イタリア的なもの &文化的アイコンだったジュリエット・グレコ

イタリア的なものがたまらなく好き。

先日まるさんにイタリアに連れていかれた😉フォンタナの曲を紹介していらしたので、私もしばし聞き惚れていたらイタリアンポップスの世界に入り込み、と同時に70年代にタイムスリップしてしまった。レコードをものすごい久しぶりに引っ張り出した。

まるさんの記事はこちら。中で歌が聴けます。まるさんのフォンタナ愛がすごい!そしてNHK世界の音楽」という番組の思い出も語っている。↓ぜひ↓

garadanikki.hatenablog.com

 

フォンタナは私たち(←ごめん、まるさんと私を一緒にしてる)の親世代の歌手・俳優で、このIL MONDOChe Sarahttps://www.youtube.com/が特に知られている。Che Saraはみんなで歌える歌で聞いたことがある人も多いのでは?

youtubeをあれこれ見ていたら、イル・ヴォーロ(Il Volo)という若い三人組のテノールが歌っているのも見つけた。この三人、やぼったい感じのする容貌で華やかさはないが歌唱は抜群で良かった。そういえば「白鳥の湖」(Notte Stellata)を歌っていたのを思い出した。羽生結弦選手が曲を使って話題になったことも。

 

ああ、私も嗜好を語りたい。言葉にはできないがイタリア的なもの。

イタリアの歌には、それがロックやバラード調であっても、町かどで曲が流れているのをちょっと耳にしても「あ、イタリアだ」とすぐわかる。特有のメロディー性がある。独特の匂いというのか。私はそれが好きすぎて、70年代にイタリアに行ったときは興奮しまくりだった。カフェやショッピングモールで曲がかかるたび「あれは誰?」「あのレコードを買いたい」などとイタリア人のご夫妻を困らせた。「あとでね、うちで教えるから」とやんわり注意され引き下がるが、歌手の名前を忘れないといいなと心の中で心配した。

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昔はLPレコードだから重くてたくさんは持って帰れない。お小遣いもあまりないことだし、選びに選んで数枚というところに落ち着く。

私が好きだった歌手の一人 マルチェラ・ベッラ(Marcella Bella)。ベッラは形容詞「美しい」の女性形。芸名ではなく本名なのがおもしろいね。

同世代である。イザベル・ユペールも同世代だ。同世代の才能で、早くから活躍している人たちのことは、まるで知り合いでもあるかのように勝手に応援してしまうのだ。ユペールの次回作について、「あのりんごちゃん(『レースを編む女』の主人公)がヴィオレット(*)をやるのよ。あの若さでねえ」などと友人たちと話したものである。

*『ヴィオレット・ノジエール』Violette Nozière(1978)。ユペールはカンヌ映画祭で女優賞を受賞した。ヴィオレット・ノジエールは実在の人物で父親を殺害し、死刑を宣告された人。

ユペールが映画を撮っているころ、歌手のマルチェラ・ベッラは初来日。1977年である。マルチェラはすでにラジオ番組などを通して人気が高まっていた。リハーサルを見に行った人が驚いていたこと。リハなのに本番と同じように全力で全曲を歌っていた。大丈夫なんだろうか、本番は?と思ったら本番も同様のエネルギーでダイナミックに18曲を歌いあげたという。

イタリアが久々に生み出したビッグなアイドルである。しかしイタリアでは年少者を守る社会の規範があって、13歳ですでに様々な歌のコンテストで受賞していたマルチェラも、ひとまず芸能界から離れた静かな暮らしの中で温存された。

しかしいったんデビューすると、すごい勢いでヒット曲を出していった。その類まれな才能と歌唱力、どんなジャンルの歌もこなせる広いレパートリーは、他の伊女性歌手には見られない特徴だと思う。そしてもう一つ、作品がきょうだい愛の賜物であることも多い。二人の兄たちも音楽の才能に溢れている。

 

youtubeで探してみると、皆さんに紹介したいような適当なものがない。難しいんだな。うちのレコードを聴かせてあげたいが😥

せめてこれかな。オーストリアのTV局スタジオを歌った「私は明日…」という曲。

www.youtube.com

 

もうひとつは「シチリア・アンティカ」。自分の故郷シチリアに捧げた美しい歌である。兄のアントニオが歌詞を書き、もう一人の兄ジャンニ(歌手)が作曲、妹が歌う。

www.youtube.com

先日SPYBOYさまが「シチリアーノ 裏切りの美学」という映画を紹介していた。予告編を見て音楽が流れただけでもう心がうずうずした。ああ、私の好きなイタリアだ。しかもシチリア。マフィアの話であるが、シチリアは美しいところだ。行った人は皆そう言う。マルチェラはシチリア島の第二の都市カターニアの出身である。カターニア世界遺産になっていて、よく保存されたすばらしい街並みと美しい海とエトナ山という火山がある。

そして夜NHKの「世界ふれあい街歩き」を見たらちょうどカターニアの回(過去の放送)だった。こういうことはままある。すべてが私をイタリアの方に導いていった。

 

ジュリエット・グレコ だけは100歳以上生きると思っていた。

訃報が続いている。グレコ(Juliette Gréco)は22回も日本に来てくれた人。女優としても1950~60年代に活躍したが、なんといっても日本のシャンソンブームに火を付けた人で、フランスを代表する歌手である。93歳だった。

グレコは2016年に日本で最後のコンサートをする予定だったが、体調が悪くてとりやめになった。それを機に引退を表明した。

グレコは戦後パリ、フランスの文化的アイコンだった。「サンジェルマン・デ・プレの女神」と呼ばれ、サルトル実存主義哲学者に愛された。ビートルズの名曲「ミッシェル」はグレコをイメージして書いたとマッカートニーが言っている。Billboardからその辺を引用してみる。

 1950年代後半にセルジュ・ゲンスブールと出会ったことで、彼女は芸術的に頭角を現した。当時まだ若いミュージシャンで、フランス歌謡に新たな活力を与える才能に長けていたゲンスブールは、1959年から5年にわたり彼女に楽曲を提供し、その内10曲がレコーディングされた。その一つ、「ラ・ジャヴァネーズ」(ジャワの女)は高い評価を得た。
 ボブヘアとクレオパトラのようなアイライン、飾り気のない黒ずくめの衣装がトレードマークだった彼女は、1968年5月当時のフランスのファッション・アイコン的存在でもあった。自身も英国のスウィンギング・シックスティーズの象徴だったマリアンヌ・フェイスフルは、「誰かになりたいのだとしたら、私はジュリエット・グレコになりたい」と述べたことがある。ポール・マッカートニーは、ビートルズの1965年の名曲「ミッシェル」はグレコにインスパイアされたと2007年のインタビューで明かしている。・・・

最後に写真を。

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1960年オーソン・ウェルズと。Photo Rue des Archives. BCA

 

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1966年に結婚したミシェル・ピコリ(Michel Piccoli)とローマに旅行した時(1967年)

Photo Keystone France

 

そして1961年11月25日 東京にて。

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Juliette Gréco et le Japon, une autre idylle

Photo The Asahi Shimbun. Getty Images

 

ではまた次回!

強そうな杖はいかが?&偉大なるRBG&大臣はUSB使える人?

いろいろな話題。忘れないうちに書いておこう。

巨大ロボの杖

タイムラインに流れてきてビックリしたこと。今は巨大ロボ・キャラクターの杖があるんだね~。

皆さんもう知ってた?フランスやイタリアでも売れそうだな。ミッフィースヌーピーがあるのはだいぶ前に見て知っていたけれど。

私はマジンガーZ・・・じゃなくて、猫柄にする。

 

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https://item.rakuten.co.jp

偉大な人とお別れ

RBG氏(ギンズバーグ最高裁判事)が亡くなったのは18日、87歳だった。

そして先週25日、連邦議会議事堂内で追悼式典が執り行われた。

https://pbs.twimg.com/media/EixNhV8WAAM5ZFD?format=jpg&name=900x900

https://pbs.twimg.com/media/EixsrHWWoAADeT7?format=jpg&name=900x900

reut.rs/309yUMS

 

RBG氏は夫の勧めで運動を始めたのが1999年。退役軍人のジョンソン氏を専属トレーナーに迎えた。ダンベルエクササイズやスクワットなど多種のエクササイズを行なっていて、その様子はこちらの映画予告編でも垣間見ることができる。この年齢としてはかなりハードだ。

www.youtube.com

そのトレーナーのジョンソン氏が、棺の前で敬意を込めて、お別れの腕立て伏せを三回するようすがツイートにある。ここは涙がこぼれてしまった。

アメリカだけじゃなく世界中の女性、いや女性だけでなく世界中の差別や不平等に苦しむ人みんなのために闘ってくれた偉大な人が逝ってしまった。ああ、もう少し長く・・・と思わずにはいられない。しかし彼女は若い世代に期待を寄せていると話していた。グレタさんやマララさんたちがいるから大丈夫だと。バトンは若い世代にちゃんと渡ったかな。

RBG氏について詳しく知りたい人はこちら。渡邊裕子さんが過去記事(2019年4月)を再掲してくださっている。良い記事→【ギンズバーグ最高判事死去】アメリカでもっとも尊敬された女性RBGの生涯 | Business Insider Japan

 

葬儀に9600万って何??

www.asahi.com

いやあまさか…と思ったが本当だった。9600万円!狂っているよね。

twitterを見ていたらケン・ローチの言葉が話題になっている。マーガレット・サッチャーが亡くなった2013年の発言だ。

当時のガーディアン紙へ行って見てきた。ローチによれば、イギリス国民が置かれている現在の惨状を生み出した張本人はサッチャーである。ブレアはそれを真似したにすぎない。しかるにサッチャーを敬意をもって弔うにはどうすればよいか。葬儀も民営化すればよいのだ。競争入札にかけて最安値を提示したところにやってもらおう。サッチャーだってきっとそれを望むことだろう。ざっと。

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(*2013年4月9日The Guardianからのローチ発言切り取り)

 

桜田大臣って覚えてる?

