参考:被爆当時の地層 | 長崎市 平和・原爆 

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/c/cenecio/20200810/20200810132532.png

ベルギー大使

現在の駐日ベルギー大使は女性のかたでロクサンヌ・ドゥ・ビルデルリング 氏。就任して1年だそう。コロナにも負けず精力的な交流活動をなさっている。

広島にも長崎にもいらした。

先日(8月12日)国際青少年デー(InternationalYouthDay)には東京の小学校を訪ねている。

核兵器ゼロが広島と長崎の犠牲者への償いになる」

ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相のメッセージがすばらしかった。

全訳:NZアーダーン首相「核兵器ゼロが広島と長崎の犠牲者への償いになる唯一のこと」【広島原爆の日・メッセージ全文】 | ハフポスト

 

死者の声を運ぶ小舟

小川洋子NYタイムズに寄せた文章がとてもいい。長いけど本当にいい。お時間あるときにでも。

www.nytimes.com

 

ベルギーの新聞のひとこま漫画

見るだけでわかる(笑)。コロナと太陽のヤツ、手を組みやがって腹がたつったらありゃしない! 

https://plus.lesoir.be

Le Kroll du jour sur le Covid-19 et la chaleur

https://plus.lesoir.be/sites/default/files/dpistyles_v2/ena_16_9_extra_big/2020/08/07/node_317896/27661724/public/2020/08/07/B9724229758Z.1_20200807232857_000+GGRGF3BN4.1-0.jpg?itok=R3IzGdoC1596874371

ここからは単なる個人的なメモなんだけど、先日金曜ロードショーでトトロをやったのでファンがかまびすしい。

①ファニング姉妹可愛いんだな!

https://i.ytimg.com/vi/l26xb0FRsO0/maxresdefault.jpg

②お父さん

③ オート三輪の解説

④「す」何度も見ているのに気が付かなかった💦

 ⑤宮崎駿

ではまた次回!

コメント欄、一旦閉じさせていただきますね。みなさん、いつもありがとうございます。

渋谷の青ガエルが去り、上野公園口に新駅舎と広大なロータリーができた話。

引き籠っている間にどんどん変わる東京

戦争のことを考える8月の続きを書こうと思っていたが、今日は別の話題にしたい。

先日もぶじん(id:kofunmeguri)さまが、渋谷駅前でハチ公とともに愛されてきた青ガエル("green frog")撤去の話を書いていた。コロナ禍で外出しないものだから、周辺のことにすっかり疎くて寝耳に水だった。待ち合わせ場所のひとつであり、案内所としても使われていた青い車両。だからきっとTVニュースでもやったはずなのだ。それなのに全く知らなかった(私だけかも😌)

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 渋谷の「青ガエル」駅前から去る 東急5000系

kofunmeguri.hatenablog.com

青ガエルちゃんは秋田県大館市にもらわれていった。ぶじんさまのエントリは、経緯や梱包されて運ばれていく様子など、写真付きで丁寧なレポートになっている。

ピカピカの上野公園口

徒歩で行ける上野近辺は前はしょっちゅう散歩に行っていたものだ。新駅舎がオープンしたのは6月くらいだったと思うが、先日重い腰をあげて見てきた。

以前は公園口から小さな横断歩道を渡って、動物園やミュージアム群のある上野恩寵公園(←正式名称)の敷地に入っていた。動線が悪く人混みになりやすく、安全面にも問題があり、待ち合わせをするにも適切な場所がない。というわけで、五輪に合わせて大掛かりな工事が行われていた。

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新しい駅舎。右端に見える緑色の所が旧改札口。あそこから100m北側(写真の左端)に移動させた。

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現在の改札口。写真がよくなくてすみません。駅舎にはカフェやコンビニなど店舗が入っている(エキュート上野)。私の訪ねた時間は朝7時なのでまだ開いていない。

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二階から見る。左に東京文化会館、右に西洋美術館の建物が見える。まっすぐ先に動物園があり、歩行者の動線としては理想的。

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展望テラス。植栽がとってもきれい。

 

上野愛と上野動物園モノレール

これもぶじんさまに教えてもらったことである。

記事はこちら↓ お写真が良い🤩

kofunmeguri.hatenablog.com

多摩美術大学 ・統合デザイン の学生さんが授業の課題をツイート。(「反乱」か「氾濫」かはさておき)。

これを紹介しながらぶじんさまのエントリはこのように始まる。

 Twitterで話題の「不忍池大反乱」上野への愛が溢れてる。ちなみに上野動物園のパンダ舎は今年3月頃完成予定で、不忍池のとなりの西園の旧子ども動物園跡地に移転して新しいジャイアントパンダ展示施設「パンダのふるさとゾーン」(仮称)として新規整備中。これでパンダが不忍池で大暴れする環境は整う。

