ベルギーの密かな愉しみ

しばらくの間 お休みします。

レジリエンスの基礎をつくるもの シリュルニク(+北欧旅行の写真)

前回記事の続きです。初めていらしたかた、前回記事の終わりの方をまずお読みください。精神科医シリュルニク氏が挙げたアルベール少年の話。

みなさま、コメントをありがとうございました。どれも正しいですね。

🌸よんばばさまのコメント

人生のスタート地点で十分愛されると、その後の試練に耐える力「レジリエンス」ができるような気がします。

🌸 マミーさま

 一緒にしておくと命の危険があるような親もいるし・・・

🌸志月さま

闇雲に保護するだけじゃダメで、もっともっと繊細な手助けが必要なんですね…。
なんて難しいのでしょう。せめて身近な子どもたちだけでも、よく見ていてあげるところからスタートするしかないかなぁ…。

ああ、本当になんて難しいの。そう私も思います。

 

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(写真:思い出の北欧旅行。オスロムンク美術館 1983年)

 

アルベール少年をどうすればよかったか。
ふつうの人間はあの隣人と同じ考えを持つだろう。隣の家族、なんかおかしいぞ。子供が家の外に長い期間放っておかれている。役所の福祉課に連絡したほうがいいんじゃないか。

「数年経ってから、隣人がこの不可思議な状況を見かねて社会福祉課に連絡した」。数年経って、はちょっと変な気はするが。まあ私だったら、男の子に声をかけたり、両親と話してみる方を先にするかなと思う。ネグレクトの親は子供のことはなんとも思わないだろうから、やはり結局は役所か学校(行っていればだが)に連絡することになるだろう。
しかし著者は言う。そうやって親と切り離しても「保護」はされるが、子供のトラウマを癒したり、問題の解決になるわけではない。それどころか二度虐待された(=保護施設に入れられたこと)という記憶を本人が持ってしまい、追加的トラウマが生じる。さらには子どもの心の中で相対化が行われ、両親の家での生活を美化し始めるのだという。

つまりこういうことだ。アルベールは施設に保護されてから、家での生活を振り返ってみた。あの頃ひもじかったり、戸外で犬と震えて寒かったりした日々、親に見捨てられたように感じ、惨めで寂しかった思いを。おやおや、どうしたことだ。今じゃ、なんてことないように思える。暗い映像が浮かぶかと思ったら、明るい彩色の絵に変わったような感じだ。それに比べ、ここ施設での生活は酷い。冷え冷えとした建物内で、自分は孤立し、支配されている。なにもかもあのおせっかいな隣人のせいなんだ。・・・

アルベール少年がほしかったものは何だろう。家庭の温もり、親の愛情だと思う。それだから親の気を引きたい一心で庭を掃除したり手入れしたりした。想像するに、庭は家の裏側にあり、親はほったらかしにして荒れ放題だったのだろう。きれいな庭はしあわせな家庭のシンボルだ。心をこめて手入れする。その一点だけに集中する。庭には四季折々の表情があり、少年の努力に報いてくれ、少年の心の拠り所となる。庭の手入れは習慣化し、繰り返しのルーティン作業は心の安定をもたらしてくれる。庭は自分と両親とを繋ぐものだ。それから犬もいる。犬とは犬小屋で一緒に身を寄せ合っていたし、世話もしていたから、心は充分にかよいあっていただろう。

この状況から少年を切り離して、保護施設に入れてしまうことはどういう意味を持つだろうか。少年がせっせと築き上げた小さな世界からの切り離しは。

フランスと日本では、家族の在り方など文化的に異なる点も多いのだが、私にとってアルベール君のケースには非常に考えさせられ、多視点からものを見ることの大切さを教えてくれた。つまり私は少年を施設に入れることで「親を罰する」ことばかり考えて、子供の気持ち、子供がどうしたいかなどにはまるで思いが至らなかったのである。この時点で中学生くらいなのだから、話を聞いてあげればよかったのだと思う。

そしておそらく、地域のケースワーカーや学校関係者などで、家族ごと見ていくのが理想だったのだろう。地域のイベントやスポーツ、できればキャンプなどに誘ったりもできたかもしれないし…。もちろんケースバイケースで、命の危険がある場合は、役所が早めに動くことは必要だ。

聞き取りを行った著者シリュルニク氏は、アルベールを評して「異常なほど優しい人間」と言っているので、私たちは今、安心していいのだろう。 

シリュルニク氏は、ナチ強制収容所を生き延びた人々やルーマニアの孤児院の子供たちの聞き取り調査をつうじて、豊富な例を紹介している。その中のひとつ、ルーマニアのおばあさんの話。

ルーマニア革命(1989年)のあと、国は大混乱、孤児院には溢れるほどの孤児がいた頃のこと。歯の抜けた貧しい老婆が、孤児院から三人の汚れた小さな子を引き取った。そして情愛たっぷりに大切に育てた。すると一年後には男の子たちは、たのもしい小さな男たちに変身した。おばあさんの愛に応えようと、家を修繕し、野菜や草花を植え、豚小屋を作り、豚の世話をし、家事もすべて引き受けた。

おばあさんの面倒もよくみた。この弱いおばあさんのことは自分たちに責任がある、と感じていたからだという。と同時に自分たちの自尊心も建て直すことができた。そしてみんなでしあわせに暮らしましたという話。童話か昔話みたいでほっこりしてくる。