もう2年も経つのだ。USBひとつで桜田大臣は世界のメディアで話題をさらった人。

五輪相でありサイバーセキュリティー担当だった桜田氏、国会の答弁でいろんなことが次々にわかってくる。「パソコンは使わない」。USBは「使う場合は穴に入れるらしいんですけど…」

桜田氏のことを責めているわけでは全くない。人柄は良さそうに思った。ただ役職には適材ではなかった。私もIT関連すごく疎いが、特に困らないので涼しい顔をしている。年齢の高い人はスキルがなくったって仕方ないだろう。

し・か・し 大臣は誰でも飾りのように置いておけばよいというものではない。コロナ禍を通して、日本全体がIT関連、テレワーク、教育のオンライン化が酷く遅れていることがあからさまに示された。海外の人も「あの桜田さんだけじゃなく日本全体が遅れていたのか。かつては羨むような先進性、高い技術の国だったのにね」と驚いてくれる。

ちょっと話が逸れて申し訳ないが、1980年代ポーランドの連帯が注目を集めていたころ、筑紫哲也氏が連帯事務所にコンピューター数台を提供しようと申し出たことがある。ワレサ氏は「別に日本みたいになりたいとは思わないからそれは結構」と言って断ったのである。感慨をもって思い出すエピソードだ。

「今度の人はUSB自分で使えそう?」と言われてしまい、私は腹がたって仕方がない。ファックスが使われていることだけでも海外の人には衝撃だったらしいが、医療現場ではフロッピーがまだ現役、という話をすると目が真ん丸になる。

さて2年前、桜田氏は顔写真入りで英語の主なメディアには記事が載った。私はオランダ語もチェックしているが、その記事が印象に残っているので紹介しておこう。

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USB-poort? Japanse digiminister heeft nooit een computer bediend | 

桜田氏に関してはすでに書いた内容。それと大臣の国会での答弁がしどろもどろなことについて。だがオランダ人がここで思い出すのは元首相のウィム・コック 氏(在任 1994年 - 2002年)のことだという。

写真を見ていただきたい。コック首相が少女からパソコンのレッスンを受けている。

まずマウスの使い方を教わる。首相がマウスを持ち上げるので「下に置くのよ」と言われる。その様子(映像)を見てTVショーのスタジオに来ている観客が笑う。それを見ているお茶の間のみんなも笑うというわけ。クリックなど一連の動作、Eメールを送るなどは首相にとって初めてのことなのである。→https://www.youtube.com/

しかしこれがいつの話かというと、

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切り抜いた画像でわかるように大変古い。

なんと1994年!94年は我が家はフランスに住んでいたがコンピューターはまだなかった。帰国してから買ったがしばらくはワープロ機能だけ使っていたと思う。

皆さんはどうでしたか。

 

今日はジュリエット・グレコのことも書きたかったが、もう既に長いので次回に回すとして。

みなさん、いつもコメントをありがとうございます。

 

URURUNDO 東大卒美学専攻40代女子。大佛次郎をダイブツジロウと読んだので「オサラギジロウ」と私が言うと何でもよく知ってると感心した。二の句を継げず。その話を友達や夫に話すと「今はそんなのかな?」で話は終わった。

勿論人名や地名で読みの難しいものはありますが、大佛次郎文学賞もあるくらいの有名な人なのに(それに猫好きはかなり知られていると思うのに)、東大生が知らないのと思ってしまいます。まあ私も常識・素養がなくて恥かきますけどね。

昔TVのワイドショーの司会者(女性)が「中山道」を「イチニチジュウヤマミチ」と読んだことがありました🤣

darucoro9216kunクレイ映画が好きで、アードマンコレクションはよく 観てました。このパンフも持ってます。グルミットは優秀な犬ですよね!

アードマンスタジオは傑作ばかりですよね。宮崎駿とも親しいという…。パンフもお持ちなんですか!グルミットは人間より賢いし冷静でいいですね。

グルミットを先端技術担当大臣・発明大臣に迎えたいですね。

yagawafuyu 驚きました。私は中学生で読みましたけどねえ、ただし50年前。2000年の大学生はアルバイトでたくさん雇用していたが、確かに彼らの部屋に本はなかった。私の大学時代は狭い部屋の4壁面が本に埋もれていたものですが。

うわあ、凄い!中学生でドストエフスキー!私はやっと大学です😅

Nietoperek 今大学が「収入の良い仕事を得るためのステップ」という位置づけ感が強いから、教養より社会ですぐに役に立つ技術に時間をさけ、という事なのでしょうか。しかしドストエフスキーの犬バージョン、爆笑しましたわ!

shinonomen企業がモンテーニュ随想録を読んでいる学生より、ラグビー部を採用するからでしょう。教養はコミュ力や体力のように分かりやすく役には立たないですからね。

教養は確かにわかりやすくは役にたたないですね(嘆息)。

ではまた続きを書きますので。

 

おまけ

グレン・グールド バッハとの会話

 

追記:

わんおぺまむ (id:one-mam)さんも怒り😤を共にしています。記事をお借りしてきました。

one-mam.hatenablog.com

コロナ禍の大学② 犬だって「罪と罰」くらい読むゾ。

前回に続いてまた大学関連です。

ドストエフスキーを知らなかった東大生

きけ わだつみのこえ』という遺稿集は実はちゃんと読んだことがない。先日爽風上々さまがその遺稿集自体ではなく、「戦争体験」の歴史を扱った本を紹介してくださり、勉強になった。その中に映画化の話もあり、「きけ わだつみの声」は最初は1950年、次は1995年と二度映画化されたという。

sohujojo.hatenablog.com

私が反応した箇所は

 (1995年の映画は)あくまでも「若者へのわかりやすさ」ということを意識して作られているので、若干の違和感が年長者には感じられました。

興味深いのが登場人物は皆ラグビー出身とされていることです。

1950年の第1作の映画では登場人物はモンテーニュの原書を講読するような教養を持つという描写でしたが、すでに大学キャンパスから教養というものが消えていた1990年代では、その方が学生らしく見えたのでしょうか。

 「戦争体験」はしょせんは「断絶」せざるを得ないものかもしれません。

(*太字は私)

興味深い。

講義で読んでいるのはモンテーニュ随想録、エセーのことだろうか。確かに戦前の学生は超エリートだったし、原書を読み、外国語も複数やるのが普通だった。1995年の映画でモンテーニュはさすがに無理というものだが、ラグビー部というのにもビックリ!

大学キャンパスから教養というものが消えていた1990年代。辛辣であるがおっしゃる通り真実である。教養の崩壊はもっと前からだと思う。80年代は既に言われていたし、バブルの頃に拍車がかかった印象がある。

昔、東京にマヤコフスキー学院という語学学校があって、ロシア語や他のスラブ語を習いたい若者が詰めかけていた。当時は個人が経営している語学講座(ドイツ語やフランス語など)が大きな都市なら幾つもあった時代だ。

80年か81年だったか、スラブ語研究の先生が笑いながら「マヤコフスキー学院ってスキーの学校だと思った人がいるんだよ。可笑しいね」と言った。私は内心そうかな?マヤコフスキー知らなくても全然大丈夫、と思った。詩人だったっけくらいの知識しかない私であるが、ロシア語関係でなければ知らなくてもいいと思った。

ところで、はてなの仲間ペレック (id:Nietoperek)さんはマヤコフスキー学院でポーランドを習ったという。また最近twitter上で、その学校でロシア語の教師をしていた人に遭遇してコメントをやり取りした。(いろんなところで意外な結びつきが楽しい!)