新しい施設もできれば消えゆくものもある。この学生さんの絵で心打たれるもの、それは北斎和船モノレールになっていることである。上野動物園に来たことがある人ならあの可愛らしい懸垂式のモノレール、乗ったことがなくてもご存知だろうと思う。(ぶじんさまもモノレールの写真を載せてらっしゃる↑)

子どもと一緒に何度も乗った思い出がある。しかし昨年秋、62年の歴史に幕を下ろした。やはり採算面で難しいらしく苦渋の決断だったようだ。確かラストランには抽選で当たった50人が乗車と報道にあった。

それでも上野動物園モノレールは永遠に私たちの記憶の中で走っている。

 

観光客がいないと静かな上野・御徒町エリア

前にガード下のお店「金魚」を載せてたまうきさまがしきりに懐かしがっていた。あそこは有名でファンも多いしコロナ禍にあっても大丈夫。ちょっと通りかかったら、ステキな女将さんがテーブルをアルコール消毒して忙しそうに動いていた。

長く上野・御徒町に来たことがない人はきっと驚くだろう。ガード下はずいぶんおしゃれになった。最近の写真を載せてみよう。

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↑右:自転車置き場にしている。↓自転車一台、さすがに人が来ていない😓

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クラフトビールのお店。

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他にもカフェやブティックや…。

ガード下のおしゃれなゾーン以外は、昔と変わらず昭和臭漂うお店が立ち並ぶが、コロナ禍、人出は大変少ないと言える。いつもならアメ横は外国人観光客で混雑し、中国語はじめ様々な言語が飛び交い、なかなか前に進めないのだが。

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ここまで2020年8月、閑散と言ってよいほどのアメ横の昼時。

去年(2019年)の写真を二枚引っ張り出してきた。見てみよう。

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服装・持ち物でわかると思うが圧倒的に中国人が多い。

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最後に上野の喫茶店2軒 (私は入ったことがない)

ギャラン」人気の喫茶店

入り口は狭いがお店は二階で広く、昭和の高度成長期のギラギラ感に溢れているとか。インテリアのことだと思う。名前からしてギラギラの昭和だ。

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昭和に完全にタイムスリップした気分「」。老舗の純喫茶、よい佇まい。
参考:『純喫茶に恋をして』より - フジテレビュー!!

 

そんなわけで今日は上野のレポートをお送りしました。

レポーターは私、東京藝大の学園祭がコロナで中止、つまんないとすねているスネシオでした😥

75年の夏 戦争を振り返るメモ

あれから75年、また戦争のことを考える8月がやってきた。

学んだことをメモしておこう。

1.見るなり凍り付いた写真

散っていった特攻隊員と船上の甲板から見ているイギリス兵たち、どちらのことも考えた。だけど「激突」したのか?

重巡洋艦サセックス は1945年になると東南アジアへの攻撃作戦に参加していたが、7月26日、カミカゼの攻撃を受けたという。九九式襲撃機(開発・製造:三菱重工業)であるらしい。連合軍のコードネームは Mitsubishi Ki-51 "Sonia". ソニアと呼ばれていた。(HMS Sussex (96) - Wikipedia

直接ぶつかったのではなく撃墜された機体の破片が偶然こうした跡を残したということらしい。(私の理解が正しければ)。言葉を無くす。

*追記:8月9日たまうきさま id:ni-runi-runi-ru から教えてもらいました。ありがとうございます。引用させていただきました。

107教育飛行団第3教育飛行隊の練習機九七式戦闘機3機(イギリス軍はソニアこと九九式襲撃機と誤認)  で編成された陸軍特別攻撃隊七生昭道隊が攻撃。

対空砲火で撃墜された1機の破片が側面鋼板に衝突して 飛行機型の傷を残したが、死傷者は出なかった。

他の1機は掃海艦ヴェステルに命中しこれを撃沈、 残る1機は護衛空母アミールへの至近弾となった。

2.「原爆の図」を紙芝居にしたアメリカ人

よくそんなことを思いついたものだと当初は思った。「原爆の図」は屏風仕立てで壮大な世界であるし、紙芝居といったら普通ジャンルとしては子ども向けと考えてしまうから。アメリカ出身の詩人アーサー・ビナードさんが美術館の協力を得て制作を開始、という新聞記事を読んだのはずいぶん前のことで、それが昨年完成したことはやっと最近知った。完成まで7年の年月が流れている。

https://www.doshinsha.co.jp/book_imgs/9784494080847.jpg

ちっちゃな声。

「はじめまして ぼくのなまえは くろ

君は人間だな 

ぼくの ことば わかるかい 

それはよかった…」

 で始まる。あまり内容に触れたくないので気になった方はご自身で読んでください。

「原爆の図」私は直接見るチャンスはまだないのだが、あちこちで紹介されるので幾つかの絵は見たことがある。画家の丸木位里、俊夫妻が30年以上の年月をかけて共同制作した屏風絵、全15部から成り、1~14は丸木美術館(埼玉)、第15部「長崎」は長崎原爆資料館蔵。東京在住だった夫妻は原爆投下後に位里さんのふるさと広島に入り、家族や親戚の世話や救援に当たった。その当時見た事を中心に1950年から制作を始めた。

