(写真:3月23日朝、アントウェルペン市庁舎前)
資料調査のためアントウェルペンにいるので、ブリュッセルで起きたことはTVとパソコンで追っていた。残念ながら、多くの人が口にしていることだが
「ついに来た」「とうとう来てしまったか」
というのが空港の一報を聞いて最初に思ったことだ。11月のパリのテロ以降、ベルギーもレベル4に引き上げられ、12月に日本を発つときは「よりによってなんでベルギーなんかに行くのか」と言われたものだ。クリスマス、年末年始の休暇シーズン、人々が浮かれ気分でたくさん集まるところが危ない、ということだった。
市庁舎前で、アントウェルペン市長であり、N₋VA党首でもあるBart De Wever氏がVTM局のインタビューを受けているところ。右から2番目の男性。(偶然出会った光景)
市長「この国で生まれた人間にこんなことができるなんて!他の土地では受けられないような庇護のもとに育てられたというのに!」と怒りを隠さない。
23日正午は1分間の黙祷が捧げられた。私が乗っていたバスも停留所で止まり、エンジンをとめ、運転手、乗客とも目を閉じた。
以下の写真は、De Morgen紙の WEB紙面から。
テロの日の夕方
このあと黙祷のため、さらに人が集まってきた。
déjà-vu デジャビュ
地下鉄テロのあと、地上に逃げ出し、血を流しながらうずくまる乗客や救助に当たる人たちを見ていると、既視感がいよいよ増して胸が締め付けられる。サリン事件、ロンドンやマドリッドのテロ、ニューヨーク9.11や去年のパリと・・・。私たちは既視感ともなじみになってしまうのか。
以前、「ブリュッセル街歩き」で載せた「三菱のアイ・ミーブ」。爆発のあったマールベークはちょうどこの車の下くらいの位置である。
https://www.yahoo.com/news/bloody-week-brussels-police-raid-bombings-175610213.html?ref=gs
助かった人たち
翌日のDeMorgen紙(ふだんはWEB版しか見ないが)は新聞をちゃんと買った。丁寧な聞き取りやボランティア(市民、バス会社、タクシー運転手など)の活動のようすなど興味深く読んだ。
地下鉄は3両のうち、真ん中の車両に爆弾が仕掛けられた。地上にまで逃げてこられた人はあとになって、自分が地獄と隣り合わせだったことを認識し、再び恐怖に慄くのだ。もう二度とメトロに乗れないという人も。
ある映画評論家の人の話を紹介しておく。この人はラジオ番組を持っているので、ネタとなる映画を見にいくところだった。空港のテロのニュースは出がけに聞いたけれども、今日はじっとうちにいたほうがいいかな、とは全く考えなかったという。メトロの閉まりかけたドアに飛び込み、ほっと一息。一番前の車両だ。いつもなら一番前は避けるのに。だって事故が起きたとき、先頭車両が最もあぶないと言われているからな。そんなことを考えていたら、すさまじい爆発音がした。自分のメトロではなく、プラットホームで爆発したと思ったそうだ。電気が消え、真っ暗になり、煙がたちこめ、「一刻もはやくここから逃げよう」。しかし何も見えないのだ。突然小さな明かりが見えた。シュールな光景だと思った。それは運転手の懐中電灯で、彼は非常に落ち着いた口調で皆にこう言った。「これは私のメトロだ。私がみなをここから連れ出すから」そして亡くなった人たちの体を踏まないように苦心しながら、地上の光が見えるところまで必死で歩いた。誰も何もしゃべらなかったという。
ANA
空港のチェックインカウンターの写真。(DeMorgen紙)
ANAという文字を見るとどきっとする。ANAの職員や日本人観光客は巻き添えにならずにすんだ。ブリュッセル・成田直行便は、出発が夜、到着は昼の3時、と時間がずれているから。乗り継ぎの人はどうだったんだろう。
私たちはみな、いつどこで災難に巻き込まれてもおかしくない世界に暮らしているのだなとあらためて感じる。
空港が当分封鎖なので、ANAの帰りのチケットはあきらめることになりそうだ。今日24日と25日、ドイツのデュッセルドルフからであればANAが乗せて帰ってくれる、とサイトにあったけれども、この計算は私にはわからない。3月31日までの帰国便チケットを持っている人が対象だという。毎日一便飛んでいて、いつもほぼ満席で積んできた日本人を、この二機の臨時便で連れ帰れるわけがない。申し込み順だとすれば、たぶんすでにツアー旅行の会社が押さえているだろうなあ。
というわけで、ブリュッセルへ戻ったら航空券を買うことになりそうです。
追記:翌日の市庁舎前
半旗が掲げられたコンシャンス広場