しかし、

ドストエフスキーを知らないのはまずいだろうと思う。これはだいぶ古い話だが石田英敬氏が岩波書店の『世界』(2002年11月号)という雑誌に寄せた文章の中に書いてあることだ。エピソード自体はそれより2年前、つまり2000年のことだという。

ちょっと抜粋する。

研究室でひとりの大学院生を相手にバフチンの「ポリフォニー」論についてRoutledgeのCommunication Theoryのハンドブックを教材に説明していたときのことだ。その院生がとつぜん「先生、ドストエフスキーって誰なんですか?」と私に訊いたのである。マンガの三コマ分ほどの長い沈黙とそれに劣らぬほど深い溜息の後、私はついにその日が本当にやってきたことを理解した。その日がやってくるであろうことはもう随分前から予想されていた。あらゆるところにその兆候はあった。…(*)

 

私の夫は雑誌を読んだあと嘆息し「どこも同じだね。だけど東大の院生というところが衝撃だ」と呟いた。大学関係者はもう何年何十年も嘆いている。学生の教養・素養のなさについて。私は日本人教員だけじゃなく外国人、仏人やオランダ人教師の嘆きも受けとめなければならない。うんざりしてよく逃走する(笑)。今は石田氏のあの2000年よりはるかに劣化している。

つまり相手(学生)も当然知っている、共有しているはずの知識があって初めて講義や意見交換は成り立つ。高校まで勉強してきて一定の知識や教養はあるはずなのだ。

普通の会話だってそう。「ほら、チャップリンみたいな…」と言って「誰それ?」と返されたらまあがっかりだが、別の例を出せばよいだけだし、小さな子どもは知らないだろうから、相手に合わせて話を進めていく。

しかしドストエフスキーは大学生だったら当然知っている、何冊もとは言わないが一冊くらい読んだことがあるだろう、という前提なわけだ。

もしかしてあれもこれも知らないかもしれないな、今の学生は。まさか「これ、知ってる人どのくらいいる?」なんて聞いて挙手させるのか。いやいや、それは大学じゃない。

読書離れといわれて久しい。とにかく本を読まない。本を読む体力というものがあって、ずっと読んでいないと読めない、集中できないのだ。「余暇に読書はしたことがないですよ。読書なんて現代国語の教科書と入試対策問題でじゅうぶんですから」と言いきった学生を知っている。それで恥ずかしくもなんともないのだ。

コロナでオンライン授業が中心であることは利点も大きいかもしれない。学生は自分の知らないことはどんどん調べればいい。歴史の、地理の、文学史の教科書を参照すればいいのだ。対面の授業だったら置いていかれることも、自宅学習なら穴を補填したりしながら自分のペースで進んでいける。

 

罪と罰』をよむグルミット

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1995年フランスに滞在していたとき、家族で『ウォレスとグルミット』(Wallace and Gromit) の新作映画を見にいった。私たちはこの英国のクレイアニメのファンでそれまでの作品は全部見ていた。

(上の写真はその後帰国してから買った本(1997年)

映画の中でグルミットが牢屋で『罪と罰CRIME AND PUNISHMENTを読んでいるシーンがある。

その著者は誰か。

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FIDO 

DOGSTOYEVSKY

とある。もちろんFyodor Dostoyevsky(フョードル・ドストエフスキー)をもじっている。フランスの観客はここで大笑い。うちの子どもたちは10歳(上の子)だったから当然わからない。「ねえねえ何で笑ったの?教えて」と小声で聞いた。「後でね」と返した。

クレイアニメなのに目配せ的なおもしろさが満載。例として映画:

The Bone Identity→ (元の映画The Bourne Identity)

The Dogfather→ (元はThe Godfather)

グループ名:Red Hot Chili Puppies"→ Red Hot Chili Peppers

The Beagles →The Beatles

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そしてまた石田氏の東大生の話に戻る。夫と私が夕食時にこの話をしていると、それを横で聞いていた長男(当時はもう高校生)が言ったのだ。「ああ、それじゃ『ウォレスとグルミット』を見ても笑えなかったね」と。

*興味のある方はこちらで全文が読める→石田英敬 blog

今日はここで終わります。

みなさんいつもコメントをありがとうございます。

本当に学びが多いし、その後調べ直して自分の仕事に生かせたこともたくさんあるんです。知り合いでコメント欄だけ読みに来る人までいる(笑)。あの人凄いね、この人おもしろいね、ファンになったよなどと言ってくれます。自分が褒められたわけじゃないのにめちゃめちゃ嬉しく自慢に思っています。

10月からどうしても忙しくなるためちょっとお休みしますが、あと数回連続して書きますね。

ではまた!

コロナ時代の大学生、かわいそうだなと思っちゃう。(大学①)

コロナ禍の大学 

夏頃どなたかが書いていたことだが、大学がこんなにも混乱しているのは長い歴史の中でも学徒出陣のときくらいだろう。学生紛争の頃なんてまだ甘かったなと。

なんとか無事に入試は終わったものの、入学した学生さんは本当に気の毒だと思う。特に一年生だ、二年生以降はまだ良い。私が一年生なら心が折れていたかもね。一葉の写真でしか顔を知らない教員から、次々と配信されてくるオンライン授業をこなし、レポートを書く日々。クラスメートの誰一人だって顔を見たことがないわけだ。図書館や生協や学食がどこにあるかも知らない。我慢の日々で納得のいかないことだらけだろう。

18歳の一年間って他の人生の時期と比べても大きいと思う。人との触れ合いや何気ないお喋りって大事。出会いがあり発見があり、意見交換や社会活動などを通して成長し、ときに持て余すほどにムダな時間がたっぷりあって……ああ、そうだ、学生時代に付き物のムダ、寄り道、道草。それこそが本質なのにね。(←個人の意見です😆)

まあ、大学の側だって初めてのことだった。震災の経験はあっても伝染病は初めてだ。春はさすがに大混乱だったが、夏のあいだに、各大学・学部では秋に向けて喧々諤々議論があり、教員にも学生にもアンケートなどで広く意見を聞いたりしたのだ。結局オンラインと対面授業の組み合わせでやってみるというところに落ち着く。年度内はすべてオンラインという学部や学年もある。対面の場合はゼミとか実験とかうんと少人数クラスになる。

またオンラインといってもいろいろな形式があって大学が望む環境を学生側が持っていないことも多い。そもそもパソコンを持たない学生に貸与するかどうかでもひと悶着あった。

また大学教員は年齢が高いし、健康に不安のある人もおり、学生や大学の要望に応えられないことも…。「オンラインのみ」と希望を出し、通らない場合は辞めるという教員だっている。

様々な事情を加味して教室の割り当てをしてもすぐに問題に行き当たる。少人数の対面ゼミのあと、次の授業がオンラインの講義科目だったら?瞬間移動でもしない限り帰れない。構内のどこかでオンライン授業を受けるのか。ディスタンシングはどうなる。PCは借りられるのか持ち込むのか等々。まだいろいろな問題がある。

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(自転車で散歩中、朝8時カヤバ珈琲さんでジンジャーエールを頂く)

 

先日フランス2で見た大学の風景。ちょっとのぞいてみよう。

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授業は自宅でオンラインで受けることもできる。学生が選べるのがいい。

それにしてもいきなり階段教室とは驚き!

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休み時間はすっかり寛いでマスクを外してしまい、見回りの職員の人に注意されている。昼のランチが終わってお喋りタイムだった。

ところでマスクを見て何か気がついた人いるかな?フランスではマスクは使い捨てを推奨されているので、手作り布マスクなどはいけないんだって。でも着用を守っていることに私は驚いている。あのフランス人がねえ。

オランダでは誰もつけてないので続けてニュースを見ると変な気分。


東北大学のデジタル変革

そんななか、大きな展望を持って体制を整えてきた東北大学が抜きんでている。東日本大震災での経験を踏まえ、リアル(現実)とサイバー(仮想)の融合を進めてきたのだという。今年度は後期から講義動画の収録配信サービスを行う。ITが苦手な文系教員にも指導をし、これまで通りの講義を配信する。

4月には全事務職員1600人が遠隔勤務の仮想クライアントのライセンスを取得したという。押印も廃止し、電子決済なので、職員1600人が100%リモートワーク可能という驚くべき環境だ。また研究面でも、先端研究設備のオンライン共用化などを計画しているということだ。トップが優れているとこうも違うのか、とため息が出る。小中学校と同じくここでも格差が見える。詳しくはこちら:https://newswitch.jp/p/23734

 

大学には宝物がいっぱい!

kofunmeguri.hatenablog.com

先日ぶじんさまが國學院大学博物館訪問の記事を書いていた。大学はすごい財産を持っている。お宝だらけ、稀少なものがいっぱいある😍オークションでやっと競り落としたものもある。