一方ビナードさんは福島の原発事故がきっかけだという。「原爆の図」のメッセージを新しく読み直そうと思い、じっくり向き合った。これはゲノム編集そっくりだと言う。丸木さんは将来紙芝居が生まれるとは思ってもいなかっただろうが、絵の中に具象的な表現が多くあり、それをもとに紙芝居が作れるな、子どもたちに見せたいと思ったそうだ。紙芝居は童心社から出ている。

www.doshinsha.co.jp興味のある方、去年中国放送RCCテレビ)の特別番組。丸木夫妻の「原爆の図」をもとにしたアーサー・ビナードさんの新作紙芝居『ちっちゃい こえ』制作を追う。2019年3月27日

www.dailymotion.com

 

3.原爆を落としたのは…

国外に住んでいると、大人でも子どもでもどうしても気が塞ぐ日が、年に何回かあるといってよい。やはりこの時期8月はそのひとつだ。そうした子ども時代の思い出を紹介してくれたリサさんlisakogawaのツイートに胸打たれたので紹介しよう。(全文はtwitterのほうでどうぞ)

この時期になると、中学2年生の時に歴史の授業で「原爆を落としたのは正解だったか否か」のディベートがあったことを思い出す。大抵の場合アメリカ的には原爆を落としたからこそ戦争が終わったという的なことを大抵教えられ、…(略)

で始まる。クラスに日本人はひとり。順番が回ってきたら「同じ意見です」と言おうと思っていた。 番が回ってくる前に教科書にふと目を落とすと、手紙の写真があった。原爆に遭った人が震える手で書き記した街の情景と絶望の気持ちと「あつい。あついよ。お母さん。」のようなことが書いてあったという。その日本語を読めるのは自分だけだ。読んでいるうちに心が重くなり息苦しくなった。皆が自分を見ている。やっとしぼり出した言葉は「わからない」だった。

(引用)最初は私も、みんなと同意見でした。日本人だけど親戚に被爆した人がいるわけでもないし、過去のことだし、まだ戦争のこととかよくわからないし…でもこの手紙、私だけがこの手紙の内容を読める。これを読んで、どうしても原爆を落としたことが「正解だった」とは言えない…」的なことを言ったと思う。もっと何か言ったかもしれないが覚えていない。頭がぐわんぐわんしてた。涙がじわりと出てきた。
やってしまった、と思った。泣くな、泣くな!!!これ以上奴らに恥を見せるな!と言い聞かせたけど涙が何故か止まらなかった。…

すると隣の席の人が いきなり「私の意見を撤回します」と言うのだ。

(引用)「私もさっきまではアメリカがしたことが正解だと思っていましたが、今のリサを見てみて相手の立場の目線にも立つべきだと思います!」と言ってくれた。驚いた。え?とびっくりしていると周りもどんどん「同じくです!訂正します。」「そもそもこの教科書の内容は一方的すぎでは?」「他に違う方法があったんじゃないでしょうか?」「異議あり」とディベートが再熱し始めた。…

さすがアメリカの学校だなと思わせるエピソード。あとでわかるが先生も学校の方針もすばらしい。生徒の自主自立、個性を大切にする方針でディベートとプレゼンが多かったそうだ。

ここで思い出すのは猪口邦子氏の「パール・ハーバーの授業」(以前ちょっと扱ったパール・ハーバーの授業 & 日系人収容所再び)。ここに出てくる教師もすごかった。

話が脱線して申し訳ないが、その猪口邦子氏である。稲田元防衛相ら「国防女子」議員 打撃力保持を提言:朝日新聞デジタル

国防女子になっちゃったの?こちらの写真松川るいに「国防女子の会」メンバーが写っている。信じられない。

 

4.原爆投下の惨状伝える取り組み 高校生が作ったVR

終戦75周年ということで、アメリカの番組で福山工業高校を取材していた。(↓中に動画があり、なんとスクリプトまでついている。親切!)

www.pbs.org

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取り組み自体については、こちら日経の記事が詳しいので貼っておくwww.nikkei.com/

広島県立福山工業高校の生徒たちがVR技術で爆心地の様子を再現した。専用ゴーグルとイヤホンで追体験するらしい。

記憶の継承はどこでも大きな課題である。惨禍を生き抜いた人たちも高齢化が進み、少なくなっていく一方であるが、こうして若い人が伝承に力を貸してくれるとは勇気づけられる。

この制作にあたり、計算技術研究部の生徒たちは100人ほどの被爆者に取材し、当時の資料、特に産業奨励館の設計図などを集めた。建物の高さや色や音などにこだわり、映像として作り込んでいったという。

 

www.nikkei.com

今日は終わります。

また次回!