 

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(写真:同じく1983年ノルウェー

 

責任がある

ここで再び映画『さとにきたらええやん』。 

この映画から教わることは多い。子供たちの瞳の美しいこと、真っすぐで相手をいたわる心や助け合いの精神など、胸を打つことはこれだけではない。

さきほどの責任ということば。ルーマニアの子供たちが感じていたという責任。ふだん私たちは何気なく使っているが、子供の口から聞くとずっしり重く感じることば。
「さと」の子どもたちから感じるのもこの「責任」である。あの子たちは社会における自分の位置を知っている。自分が自分の人生の主役であり、自分の責任で道を切り開いていかねばならない、とはっきり認識している。さとでの暮らしや「子ども夜回り」や、バザーなど地域でのイベントを通じて身についたものだろう。この点で私はしばし、自分の中学・高校時代を振りかえり、比べてみて愕然とする。
この子たちは将来いろいろな困難もあるだろうが、はねのけてやっていけるだろう。「さと」の生活が与えてくれた宝を全部持っているのだから。愛情に包まれ、安心して暮らせる場、信頼できる大人たち、規則正しい生活、役割分担や小さい子の世話、時には厳しく叱ったり諭してくれる人たち、そして地域との絆。子供が健全に育っていくに必要なものが「さと」にはすべてある。

マリリン・モンローだって、孤児院から引き取った里親がまっとうな人間だったら。だれでもいい、大人のだれかが無条件の愛情を注いでくれていたら。どんな幸福が待っていただろうか。あんなにきれいなんだもの。大人になってからだって遅くはない。彼女の孤独や絶望に気づいた人がいて手を貸してくれたなら。里親のもとで受けたトラウマを話せる人に巡り合えていたら。だけどマリリンは運がなかった。それで輝くような若さのまま、神様に呼ばれて旅だってしまったのだ。

 三つ子の魂 百まで

こちら ルシュールクミオさまのコメント。

レジリエンス。興味深い視点の分析ですね。ストレスに抗しようと考える以前の、何でも吸収してしまう幼少期での異常な体験は、その後の人格形成に少なからず悪影響を及ぼしてしまうことに不憫さを感じてなりません。2016/11/07

 

私が書きたかったことはここにある。ストレス、トラウマ、こうしたカタカナがわかりにくかったら、深い心の傷や辛い記憶だと考えてくれればいい。個人的な体験、虐待や深刻ないじめ、事故、肉親の突然の死などのほか、集合的な体験、たとえば大地震津波などの大災害、歴史を振り返れば戦争や収容所体験など、のちにPTSD心的外傷後ストレス障害)を引き起こす原因になるものから、私たちは逃がれられない。そこまで深刻でなくても、傷痕として残る思い出は人はいくつも持っていると思う。

レジリエンスとはそれをはねのける力である。「ストレスに抗しよう」(コメント)とする力のことで、それは「何でも吸収してしまう幼少期」(コメントに基礎が築かれる。シリュルニク氏によると、三歳くらいまでだという。それまでに注がれるたっぷりの愛情が鍵となるのである。

「異常な体験は、その後の人格形成に少なからず悪影響を及ぼしてしまう」(コメント

この「異常」は虐待でなくても、普通まわりの世話をしてくれる人から受けるはずの、愛のない場合も含まれる。孤児院でミルクをもらい、オムツ替えはあるが、あとは眠るだけの生活を送った子は、その後優しい夫婦のもとにもらわれてどんなに愛情を注がれても、発達に禍根を残すことが報告されているという。

さらに驚くのは、生後6か月くらいの期間、あるいはもっとさかのぼって妊娠後期の時期から言葉を覚える前の期間に、脳機能の骨子が作られる、とシリュルニク氏はいう。その時期に他者(親、家族、でなければ代わりに親身になって世話をしてくれる人)との相互作用を通して基礎が作られるというのだ。大切な時期なのだと改めて思う。

 

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(写真:ストックホルム1983年)

 

トラウマを乗り越えるには

シリュルニク氏(1937年生まれ)まさにレジリエンスを体現している人なのである。両親をアウシュビッツで失い、自身も6歳のとき、収容所へ送られる運命だった。ボルドーシナゴーグで、他の大勢のユダヤ人市民とともに待機する間に、トイレに行き、壁をよじ登って隠れ、皆が出発するのを待ってから外へ脱出したという…。

これだけでもうどれだけ凄まじい幼年時代かわかる。11歳の時には精神科医になろうと決意し、おば(母の妹)のもとで苦学しながら医師になった人である。

 

憎むのでもなく、許すのでもなく―ユダヤ人一斉検挙の夜  (2014/3/10)
ボリス シリュルニク (著), 林 昌宏 (翻訳)  吉田書店

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『夜と霧』『アンネの日記』をしのぐ、21世紀のベストセラーとして話題になった自伝。さまざまなメディアで紹介され、みなさんの中で読んだかたもいらっしゃると思う。どうやってトラウマを乗り越えたか、詳しく書かれているので関心のある方はどうぞ。最近では、IS戦士やテロリストの心理についての論考が話題になっている。

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(写真:スウェーデン国鉄一等車。1983年)