大学付属の博物館がこのように展示してくれる時は一般人も見られるが、普通は倉庫の奥の奥にしまってある。でもあなたが関連の研究をしている、論文を用意しているというなら話は別。それどころか教授が個人で所有・所蔵しているものだって見せてもらえる。

そうして図書館である。最近は東京都内の幾つかの大学で相互利用できるシステムもできていてすごく便利になった。(昔もそうだったらよかったのに😗)

図書館こそお宝の集積所だ。故人の家族から寄贈された蔵書群や資料はもちろん、おもしろいことに近隣の大使(館)からも珍しい寄贈がある。大学図書館はまさにワンダーランド。大学生ってすごい特権なのだ。

あの歴史学者磯田道史氏(『武士の家計簿』など)の有名なエピソードを思い出す。

慶應大学の図書館にある歴史書を全部読もうと意気込むあまり、ろくに食事もとってなかったものだから気を失ってしまい、救急車で運ばれたことがあった。笑ってしまうけどいい話だな。

実はこの人最初京都府立大学に入学した。しかし大学院がないことや慶應の速水融先生(エマニュエル・トッド氏と親交が深かった)に惹かれ、再び大学を受け直してやってきた。来てみたら(1989年)先生がいらっしゃらない。なんと慶應大学経済学部長を退任し、京都の国際日本文化研究センター教授に就任していた。すれ違い?あちゃーっ!

ところが先生の研究室がまだ慶應大学の研究棟地下に残っていて、先生はよく通っていらっしゃるというのだ。歴史人口学という学問は、大きな研究室が必要で、膨大なデータを扱うのだが、できたばかりの京都のセンターはまだ環境が整っていなかったというわけだ。

磯田道史氏の凄いエピソードをもうひとつ。ずっと古文書のそばにいたくて、慶應大学の守衛清掃会社の社員になり、古文書室の古文書整理をやっていたという話。何とも魅力ある学者さんである。

ともあれ大学生はとてつもないステータス。なのにコロナでしばらくはまだ図書館使用は禁止、本当に残念だ。せめて早く図書館が使えるようになるといいね。

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TOKYO BIKE 谷中の自転車屋

ちょっと今日は書ききれなかったのでまた明日!

🌸映画好きのみなさんのためにこれをおくります。

5時から7時までのクレオ 

勝手にしやがれ

 

 

白昼夢もカカオ農民も自助ばかりいう政府も もうご免だ。

IT担当大臣

朝15分しかtwitterを見ない私。その短時間で、新内閣についての嘆きを、特にフィンランドの、女性が活躍し眩いばかりに若い内閣と比較した画像ツイートを100件以上見る羽目になった。皆が嘆きまくり羨ましがり嘆息していた。

羨みついでに(笑)オランダもすごくいいので見てね。私は毎日オランダのメディアをチェックしている。下は第三次リュッテ内閣、コロナ対策なども含め現在(9月14日)44%の支持率だという記事。

お見せしたいのはこの集合写真である。首相はじめ閣僚たちの明るいこと!

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EenVandaag

見ただけでニッコリするね。ちなみに首相は手を挙げている人。(どうでもいいことだが独身なんだって)

フィンランドの内閣見たい人はこちら→Congratulations to the new Prime Minister of Finland 

菅氏が継ぐらしいという噂の頃から、ああこりゃ新味はないなと期待は一切していなかった。だけどこんなに爺さんばかりとは!年齢制限あってもいいよねと思う。いじましく自分の居場所にしがみつき、既得権益は絶対手放さないぞという気が満々に溢れている。

田中真紀子氏の「安倍家の生ゴミのバケツのふた」発言には思わず吹いたし、

上西充子氏@mu0283:

菅義偉氏の質問への答え方を見ていると、「まず・・・」と始まることが多い。「まず前提として」のような「まず」だ。質問に答えるまえにこれは述べておきたいというような「まず」。そして、「まず」の話がどこまで続いて質問に対する答えがどこから始まるのか判然としない。「まず・・・」と前提的な説明をしてから、「その上で、〇〇についてですが」と質問に答えるならまだわかる。しかし、「まず・・・そして・・・」とだらだらと説明が続いていき、質問に対する答えは分かりにくい形でどこかに埋もれてしまう。埋もれさせているのだろう。

おっしゃる通り!私たちはずっとそれを見てきたから。

でも今日はその話ではなく「菅総理肝いりのデジタル担当大臣」のことを書きたいのだ。おお、いよいよ日本も衰退後進国から浮上することになるのか。

 

オードリー・タンさんとは言わないけれど、民間から優秀な人を入れてほしいと思っていた。だが名前を聞いてびっくり。「平井卓也って、どこかで聞いたような?」もしかして香川県の?!うわ~っともう少しでひっくり返るところだった。私がチョー贔屓にして心から応援している小川淳也議員の邪魔ばかりしている人、ライバルじゃん。

平井卓也氏(62歳)は衆議院香川1区選出で当選7回。第4次安倍改造内閣でIT担当大臣として初入閣…

前にも関連の役職についていたとはね。ともあれ私は映画「なぜ君は総理大臣になれないのか」の平井氏しか知らなかったのである。映画をご覧になった人には私が我慢してここでは言わないことを察してくださると思う。

昨日のエントリでちょうどSPYBOYさまもこれに触れている。

平井氏、あんまり期待できないことはわかった。ネトウヨの「親分」で、福島瑞穂氏に「ババア、黙れ」コメントをした人で、暴力団系企業から献金…か。詳しくはこちら↓

spyboy.hatenablog.com

コロナが見せつけてくれた苦く痛い現実

登氏を登用できる国だったらなあ!とつくづく…

日本が絶望的に遅れていることはじゅうぶんわかったから、何とか取り戻していかなければ。

登(のぼり)氏と読んでね。登氏は1984年生まれの若くてめちゃめちゃ優秀なエンジニア。twitterもフォローしている→Daiyuu Nobori (登 大遊) (@dnobori) 

記事を読むたびワクワクする。若くて優れた人は男女問わずたくさんいると思う。何故台湾みたいにそういう人を登用できないのか。選ぶ側の問題?組織や企業風土もあるだろうし、採用されても環境や待遇が悪かったり、上層部の頭が固くて理解がなかったり…と日本ならではの問題があるんだろうな。私たちはやっぱりカカオ農民のままなのか。

はてなブロガーでもある登氏の、2007年の記事を貼りつけておこう。コメント欄が熱い。このときまだ22歳だった。

softether.hatenadiary.org

この続きはいずれ書くとして…

訃報が飛び込んできた!

RBG様とお別れ。

www.bbc.com

3日前にこれを読んだばかりなのに。「幼稚園の先生になったつもりで説き続けました」ここが好き。

ムービープラス見られる人、来週『ビリーブ』ありますよ。 

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皆に愛され尊敬された ギンズバーグさんのご冥福を祈ります。

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こちらはよんばばさんにプレゼント。

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ではまた続けて書きます。 

追記:

 

 

愛も不時着もないけれど、好ましい北朝鮮の青年の思い出(+観光ビザとスタンプ)

北朝鮮からの留学生に町なかでばったり出会い、しばしお喋りした楽しい思い出…今でも鮮明に蘇る。それが1978年のプラハだというのに。北朝鮮のことが話題になるたび「あの人どうしたかしらね」と記憶を新たにするため古びることはないのだ。心の中の彼は「愛の不時着」の俳優さんと同じくらい、カッコいい好青年のままである。

チェコスロバキアは学生時代、1977年から何度も訪れていて、ポーランド民主化運動「連帯」の始まりを聞いたのも1980年のプラハだと前に書いた。過去記事参照:世界中がレーニン造船所にくぎ付けだった頃 「連帯」

北の学生と会った話いつか書くねと林さんに約束した。書く書く詐欺になるのは嫌なので今日やっておこう。(他にもいろんな人に軽く約束してしまった事柄、ゴメン😓ちゃんとやります)

若い人たちには想像もつかないだろう。冷戦時代の子である私の頭の中で、世界地図はざっくり東か西に分かれていた。つまり第二次大戦が終わり、世の中少しは落ち着いていたものの、すぐさま世界の冷戦構造に組み込まれた日本。朝鮮戦争があり、子ども時代にキューバ危機、多感な時期はベトナム戦争。世界のあちこちで植民地が独立し、民主化運動が起こっては潰された時代である。世界地図は目まぐるしく書き換えられ、もう白地図でいいんじゃね?自分で書き込むから、と思ったりしたそんな時代。

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プラハ旧市街。女性の服装^^)