 

🌸わが家の写真

桔梗がいつになく花盛り。

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やっとクロアゲハが来たっ!飛び立つ日まで観察します。

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コロナ時代を健気に生きる &雨合羽の行方 &銀河元老院みたいな映画館 ほか

末期症状の支離滅裂列島

さきほど爽風上々 (id:sohujojo)さんもこの話題だったが、結局今年のお盆は動けないだろう。移動を控える人は多いようだ。

五月の連休もダメだったし、その前のいわゆる春休みだってどっこも行けなかった。ご実家が心配な人は大勢いるにちがいない。お盆に会えないとなれば次はいつ?と考え、もしかしたら最悪のことも…と心の用意をする。

強盗キャンペーンとコロナ対策の無為無策で、今や日本列島は人体実験場になっている。衆愚の極みばかり目にし、精神的なダメージをより減らすため、ツイッターを見るのは一日に朝夕15分程度と決めているのだが、さきほどめちゃくちゃ大きなパンチを喰らってしまった。

ギャグならわかるんだ。でもすぐあとで大阪在住の人が、ドラッグストアの空の棚を写した写真をツイートしていた。 現実世界の話だった😱

吉村氏は超マイナーと思われるベルギー関連のイベントにも参加してて、見た(←会ったとは言わないよ)ことあるけれど、一応まともそうに話はしていた。でもこんなに愚かとは。

例の雨合羽の件もあるから大阪の人は辛いな。ま、よそのことは全然笑えない東京である。緑のたぬきさんに投票した人はどう思ってるのか。

今日のこのツイート見ても泣けて仕方がない。あれから何カ月たったか。

システムは既にあるがうまくいかない理由はこちらで→ 東京新聞 TOKYO Web

東京都庁にはコロナ対策部のファックスは二台しかないという。これ、もう有名な話だと思う。在住の外国人たちも盛んにツイートして呆れていた。

しかも田村智子議員が厚労省に確認したら、統計担当の正規職員がたった1人だったというのである。相も変わらず保健所から集まる数字を手作業で処理しているんだとか😰

小池さん、この期に及んでもまるでやる気なし。

また雨合羽の話にもどる。あの時、つまり夥しい数が郵送で届き、対応に大わらわだった大阪市の職員たち、その様子を報道写真で見て憐れみと怒りを覚えた。何ということをさせるんだと。

まず雨合羽は医療ガウンの代わりにはならない。

そんな必要でないものを一方的に送り付けるのは、地震や洪水等の災害時、被災地応援のやり方として最も避けるべきことの一つ。そのことは私たちは既に学んでいる。

さらに職員の時間と労力を無駄に奪い、保管場所にも困り、処分方法も難しい。

個人的にこの雨合羽の件はどう処理するだろうと興味を持っていたら、以前こんなツイートをしている大阪の人が。

「雨合羽の行方 」私もぜひ知りたい。

雨合羽は台湾からも大量に贈られたはずだ。この記事http://japan.cna.com.を見たとき愕然とした。医療ガウンを頼めばよかったのに。

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でも台湾の人にはいつも心から感謝している。優しい人たちだ。ありがとう。

今になっては、4月~5月の緊急事態宣言の時期って、予行演習のようなものだったなと思う。これから、といってももうだいぶ経つけど、本番、しかも第一章を迎えているのだろう。そしてコロナの生活はこの先何年も続くのだ。 

 

このあとは心休まる楽しい話でいこう❢

ツイートのおかげで救われてる私。神経病みそうな所から毎回引き上げられる感じかな。

①どこも行けない夏なのに、皆さんみせびらかすかのように執拗にツイートで誘惑してくる😅

行ってみたい!もうね、どこでも行きたい。

このブログを読んでいるみなさん、信じられないかもしれないけど、私は1月21日に東京都美術館ハマスホイ展を見に行ったあと、誰にも言われるともなく翌日から自主的に外出自粛生活に入った。人が動くことはウィルスも移動させるから。

そのあと緊急事態宣言。解除になってから一度だけ、6月末に映画『なぜ君は総理大臣に~』を見に行ってまた外出自粛生活に。長くうんざりする日々である。どこまで耐えられるか挑戦しているわけではないんだが。(歩いて買い物には行っていますよ😁当たり前か)