78年の夏は前年の民泊ではなく、個人宅の屋根裏の小部屋を借りていた。民泊の話は前に書いた。民主主義は時間がかかる &シンボルスカの詩と大震災 ポーランド② 

一旦友人ができるとそのまた友人や同僚や親戚などに紹介され、「うちに泊まって」とあちこちから申し出を受け、住む所には困らなかったばかりか、キャンプや小旅行にも一緒に連れていってもらっていた。なので観光客としてではなく、市民生活のリズムで行動していた。

ある日友人4人(カップル二組)と出かけ、小腹がすいたので屋台でフライドポテトをつまんでいた時のこと。「日本のかたですか?」と日本語が聞こえた。びっくりして振り向くと一人の男性が笑顔で立っている。まわりに4人か5人の男たち。私は頬をポテトに占領されていたので、こくんと首を縦に振った。

青年は自分と仲間は北朝鮮からの留学生だと自己紹介をし、矢継ぎ早に質問を投げかけてきた。プラハで勉強しているのか、お友達はチェコ人か、いつまで滞在するのか。また東京のどこに住んでいるか、大学の専攻は何か等。初めて会った人間に対し、そんな質問攻めは不躾に思うかもしれないが、私の受けた印象は違う。日本語が話せる喜びや好奇心が体から溢れていた。また同じ年齢の者同士が抱く親近感やほっとする感じもあっただろう。

私は青年を観察した。同伴のお仲間とは明らかに雰囲気が異なり、あか抜けたスマートさがあった。皆のようにスーツ姿ではなく、トロイ(パイプから煙が三つ出ているロゴで有名。70~80年代に流行った。|TOROY|)のセーターを着ていた。その下に白いワイシャツ。話す日本語は訛りもなく完璧で、かといって紋切り型でもなく丁寧過ぎもせず、言葉の端々に親しみが現れていた。

私がもっとも驚いたのはまっすぐで美しい眼差しだった。いくら若くたって20歳も過ぎれば子どものような無垢な邪心のない眼は持てないものだ。照れもあるだろうし、様々な感情が心の中を行きかって、それは眼のなかに表情として現れるはずだ。しかしこの青年はこちらがドギマギするほどのまっすぐな視線で見つめてくる。そこに性格から来るであろう明朗さと、話し相手に対する旺盛な好奇心が見え隠れしていた。

私たちのやり取りを、両陣営の連れはおもしろそうに見物していた。ピンポンのようなやり取りであったが、私からの質問は明らかに少なかった。その当時何かブレーキのようなものが働いていたのだろう。個人的なことを聞いてはいけないと思っていた。よほど口から出かけた質問、一番聞いてみたかったことは

「あなたは帰国者ですか。いつ渡ったのですか」

私は心の中で結論を出していた。この青年は、帰還事業(帰国運動)で恐らく幼少期に北に帰ったのだ。70年代に入ると帰国する人はかなり減っていたはずだから。私はそのことを中学の同級生のM君から学んだ。M君の親戚は全員帰国したが、自分たちはここ日本で暮らしていくんだと話してくれた。優秀なM君はその後高専に進学した。

私だって質問したい。そこで「日本語がすごくお上手ですよね」と振ってみた。すると「両親も話しますから」とあっさり。それ以上は何も聞けなかった。

他にもチェコのことや日本のことなど様々な話題でお喋りした。このままずっと話していたい、別の日にでももっとゆっくり話が聞きたい。そう思ったけれどそれが叶わないことはお互いにわかっていた。お仲間が割って入ってきたし、私の連れも「そろそろ美術館に行こうよ」と促した。名残惜しい気持ちで私たちは別れた。彼は「良い滞在を」のような、ちょっとぎこちない日本語の挨拶を送ってきた。私は「じゃ、さようなら」とだけ言ったと思う。

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(上の2枚は私の部屋。拙ブログをずっと読んでいる人は見た事があるはず)

その後友人たちは「グループの中であの人だけで明るく輝いていた印象よね」と批評した。そして北朝鮮ベトナムからの留学生、実習生はけっこういるらしいけれど、町なかではほとんど見かけないとも。

別の日に別の友人に話したら、「うちにも建築を学びにベトナム人が来ているよ」。それで「私もそう見えるかしら?」と言ったら「え?何言ってるの。女子は来ないよ。それに服装でわかるじゃないか」

ベトナム北朝鮮の人たちは皆同じ服装をしている。一年に支給される布の分量が何メートルと決まっていて、それでオーダーメイドする。すなわち決まったデザインのスーツやズボンなどを作るからだ。いつもグループで行動しているのはお互いを監視するためとも教えてくれた。

話が逸れるけど、中国と国交正常化し留学生を受け入れるなか、東京・文京区の交流活動の一環で「家庭に招待して食事をしたりお話したりして友好を深めよう」というのがあった。私の友人がいち早く応募して、二人のエリート留学生をお迎えした。中国人は一人で動いてはいけなくて必ず二人で行動し、互いの言動・行動を監視するらしいと言っていた。日本語は正しく話せるものの、本心は決して明かさない感じがあって、きまずい空気が流れていたとも話してくれた。

 

 

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(コンサートホールやレストランなどが入っている市民会館。ミューシャの絵が嵌ったステンドグラスが美しい)

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(町に戦車が飾ってあるのもおもしろいが、困ったことに夕刻ともなると戦車は石畳の上を散歩して、テレビやラジオの音をかき消し、団欒中の市民の邪魔をする)

さて北朝鮮の生活がたとえば1970年代どんなふうだったか、私には全くわからない。なのでネットで何かあるかなと探してみた。専門が朝鮮半島情勢である重村智計氏がラジオでwww.j-wave.co.jp/こんなことを言っていた。

重村「1970年頃までは北朝鮮、非常に生活は良かったんですよ。もうちょっと先、80年代後半ぐらいまでは。韓国の方がまだ遅れてた。なぜ良かったのかというと、当時、社会主義共産主義の国々から沢山援助がきた。それからいろんな工場とかも建設してくれたんですよ。住宅も。1948年から1971年にかけては日本の植民地時代よりも下層の人々もいい生活ができるようになったので、建国の父である金日成さんがものすごい皆に賞賛された」…

思い出話は終わります。

 

興味のある方のためにまたビザを貼ります。

①スタンプでチェコに入るとき・出るときの交通手段が記載されるのはおもしろい。

左は飛行機で。ポーランドワルシャワからプラハの空港へ入国、出るときはパリへ向けて飛んだ。

右はパリ発の列車で。CHEBはドイツとの国境の町。

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②これはハンガリーのビザ。チェコのようにしゃれた配慮はない。

83年はすでにフランス暮らしだったので、夏と復活祭の休みは旅行していた。

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ではこの辺で。また次回!

大坂選手 &『スパイの妻』&ディンタイフォン小籠包の幸せ

今日はいろいろな話題です😀

昨日はよいニュースがいくつもあって嬉しかった。皆さんもご存じ、大坂選手の快挙のこと!2セット目で盛り返し、3セットに入った所まで見て、きっといけると確信した。こんなに嬉しいことはない。

当初、大坂選手が名前を書いた黒いマスクで登場し始めたころは、「アスリートである前に黒人女性」という発言などからカッコいいなと思ったし、もちろん強い選手だったが、世界中の皆が見守る目の前で、殻を割って大きく成長し、偉大な選手に変身をとげた。インタビューでは事故で亡くなった元NBAコービー・ブライアント氏に触れて

”He thought I was gonna be great, so hopefully, I will be great in the future.  ”

なんという謙虚さだろう。すでにじゅうぶんgreatなのに!” so hopefully, I will be great in the future”!

あるいは7つのマスクで伝えたかったことは何かと聞かれて

「あなたは何を受け取りましたか?私はみんなに考えてほしかったのです」。

世界中の人々に与える影響の大きさを考えるともう胸がドキドキする。世界中で差別と闘っている人たち、社会正義を望む多くの人々、理不尽にも命を奪われた黒人の方々の遺族たちにも…。

屋外で芝に座ったり立ったままで試合を観戦していた黒人の人たちの映像が流れた。勝利の瞬間、大歓声を上げていて、それを見ても私も胸が熱くなった、というより痛くなった。大坂選手の成し遂げたことはもの凄いことだった。私自身がこのことが本当にわかるまでにまだ時間がかかると思っている。大坂選手は日本にはもったいないほどの存在ではないだろうか。

https://pbs.twimg.com/media/Ehv4JlVXsAIAHHv?format=jpg&name=small

twitterに「おめでとう」が溢れていた。

しばらく読んでいたら脇道に逸れていって…。

美内すずえさんの登場だ!

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そうだったの?!いやあ知らなかった。そんなに長く!

美内すずえさんも偉大ですね!

 

二つ目の快挙は『スパイの妻』

www3.nhk.or.jp

https://www.cinra.net/uploads/img/news/2020/20200807-wos_full.jpg

蒼井優×黒沢清 映画『スパイの妻』

映画の舞台(住居)になった旧グッゲンハイム邸 が話題になっていた。

http://www.nedogu.com/image/image7.jpg

https://pbs.twimg.com/profile_images/1139691714/twitter_400x400.jpg

グッゲンハイム邸については全く知らなかったが、しばしサイト内を散策したり写真を探したりして楽しんだ。映画上映も待ち遠しい。

 

ディンタイフォン(鼎泰豊)賛歌

以前米国在住の人が「今度シアトルへ行くのでディンタイフォンで小籠包食べるのが楽しみ!行列は覚悟しなくちゃ」とはしゃいでいた。「東京には10店舗くらいあったような…。お昼前に余裕持って行けば並ばなくても大丈夫だよ」などとうっかり言ってしまい、後悔したことがある。

ディンタイフォンは、気軽に小さい子どもも連れて家族で行けるおいしい中華。店舗によってメニューや品数は違いがあるものの、小籠包だけじゃなく料理はどれもおいしい。ディンタイフォン(鼎泰豐) | 小籠包・点心の台湾料理・台北料理|公式

ウィキペディアによると、1958年、中国山西省出身の楊秉彝(ヤン・ピンイー)が台湾に店を開き、小籠包が看板の料理屋だった。評判は高くても地元の食堂でしかなく、海外に名が知られることはなかったのだが、1993年『ニューヨーク・タイムズ』紙がディンタイフォンを「世界の10大レストラン」のひとつに選んだ。これにより知名度が一気に上がり、以来多くの観光客が台北の店の前に長い行列を作ることになる。東京出店は1996年である。

とにほさんご一家が去年台湾へ旅行し、ディンタイフォンを訪ねているので記事をお借りしてきた。(もうね、去年から言及しようと思ってた😁)

toniho.hatenablog.jp

台湾本店ですね。私も行ってみたい!うちの息子はもう二回も行っている。羨ましがらせようと写真を送ってきたが…😝

コロナの時代、飲食店が心配で、応援の気持ちもあってあちこち訪ねては観察している。日本橋に買い物に行ったので高島屋デパート地下のディンタイフォンへ。コロナ時代は座席の距離を空けなくてはいけないので客をたくさん入れることはできない。悩ましいところだ。

もちろんおいしく頂いてきた。簡単に写真を載せておく。

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小籠包は皮が極薄でジューシーさが売り。豚肉やずわい蟹、辛子明太子などを頼んだ。蒸し餃子は野菜と豚肉入り。蟹のチャーハンや蒸し鶏など。

↓職人さんが働いている厨房が見られる。

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入り口。鼎泰豐 日本橋店 | ディンタイフォン(鼎泰豐)

では今日はこの辺で。

🌸おまけ

①こんな散歩は私もしたい。

 ②これはSPYBOYさまにプレゼント。

https://i.pinimg.com/564x/d4/c8/6f/d4c86f761f399dfc0cbcd01ac40e37f5.jpg

雨後の椎茸のように生えるラーメンショップ(笑)&ある日の散歩(ラーメン③)

ざんざんと降り続けた夜中の雨、玄関前に小さな川を作り、夏の名残りを勢いよく洗い流していった。朝になってみると気温もぐっと下がり、すっかり秋の風情。そう、9月も半ばなのだ。

そして9.11だった。昨日は世界中で多くの人があの日のことを回顧した。そしてあの日を境に世界情勢も大きく変わっていったのだ。

今日はそのことではなく、ラーメンの続きを書いてしまおう。間をあけるとすっかり書く気が失せてしまうので。コメントも紹介します。

ラーメンの学校

前回は、アムステルダムにラーメン屋を三店舗持っているオランダ人映画監督と、パリに「築地」を再現した元パイロットのフランス人について、その情熱と飽くなき探求心と、ラーメンの驚くべきレベルの高さなどについて紹介した。

海外紙を読むとラーメン事情がさらにわかっておもしろい。あるときオランダ紙が書いていた。ラーメン熱はひと頃のピザ屋ブームを思わせる。雨後の筍ならぬ、椎茸のように( als shii-take's uit de grond)町なかにぼんぼん出現して空腹のオランダ人を誘惑する。軽食またはファストフード的な位置づけで、バーカウンターをメインにした小さな店舗は町に溶け込みやすい。

また、すしショップなど和食の店は、オランダでは経営が日本人ではなく、中国人がやっていることが多くて「ホンモノ」じゃないことも…。しかし昔と違って、な~んちゃってラーメンショップでは飲食業界を生き抜いていけない。評判の悪いすしショップが次々とつぶれていったように。ラーメンブームで儲かりそうだから、ちょっとやってみようかなと軽い気持ちで始めるわけにはいかないか、というとそうでもないらしい。

すし職人養成講座があるように、ラーメンにも日本各地にラーメン学校(「ラ塾」jiraigen.や「食の道場」syoku-doujyou.)などがあり、外国人受講者にも人気だそうである。6日から2週間と、目的にあった様々なコースが設けられ、費用も最大で50万円弱(通訳料込み)。以前は宿泊施設を完備しているところもあったが、コロナ時代の現在は止めている。オンライン受講も可能とか。でもオンラインで匂いや熱さやスープの色など伝わるんだろうか。それに味見はどうするんだろう…という余計なお世話はやめておいて。

 

ラーメン・キングダムの衝撃

そんなラーメンブームのなか、アムステルダム中央駅すぐ近くに、昨年日本人男性四人がオープンしたラーメン・キングダムが話題になっている。

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Ramen Kingdom 

ミシュランと並ぶグルメガイドブック ゴ・エ・ミヨGault et Millau に紹介された。それも開店1年もたたずに。

上の写真はスパイシーなタイプ。ベーシックなのはChicken(鶏系)Vegetable(葉系)Pork(豚系)と三種類あり、いずれも€13,80(=1730円)

en.tripadvisor.com.hk

(トリップアドバイザー↑の写真も参考にしてください)

いただいたコメントでsugarless_ice さま「そして気になるのは15ユーロ、アムステルダムの外食としては標準的な価格なのか…」とあり、ごもっともです。一杯2000円弱のラーメンは日本から見たら高いけれど、ヨーロッパで昼のランチ(店内で温かいものを食す)なら普通の値段だと思う。

以前知り合いのフランス人が「最近はね、ランチはパリのいろんなラーメン屋を試して歩いてる。ラーメンはあんなに手間暇かけて高い技術も必要で、しかも滋養もあって食後幸せな気分になれるのに、あの程度の値段ってボクは安いと思うよ」と言っていたのが印象に残っている。去年書いて多くのコメントを頂いた記事安すぎる外食と最低賃金を心配される日本参考になるかもしれません。

あとgiovannnaさまから教えていただいたこちら:「久しぶりに錦糸町の麺魚に行きたいなぁ。(名物は、鯛だしと桜で薫製されたチャーシューです)」。行きたい、すぐにでも行きたい。そっちに用事を作って麺魚さん訪ねてみますね。

 

海外在住者は普通のラーメンが食べたい

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ミャンマー人の男性がニューヨークで開いたラーメン店。創作でないオーソドックスな日本のラーメンを作っているという自負があり、在住日本人の熱い支持を受け、そのことを誇りに思うだけでなく受賞もしてしまうという凄い店主さん。ちょっと他で写真を見たらかっこよかった。11年間修業した店はJR田端駅のすぐそば(隣が寿司屋)。なので店名もTABATAという。姉妹店「日暮里」もあるという。

このツイ主の気持ちはよくわかる。特に年をとるとあまりこってりしたものは敬遠するようになる。暑い夏の日、ああ冷やし中華が食べたい、よしTABATAに行くぞ~食うぞ~となるわけだ。

ミャンマー人男性といえば、23年間修業して浅草に自分の寿司屋寿司令和 を開いた方がいる。NHKはじめ様々な番組で紹介されているが、私はジャーナリストの安田菜津紀さんのインタビューで知った。読み応えあり→ミャンマー出身のマウンさんが20年以上修行を積み浅草で寿司店を開くまで - 安田菜津紀|論座 

重箱でいただくラーメン

 

発展形が華やぐ

ヨーロッパでは、ラーメンもヴィ―ガン用メニューは必須である。すしはだいぶ前からメニューを充実させてきた。どの店にもベジタリアン、ヴィ―ガンの欄がある。

手毬寿司はおなじみだが、最近のすしドーナツ(SUSHI DONUTS)がパーティなどで大人気。巻くのは苦手という人でも型を使えば簡単だし、アイディア次第でたくさんのバリエーションができ、見た目も華やかで美しい。 

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生春巻きの世界も一層カラフルになっている。特にヴィ―ガン用やグルテンフリーを売りにしたものが出てくると、もはや具材は果物でも豆でもなんでもあり。

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これらの写真は全部ピンタレストから引っ張ってきたので、興味のあるかた覗いてみてね。(食べ物の話ここまで)

 

ある日の散歩

これまでも何度か紹介したフランス人のJordyさん、いつも日本各地のすてきな写真をtwitterにあげてくれる。

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だけどこれを見たときはちょっとショックだった。根津にある民家のドアだという。どこだかわからないのは私だけじゃなく、家族のだれも知らなかった。こんなに目立つのに知らないなんて!それに新しいお宅ではなさそうだ。

「根津」と限定しているのだから探してみればいい。ある意味簡単だ、つまり私が一度も通ったことのない道で、きっと細い道だろう。そんなわけで自転車に乗ってふらふら散歩に出かけた。地名では谷中も池之端も「根津」と呼んでいる。けっこう広い地域になるのかなあ。

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喉が渇いてきたらちょうど良いところにクラフトビールのお店が(笑)!前から知っているし。ファラオを一杯いただいてまた散策へ。

奥まったところにあるのか?木々の枝や葉に埋もれているのか?