セガが小さくすればニンテンドーは大きくする。(とTwitter主の解説。私がフォローしているフランス人)

 香川県にあるゲームボーイ型の郵便受けらしい。香川県では有名なのかな。

③コロナ時代の映画館(パリ)

銀河元老院みたいだと話題になっている。

https://i.dailymail.co.uk/1s/2020/07/16/19/30799046-0-image-a-5_1594922614126.jpg

www.youtube.com Pierre Chican

これからできるらしい。この建築家  Pierre Chicanはここ10年以上パリの劇場を設計している。去年うちの夫と息子はChican氏の前の作品、同じくパリのUGC Bercyという映画館に行ったようだ。

④ベルギー人もおもしろい。ぶっ飛んでる!

 Atsukan「あつかん」というお店。なんと風呂に浸かって日本酒が飲める。カウンターにとまってお酒と料理でもいい。ブリュッセルにある。

詳しくはHP:Wellness - Atsukan — JAM

https://images.squarespace-cdn.com/content/v1/56d84af24c2f850e70b66923/1591256391631-6AL4I0PTFOKYVQLTQYQZ/ke17ZwdGBToddI8pDm48kKtijf5x5S0rIV7X_qDH3dB7gQa3H78H3Y0txjaiv_0fDoOvxcdMmMKkDsyUqMSsMWxHk725yiiHCCLfrh8O1z5QPOohDIaIeljMHgDF5CVlOqpeNLcJ80NK65_fV7S1UaZbTVdO5VSPAOxIcVIbmIFLIFeVDbQiz7iBIgNCzklBDD2o6CESiqIlH5ssNFrtmA/ATSUKAN-200602-5D4_4428-WEB-XP-PRESSE.jpg?format=1500w

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また次回に続きます。

哀惜 ひとつの時代の終わり

李登輝氏が亡くなった。ひとつの時代の終わりを感じる。とりわけ最近の中国は動きが不穏だからよけいに危機的に感じる。

李登輝氏は司馬遼太郎氏と同じ年で親交を結んでいた。「私は22歳まで日本人だった」という言葉も有名だと思う。旧制高校から今の京都大学に進んだ。そして「民主主義の父」と呼ばれ、現在の台湾の基礎を創った人だ。2002年に慶應大学で学生相手に講演をするという噂を聞き、私も何とか会場に潜り込めないか探りを入れていたが、日本政府からビザ発行を拒否され、実現しなかった。日本に対し、特に日本の若者たちに向けて話したかったことがたくさんあっただろう。日本人が真摯に耳を傾けなければいけない貴重な指摘や忠告の数々が。

「台湾に生まれた幸福」

その国に生まれて幸せだった、と言えるっていいね。

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(上野 ガード下 2019年)

 

リーダー氏の訃報

10日ほど前のエントリに上がダメでも市民で勝つ(願い)&ベルギーには井上礼之通りがある(トリビア) 財務省前抗議に行った話を書いた。その抗議自体は2018年4月22日とずいぶん前のことだが、主催する人たちと私が初めて言葉を交わした思い出深い集会なのである。この方たちがデモを準備し主催し、呼応した市民たちが安全に集まれるようにサポートしてくださるおかげでこれまでつつがなくやってこれたのだ。

「今はコロナで集まれないけど、皆さんお元気だといいな」と書いた。するとSPYBOYさまがコメント欄で「怒りの可視化氏が亡くなった」ことを教えてくださった。あまりの驚きで俄かには信じられなかった。まさか、そんなことって!

彼の写っている写真をスマホの中に探した。何枚も持っている。ほらこんなにお若いのだ。私より20歳くらいは下だ。どうして?急逝なんて理解できない。

今日は、あの財務省前のエピソードをもう少し続けようと思う。まず前回書いた分。

私はいつも周りの皆さんにご挨拶をする。その時一人の男性が「twitter見てきたんですか」と聞いてくれ、会話が始まったのだ。女性たちは皆明るくて服装がおしゃれだった。プラカードを渡してくれた。

この最初の男性は、物静かでちょっと仙人風な紳士だった。とはいえ、私よりは年下だろう。「あの人がリーダーだよ」とも教えてくれた。

仙人氏はさらに聞いてきた。「前にもデモや集会に行きましたか?」

「はい、行きましたよ。先日の国会議事堂前とか、3月の新宿伊勢丹前とかですね」

仙人氏は私の目の奥を覗き込むようにしてこう言った。「あのう、そういうのとちょっと違って、うちのコールはあまり品のよくない言葉も入るんです。それは大丈夫ですか?」

この人は何を言っているんだろうと思った。ややあって、やっと意味を理解した私が「ああ、全然大丈夫ですよ。ご心配なく」と言うと仙人氏はニッコリして去った。何と優しい細やかな心遣いだろう。下品なコールに私がショックを受けるのではないかと心配してくれたのだ。今思い出しても驚きだし、笑ってしまう。