自転車をおして坂を上っていくと、あった!

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ここだ。けっこうあっさりと見つかった。ちょっと一枚写真を撮らせてもらおう。

おもしろいなあ。この門扉は自作なんだろうね。どんな人が住んでいるんだろう。

そして

帰り道、思いがけずしんみりしてしまった。

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ギャラリー猫町の前を通りかかったら白猫の彫像があって、去年うちの前に現われたノラの仔猫エリを思い出したからだ。スマホの写真アルバムで調べてみたら去年の同じ日9月3日だった。

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最後に

URURUNDOさんの素敵なコメント:

Bellissimaさんのtwitter写真を見て。長田弘が言っていた。「猫のいる本屋はいい本屋だ」と。確かに本屋に限らず、煙草屋とか何かの店のウインドの向こう側で眠っている猫は、他の動物にはない知性^^;と安心感がある。2020/09/05

https://i.pinimg.com/564x/1a/0c/f5/1a0cf5ab5cfc1618fa668dfcdc99e5b6.jpg

みなさん、いつもありがとうございます。

ではまた~❣

ラーメン愛の行きつくところ &あじたまご &ニューヨークのたいやき (ラーメン②)

「ラーメンは自由のシンボルだ」

オランダの全国紙でコラムニストが代わりばんこに寄稿するコーナーがある。映画監督のFow Pyng Hu 氏(姓はHu胡?漢字表記がわからないので)が毎回主に日本のことを書いていると聞いたので「どれどれ」と興味しんしんで読んでみた。Ramen staat symbool voor vrijheid en daarom moeten de pannen weer op het vuur | Trouw

1970年生まれの中国系オランダ人Hu氏は、エッセイの中でコロナ禍の日常を情緒豊かに綴り、最後にAji Tamago(ラーメンの上に乗っている半熟の味付け煮卵)のレシピを載せていた。

「ラーメンは自由のシンボル」というのはエッセイの中にあった言葉。つまりラーメンの作り方に制約がないこと、伝統や流派もない、誰でも自由な発想で好きな材料の組み合わせで作れること。これがラーメンの神髄であると言っている。

記事の中にもHu氏の写真はあるがネットから勝手に引っ張ってきたこちら。

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(映画祭のポスターとか表紙らしい。オランダの若き映画監督たちの紹介)

ミーハーな気持ちで読み始めたが、この人、ただ者じゃなかった。デザイナーから出発し、映画の勉強にニューヨーク留学。映画制作のかたわら和食、特にラーメンに興味を持つ。数年間日本に住み、料理・食材について研究、さらに日本文化への理解も深めていった。好奇心旺盛、行動力、研究熱心、さらに両親が中国料理店を経営していたという素地もあって、アムステルダムにラーメン店を開くのは躊躇なかったようだ。するとこれが評判を呼び、現在は3店舗に増えている。うどん店もオープンした。→サイトはこちら:「フーフーラーメン」Fou Fow Ramen

店内の写真を見るとインテリアのセンスに驚く。デザイナーだったし!

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出自である中国の要素と和とモダン。気軽にふらっと入れるカジュアルさ。アムスに次回行ったら必ず訪問しようと思っている。

料理の品々は上の「フーフーラーメン」でご覧いただきたい。美しい写真がたくさんある。3枚ばかりお借りした。

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笑みがこぼれるほどのビジュアルだ。Hu氏はスープにこだわりぬいているそうだ。うーん、おいしそう。おなかがすいてきた。

あじたまごの作り方

そのラーメンに乗っているあじたまご、一度も作ったことはないけれど、Hu氏のレシピ通りに作ってみよう。

準備するもの:大きめの卵4個、醤油大さじ2、みりん大さじ2、水大さじ6。
四個の卵がかぶるくらいの水を入れた鍋を火にかける。沸騰したら火を止め卵を入れる。強火で6分半茹でる。黄身が真ん中に来るように最初の4分は卵を転がす。茹でた卵は急冷。殻のあちこちをスプーンで軽くたたき、ひびを入れると剥きやすい。剥いた卵は先ほどの調味料に漬けるが、開口部がぴっちり閉まるビニール袋を利用するのが便利。空気を抜きながら閉めたら最低でも冷蔵庫で一日置く。3日は保存できる。切るときはナイフではなくぴんと張った糸で真ん中から切る。(以上が大体の翻訳です)

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初めてのあじたまご完成!だけど縦に二つに切るのが難しかった。糸は製本用のを使ったが切り口が美しくない。やはり針金のほうがいいんだろうね。

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普通のエッグカッターでも切ってみた。黄身が流れないのはよかったと思っている。

 

「別腹」という名前のラーメン屋さん

名前だけで笑っちゃう。どこまで突っ走るんだ、アムステルダム

https://dailynonsense.nl/wp-content/uploads/2019/11/IMG_6320.jpg

Ramen restaurant Amsterdam

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https://images.squarespace-cdn.com/content/v1/5a324d13f6576e6ddd8c98cb/1585744814181-XAD8TSM55ILX7KC5JPYH/ke17ZwdGBToddI8pDm48kCXTVg0ByO0p77g6bpZL7-t7gQa3H78H3Y0txjaiv_0fDoOvxcdMmMKkDsyUqMSsMWxHk725yiiHCCLfrh8O1z5QHyNOqBUUEtDDsRWrJLTmT2Rk9u7KA3hFIM978bk877VmOHOCSpdsNlW7GlpXIXYQVtHu55YcHOEzPLgr3oRG/ec0fbd1c-b3aa-49f0-8954-de6261b24d60.JPG?format=2500w

(サイトから写真をお借りした)コメントは控えたいと思う(笑)。

 

ラーメン激戦区のパリに現われたのは築地だった

アムステルダムブリュッセルはまだのどかである。パリ・オペラ座界隈は昔から日本人街で食べ物屋は競争が激しいが、今はラーメン激戦区と言われている。昨年大阪・堺の「龍旗信」が上陸ということで仏紙でも話題になっていた。

しかしまさかパリに築地、横丁、屋台が現れるなんて!もう私たちの想像をはるかに超えてフランス人はどこまでも突き進む。しかもパリの中心部にすでに2店舗あるという。

サイト:こだわりラーメンkodawari-ramen.com/

https://www.kodawari-ramen.com/wp-content/uploads/2019/06/kodawari-tsukiji-homepage.jpg

https://www.kodawari-ramen.com/wp-content/uploads/2019/06/kodawari-yokocho-homepage.jpg

メニューはすごく多い。ラーメンに関しては、鯛の清湯、鯛の白湯、鰯の正油そば、鯛の冷やしそば、オマール海老のまぜそば等…。

鯛のギョウザ「こだわり風餃子」もぜひ試してほしいとのこと。

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https://www.kodawari-ramen.com/wp-content/uploads/2018/06/Ramen-1140x761.jpg

ちょっと見にはテーマパークみたいに感じる。いえいえ、オーナーのムニエ氏(Jean-Baptiste Meusnier)は真剣と情熱とこだわりの人。パイロットの職を辞してラーメンの道に入ったというのだから。いったい何がどうしてそんなに彼を突き動かしたのだろう。

と思ったらきっかけは実に単純だった。日本旅行で渋谷でラーメンを食べ、一目ぼれしたというのだ。その後いろいろなタイプのラーメン、バラエティ豊かなスープや麺の種類や限りない具材のアイディアに驚き、すっかりラーメン文化に魅せられてこれを追求しようと決めたのである。食通のフランス人らしく、材料にはとことんこだわる。(店名も「KODAWARI」というくらいだ)。日本から最高品質のものを輸入もするが、豊かなフランス各地の大地や海からの恵みも最大限に活用しているそうだ。
いやあ、フランス恐るべし!以前ガラパゴス化するフランスのすし事情について書いたことがある。ラーメンもどこまで進化するか楽しみだな。

cenecio.hatenablog.com

ラーメンについてはここまで。

ニューヨークのたいやき

話変わり、日本のものが他国に渡るとおもしろい変化を遂げる例はいくらでもある。私はニューヨークのたいやきに興味しんしん。あちらに在住の人が写真を送ってくれて存在を知った。こちら→Taiyaki NYC (@TaiyakiNYC) 

 

https://pbs.twimg.com/media/D4EarzwWwAA2YxJ?format=jpg&name=large

https://twitter.com/TaiyakiNYC/status/1117203529175842816

https://pbs.twimg.com/media/D0SB_3BWwAEjynq?format=jpg&name=4096x4096

https://twitter.com/TaiyakiNYC/status/1100147251748450308

台風のことが気がかりですね。

ではまた 次回!