リーダー氏のコールが始まった。「セクハラ フクダ は さっさと 辞めろ」とか、麻生氏の責任もあるから二人とも辞任しろ、といった内容のコールだった。別に過激なことは何もない。リーダー氏はちょっと休憩するため、マイクを女性(「肉球新党 」さん?)に渡して後ろにさがり、私の隣に来た。女性のコールが始まる。

セクハラ フクダ は ジゴクに 落ちろ!

リーダー氏は下を向いてぷっと噴き出した。私も同じく噴き出した。他の人も笑っていた。過激なコールをするのは女性のほうだったというわけ(笑)。

私も大声でコールを繰り返したが、その甲斐なく福田淳一氏は地獄には落ちず、前にも書いたとおり、通信制SBI大学院大学の教授になった。

リーダー氏のご冥福を祈ります。残った私たちは自分のできる範囲でまだまだがんばります。

 

R氏のいないHatena Blog あれから1年か。

R氏の釣りブログ、ご存じでない方はごめんなさい。

私ははてな帰属意識が希薄で、あまりフォローもしないしフォローされても返さない。というのも心の中で「もうすぐ止めるんだから」と思っていたので。ブログを始めて半年過ぎたころはブログを書く意味はすっかり失っていた。そのころR氏のブログに出会ったのだ。ちらと読んだらおもしろくてもう少しはてなを続けてもいいんじゃないの、やめたら読まないだろうし、と思った。

何がおもしろいか、当初は「日本語」だった。彼の使う独特な日本語文。まあ知っているかたもいると思うけれど私、一応それが専門だったので。

それから中毒になりそうな独特の語りだ。話術というのか。やや古めかしく個性的な文体と用語選びも特徴的。国立国語研究所は彼のブログを調べに来い、と思ったものだ。(文章サンプルを集めている)

本文記事のおもしろさに加えてコメントの返しが秀逸だった。飄々としたユーモアで相手をくるみ、毒舌だけど決して傷つけない。ものすごい数の読者を相手にしているのに、誰に対しても分け隔てなく公平で、ひとりひとりきちんと応対する様子をいつも感心して見ていた。お悩み相談に応えて人生経験からひねり出す助言も適切だったし、社会批判は辛辣、政治関連事象の記憶力は抜群だった。

一度R氏が「セネシオさん、選挙には出ないのかね」と書いてきて面食らったことがある。応援すると言うのだ。何を勘違いしたのか不思議だ。

そしてそれは絶対にない!私がフィギュアスケートでオリンピック目指すとか、今からラッパーとして全国デビューするとか…そんなことがありえないと同じく絶対ないのだっ!さすがにわかってもらえたようだ。

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(丸いのはすべて「泥団子」 東京藝大学生の展示作品)

R氏のエントリ全体で感じるのは「包容力」かな。途方もなく大きな包容力。皆さんはどう思うだろう。在日の人たちへの視線の温かさは特に印象に残っている。

彼の中では日本も朝鮮半島も「東アジアのへん」。ざっくりとひとつの地域でいいじゃないかという持論だった。宇宙から見たらそんなものだろうと。「今ある国はいつ消滅するかも分からないし、国境など人間の欲の引っ張り合いの結果生まれたもの」と考えていた。国籍だって同じ、頼りがいのないものだと。

近所に、戦前夫婦で韓国から日本に渡ってきて、その後夫と死別し一人で子どもを育てたおばちゃんが住んでいたが、日本語を書くことができない。だからR氏は代筆をしたり、こまごました用を手伝っていた。在日の人たちからきっとすごく感謝されていたことだろう。

それは、子ども時代、仲良しの在日の釣り仲間(三人組だとか)がいて無心で遊んだ楽しい記憶が根っこにあるのだ。当時、差別があるのは知っていたがそれは大人の都合であって、気の合った子どもたちには垣根などあるはずがなかったと書いていた。

 

 R氏について書くと本当にキリがなくなるのでこの辺で終わりにしよう。

これまでも彼を話題にたくさん書いてきているが、ひとつあげるとしたらこちらお初のおめもじなれば… 

全く神様ときたら R氏を自分の脇に置きたくて連れていったにちがいない。

ではみなさん、また次回に!