*追記:さっき貼り忘れた「こだわりラーメン」動画

世界に溢れるラーメンへの情熱と愛 &BIKA(美華)のニラそば (ラーメン①) 

ラーメン愛

東京のうちの近くでも、コロナ以前はラーメン屋が大変なことになっていた。口コミの力なのか、フランス人など欧州からの観光客で埋まるラーメン屋(「ひだまり」谷中)とか、バカンスシーズンともなれば海外在住日本人が多数集結する、町の小さな中華(「兆徳」 本駒込)とか…あの情熱は何なのだと毎回待つ人の長い列を見るたび思っていた。

2007年にベルギーに住んでいた時、アパートの斜向かいがブリュッセルでは元祖的なラーメン屋やまとさんだった。当時「ヨーロッパで一番おいしいラーメン屋」と言われていたらしい。開店前から並ぶベルギー人を不思議そうに横目で見ながら「へえ、ベルギー人も列作るんだ」と通り過ぎていた私であるが、帰国前に一度だけ行ったことがある。おすすめという「みそラーメン」を頂いた。申し訳ないが特においしいとは思わなかった。

2016年に再び前を通ってみると、店主の日本人は数年前に店を閉め、一家で帰国したと聞いた。

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(写真:2016年3月撮影。美しいアールヌーボーの建物に収まるラーメン屋、違和感なし)

このときは、あとを継ごうというベルギー人青年たちが再開したばかりで、それもブリュッセルの別の地域でラーメン店を営んでいる、ベルギー人経営者が尽力してくれたおかげだとか。ともあれ良かった。内装もシンプルで温かみのある雰囲気だった。お味はどうか知らないけれど。

ヨーロッパのラーメン熱は来日観光客の増加とともに高まってきたのだろう。昔、たとえばパリにラーメン屋ってあったかな。思い出してみると1980年にはオペラ座界隈にすでに二軒あった。日本人経営で客もほぼ日本人。70年代のことは人に聞いた話しか知らない。パリ在住日本人が「中華麺とスープの組み合わせでできる料理」を食べたいと思ったら命がけという話(笑)。当時中国人コミュニティができていたパリ・リヨン駅界隈の、お目当ての中華料理店に電話をし、店の中国人に駅の待ち合わせ場所まで迎えに来てもらうのだそうだ。治安がとても悪かったから、やわな日本人なんぞ歩いて店までたどり着けないだろうということで(笑)。

そう、中華料理では「ラーメン」と呼んではいけないのだ。たとえばこれから紹介するBIKA(美華)さんは上海料理のお店、知る人ぞ知るといった小路にひっそりとある。旧名は谷中清水町、現在は一般に根津と呼ばれる地域で、私が上野へ向かう途中に通る道のひとつだ。

ニラそばが特に有名で、もちろんほかの上海料理の品々も美味だし、お店や店主小池さん自身もTV・雑誌で紹介されている。ファンも常連も多い。ちなみに今はコロナでそんなに混んでいない。(ちょっとラッキー)

以前まるさんid:garadanikkiがこのお店を紹介していて、その文章がすごくいいのでちょっと引用させてもらう。(まるさん、ありがとう❣)

garadanikki.hatenablog.com

(略)

天女が舞い降りてきたような幸せな気分になります。

豚骨スープや、こっくりした味付けの太麺そばが主流の昨今、真逆の旨さにありついた。

こんな美味しいものがあったとは。。。

ニラそばといえば、炒めたニラがどばっと乗っているものを想像しがちだけれど、

BIKAのニラそばは想像を絶する一品。・・・

ね、 全部読みたくなったでしょ!中で読んでね↑。

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「天女が舞い降りてきたような幸せな気分」に付け加えることは何もない。とはいえ、私もついでに何か感想を書いておこう。

ニラと肉あんの色のコントラストが美しい。ニラと聞いてあとずさりしたそこの貴方、これは天女のニラだから普通のと違うのだ(笑)。スープを一口のんだらもう舞い上がっちゃう。すごく上品であっさりしているけれど奥深い。鶏の頭とモミジ(鶏の足)だけでだしを取ったスープだと店主は言う。ストレートな細麺も私の好みである。

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写真:左下、絢爛豪華な螺鈿の衝立。右下、お店入り口にある睡蓮とメダカ。種類は幹之(みゆき)メダカで、我が家と同じだった)

 

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写真:五目あんかけ飯。丁寧で優しい。何が優しいかというと甘めの餡と、個々の具材がひとつひとつ柔らかく舌や胃のなかでとろけるように用意され、ご飯の上に鎮座していること。

甘めの味付けで蘇る1980年代後半の記憶がある。当時教えていた中国人学生はほとんどが上海出身で、家に招いてくれると当然ながら上海の家庭料理をふるまってくれた。味付けが甘めだったのが印象的で、私はそのころ甘味がちょっと苦手だった。

中国人は国から様々な食材(主に乾物)を持ち込んでいて驚いたものだ。乾物じゃない物ももらったことがある。あるとき学生が家を訪ねてきて、「今姉が上海から着いたんです。こっそりこれ持ってきてくれた」とにっこりして差し出す。何だろうと思ったらあろうことか上海蟹で、袋のなかでうごめいている。私はキャっと小さく声をあげ、「あ、ありがとう。お、お姉さんによろしくね」と言ってすぐさまその紙袋を冷蔵庫に放り込んだ。

あとで冷蔵庫から飲み物を取り出そうとしたら、蟹たちが我が物顔に歩き回っているではないか。バタンと閉め、夫の帰りを待った。そして夫に「大変なの。上海蟹が冷蔵庫の中散歩してる。早く捕まえて」と頼み、捕獲も調理も丸投げしたのである。

それにしても蟹をよく持ち込めたものだ。税関はそんなに緩いのか。私にくれたのは7~8匹だったと思うが、もっと持ち込んだはずで、その夜は上海蟹パーティだったのかな。不思議な笑える思い出。

 

 BIKA(美華)は信濃町駅前にあった名店

手元にある本『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』に載っていた。朝日新聞書評で見てすぐに購入した本である。

1964年の信濃町駅前の光景。左親指の所、見てね。「BIKA」「美華」の文字が見え、右親指の所にも「明治記念館」の下に「美華」という文字が見える。昔から有名な上海料理店だったようだ。

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 信濃町慶應病院は最近では辞めた首相の件で耳にするが、うちでも夫と娘の主治医のいる病院なので昔から長く足を運んでいる。しかしBIKAがそこにあったなんて初めて知って驚いた。

そこからどうして根津へ?と興味がわく。BIKAは小林さんの奥さんの実家だったのだ。オイルショックのころ、小林さんは根津の家業のタイル屋ではなく料理の道に入ることを決心する。現在の店の赤いドアは信濃町の店のドアで、両開きの片方だけ設置している。間口が狭いためだ。あの螺鈿の衝立も譲り受けたという。タイル屋は、父親が倒れたのをきっかけに商売もうまくいかなくなり廃業したのである。

タイルってノスタルジーだな。昔はタイル屋さんはあちこちにあった。若い皆さんにはわからないだろうが、かつて流し台やお風呂場・トイレによく使われていた。タイルを貼るお手伝いもしたことがある。

昨日とにほ(id:toniho)さん宅のタイルを見て、モダンな使い方に感心し、タイルへの憧れがうずうずとわいてきた。

toniho.hatenablog.jp

ちょっとお写真お借りします。とっても素敵!

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/toniho/20200903/20200903133532.jpg

 

話が逸れてしまいました。今日はここまでにしてまた明日続けます。

明日は、オランダの映画監督が定期的にオランダの全国紙にラーメンや日本の料理のことを書いていると聞いて、しかもAji Tamago(半熟の味付け煮卵)の作り方など書いていると聞いて、おお、それはお手並み拝見!と思ったらすごかったという話です。

 

🌸最後にまた楽しいツイートの数々を!