民主主義は時間がかかる &シンボルスカの詩と大震災 ポーランド②

前回世界中がレーニン造船所にくぎ付けだった頃 「連帯」に続き、今日も、ポーランド在住のペレックさんのことと、私のささやかな思い出を中心に。また皆さんのコメントも紹介。

 

Airbnbに泊まる

1975年から夏は毎年旅行していた。81年は前年始まった「連帯」の活動に興味があって、チェコとドイツに行く前に10日間滞在した。(ビザを下に貼っておく)

実は最も困ったのは食事だった。ストライキ続きだったから商店の棚はほとんど空。市民には配給があるので少ないとはいえ問題はなかったようである。ホテルで何か食べられるでしょう?と思うかもしれない。当時西側の若者、バックパッカーでホテルに泊まる人はほとんどいなかったんじゃないかな。ホテルは団体観光客やビジネス客のためのもの、少なくとも私の認識はそうだった。なにしろヒッチハイクする人も多かったし、自転車・バイクも人気の移動手段だった。ヨーロッパの若者たちはキャンプ場を利用していたが、安全面から私はこれを避けた。

ワルシャワ空港に着いて中央駅まで電車に乗り、外に出ると民泊(今でいうAirbnb)を申し出る人たちが手に紙を持ち、並んでいる。紙には家の場所や値段などが書いてある。タクシーの運転手でこうした民泊と契約して(或いは友人で)紹介する方法もあった。私はプラハではこの方式で、運転手さんに案内してもらい、郊外の、大きな庭付きのすばらしい一軒家に、イギリス人やドイツ人と一緒に滞在していた。70年代、80年代はもちろんのこと、私たち一家がフランスにいた95年でも、帰国前住居を引き払ったあとは、民泊を利用してあちこちに住んでいた。

さて、ワルシャワ駅の外では値踏みが始まる。金額の話ではない。ドル払いで2千円前後(1泊食事なし)と大差はない。旅行者にとって重要なのは家主の雰囲気と家の場所。当然ながらポーランド人の側だって相手を選びたい。

私は小柄な婦人を見つけ、歩み寄った。退職した小学校の教師で夫とは死別、子供二人は独立したので部屋がふたつ空いている。街の中心に近く、閑静なところだと言った。実際に環境も家主の人柄も文句のつけようがなく、彼女からは多くのことを教わった。

さきに書いた食事の件だが、開いている数少ないレストランを探して一日一食はなんとかできたし、知り合ったポーランド人が家に呼んでくれたり、また家主が教えてくれたたドルショップで必要なものは買えたのである。

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写真:1981年のワルシャワ旧市街の広場。

こちらはwikiの写真。1860年代の広場 Old Town Market Place, Warsaw

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↓第二次大戦終戦直後の広場。

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Old Town Market Place, Warsaw

 

度重なる悲運の国 ポーランドのイメージ

マミーさん id:mamichansanから頂いたコメントに「何度も分割された悲劇の国家…」というくだりがあり、私も全く同じことを思っていた。なぜ?どうしてこんな目に遭うの?隣国ソ連スターリン)とドイツ(ナチス)はポーランドを山分けした…なんという酷いことを!悪い奴らめ!と憤っていたものだ。世界史の教師は地形的特徴を説明した。「平らな国土で攻めやすかった。山はポーランド南部の、国境辺にしかないからねえ」と。

ポーランドと聞いてギアさま id:sinsintuusin は「コペルニクスショパンキュリー夫人」とおっしゃる。私はショパンはともかく「あれ、そうだったの?」と常識のなさがバレる。そうだった、キュリー夫人。2回もノーベル賞をもらった偉人だった。

ポーランド文学賞に至っては4人が受賞している。そのことはあとのテーマで取り上げるとして、またちょっと脱線を…。世界史で習う「ポーランド回廊」Wikipedia

高校生の私はあれがおもしろいなと思っていた。「ぽーらんどかいろー」というのどかな音の響きから、古びた修道院の、中庭を取り巻く細い廊下(回廊)を、夢想癖のある頭の中で勝手に繋げていた。あの地域から『ブリキの太鼓』や「連帯」の運動が生まれるまでのことだが。その後頭の中の修道院は消えた。

 

ポーランドは詩の国 シンボルスカ

ペレックさんとポーランド人のご主人(←カッコいいからね!)との出会いがよかった。ヴェスワヴァ・シンボルスカ (Wiesława Szymborska)のノーベル文学賞受賞を祝う大使館主催のパーティで知り合ったのだ。お二人とも学生で。

nietoperek.hatenablog.com

シンボルスカさんが仲人と言ってもよいでしょう(笑)。

そしてシンボルスカだ。ポーランドの人はどう思うかわからないが、日本ではシンボルスカの詩「眺めとの別れ」は東日本大震災や福島と強く分かちがたく結びついている。

またやって来たからといって
春を恨んだりはしない
例年のように自分の義務を
果たしているからといって
春を責めたりはしない

 

わかっている わたしがいくら悲しくても
そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと
草の茎が揺れるとしても
それは風に吹かれてのこと

・・・

ネットでも全文を読めるので興味のある方はできれば全文、最後までどうぞ。

始まりは池澤夏樹氏だった。朝日新聞に寄稿し、シンボルスカの詩の一部を引用。震災からまだ1カ月もたたず、私たちが皆言葉を無くしてただ悲しみにくれていたころだ。詩の力は強い。その後多くの人がこの記事に触れ、シンボルスカ自身や訳詩集にも注目が集まった。2011年秋池澤氏は『春を恨んだりはしない - 震災をめぐって考えたこと』 という著書を中央公論から出した。

シンボルスカの詩はそれから一人旅であちこちに広まっていった。そして毎年3月が来ると人々の心の中でうたわれる。この時くらい、ポーランド語ができたらなあと思うことはない。やはり詩は原語だ。

 

U2も「連帯」のために歌を捧げた

ファンの人はご存知と思うが、アイルランドのロックバンドU2 が、1983年に出したアルバム「WAR」の中の”New Year's Day(NYD)”がそうだと聞いている。wikiからの引用をつけておこう。

www.youtube.com

ニュー・イヤーズ・デイ - Wikipedia

(略)

後にポーランドの大統領となるレフ・ヴァウェンサ率いる独立自主管理労働組合「連帯」をテーマとする曲となった。ボノはなかなか歌詞を完成させることができず、危うくアルバムから漏れるところだった(ちなみに歌詞にある「Under a blood red sky」の一節は、その後、ライブアルバムのタイトルになった)。レコーディング中、リリーホワイトは「Sunday Bloody Sunday」には特別なものを感じていたものの、「NYD」にはピンと来なかったが、スタジオに出入りしていたインターンの少年が、この曲が流れる度に興奮しているのを見て、「もしや」と思ったのだという[2]。

そして「War」のレコーディングが終わった後の1983年1月1日、実際にポーランド戒厳令が解かれ、この偶然にU2のメンバーは大変驚いた。…

 

ポーランドにミルクやおむつを送った大阪の人たち

九条の映画館シネ・ヌーヴォが「連帯」当時を振り返るツイートをしており、胸打たれる内容なのでぜひ紹介したい。

一部引用するが連ツイをどうぞ。 

1981年12月13日、厳寒のポーランドでは戒厳令公布で、血の日曜日と化し、組合員の逮捕、暴力など残虐行為が行われ、非常事態となった。今井氏から軍政となる前に「連帯」から生活物資の要請が日本に届いていたことを知り、この場で支援組織「ポーランドへミルクをおくる会」を結成することになった…

 

「私たちの組織は徹底した民主主義なので時間がかかります」ワレサ委員長の言葉)

前の記事にこれを書いたとき、この一文からshohojiさんが考えることは私ときっと同じだろうと確信があった。ベルギーやオランダの政治のことだ。組閣に一年以上かかることがざらにある。選挙が終わってもまだ内閣ができないの?と私は当初驚いたものだ。

連立を組むために徹底的に話し合うからだ。譲歩も必要なのだが、最近はますますまとまらない傾向で、さすがに王様にもお困りの様子(笑)。でも私はこれこそが民主主義だと思うし、民主主義は議論するから時間がかかる。日本の現政権はこれから最も遠い位置にあると思う。また市民の政治意識が低く、意見も言わず、投票にさえ行かず、監視もせず、お上にお任せの日本ではこうした民主主義はありえない。

shohoji id:shohoji さんがくださったコメントのなかで「民主主義は時間がかかる」のは「参加者の受ける教育と参加者自身の余裕が不可欠な面でも」とあった。この「教育」というところ、わかるなあ。学校だけじゃなく社会全体で、よい市民を育て、政治家を厳しくチェックし、ちゃんとした人を選ぼうということをまるでやってこなかった。今さら議員の質が…とか能力が…と言っても虚しい。人間性にも欠けたような、数合わせのためだけのタレント議員が増えるのはシステムにも問題あるかもしれないが、やはり私たち市民の意識の低さ、社会や政治は自分たちが作っているという意識が欠如しているからだと思う。それと、マスコミが全く機能していないからね(嘆息)。

今振り返ってみても、ワレサ委員長と連帯の運動は凄かったなとつくづく思う。

 

最後にまた写真を何枚か貼ってみる。1981年8月ワルシャワと10日間の観光ビザ。

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ポーランドは一旦終わりです。頂いたコメント、もっと取り上げたかったんですが、すみません。いつもありがとうございます。