Led Zeppelin「天国への階段」が大好き!なのに盗作疑惑って?裁判の行方が気になります。どなたか知っていらっしゃるかた、教えてください。
追記:一件落着したもよう。
Led Zeppelin、洒落たバンド名の由来
「もしも俺たちが今いるバンドを辞めたら、きっと向こうは鉛の気球(lead(発音は[led]) balloon)みたいに急降下するだろうぜ」と発言したことによる。「go down like a lead balloon」は「ぽしゃる」という意味の慣用句で、ムーンの口癖であったという。そこから、マネージャーのピーター・グラントが([li:d]と誤って発音されるのを避けるため)leadをledに、balloonをzeppelinに変え、バンド名が「Led Zeppelin」に決まったとされる。
また、デンマーク公演の最中にツェッペリン飛行船の開発者の子孫であるエヴァ・フォン・ツェッペリンに、ファミリーネームの無断使用で訴えられかけて一時「THE NOBS(ザ・ノブス)」(=紳士たち、または陰茎の隠語)と名乗っていたこともあった。エヴァは法廷で「金切り声を上げて飛び回る猿どもに、当家の栄誉ある名前を名乗らせるわけには参りません*」と宣言したと言う。(ウィキペディア)
*"They may be world famous," she said. "But a couple of shrieking monkeys are not going to use a privileged family name without permission."
(写真:ベルギー王立軍事歴史博物館を訪ねた。2016年3月)
いえ、彼女の発言ではなく名前が変だ、フォン・ツェッペリンというところにひっかかる。というのも「ツェッペリン」姓は単独では使われないはずだからだ。
エヴァ(写真はこちらから借用 http://www.listal.com/list/rock-n-roll-timeline-1970-blankend)
何故かを説明する。 飛行船の父、かのツェッペリン伯爵(1838-1917)には男児がおらず、一人娘のヘレーネを大切にしていた。
ツェッペリン伯爵70歳の誕生日に盛大な祝賀会が開かれた。そこでヘレーネは一人の軍人と知り合う。それがシーボルトの次女マチルデの息子、アレクサンダー・フォン・ブランデンシュタインである。マチルデは、ヴュルテンベルク王国軍のグスタフ・フォン・ブランデンシュタインと結婚した。
ヘレーネとアレクサンダーは結婚することに。ヘレーネは結婚前、女王の侍女として仕えていたから、式にはヴィルヘルム2世も列席した。そのとき皇帝は「ツェッペリン」姓がなくなるのを惜しく思い、夫婦に「ツェッペリン」姓を並べて名乗ってよいという特別な許可を与えた。以降、この一族はフォン・ブランデンシュタイン=ツェッペリンと名乗り、ツェッペリンという名前を絶やさずにすんだのである。
途絶えたシーボルト姓
かたやシーボルト家の男子はかわいそうだった。あの時代、戦争に明け暮れる時代では珍しいことではないのだが。
シーボルトは日本から追放されて国に帰り、1845年に結婚し、5人の子宝に恵まれる。
長男アレクサンダー(1846~1911)は父シーボルトが許されて日本へ行くのに、13歳で同行。その後も通訳や役人となり、特に明治維新後の日本国家建設のために尽力した。
左の写真:アレクサンダー(左側)弟のハインリヒ(右)
右の写真:父アレクサンダーに抱かれる息子アレクサンダーjr.
アレクサンダーは結婚して、娘三人と男児ひとりが生まれ、男児に自分と同じ「アレクサンダー」という名前をつける。
しかしアレクサンダーjr.は不運にも第一次大戦末期、1918年春に22歳の若さで戦死する。こうして血筋としては残ってもシーボルトという名は消えてしまった。(上に書いた娘たち三人とも子供を残さなかった)
子孫が来日
Constantin von Brandenstein-Zeppelinというお名前。
コンスタンティン・フォン・ブランデンシュタイン=ツェッペリン。
長い。書くのに時間がかかる。
2011年に大規模なシンポジウムが開催され、そのときに来日した。どんなおじいちゃんが来るかと思うでしょ。あまり私と年が変わらず、拍子抜け。
OAG : 催し物カレンダー : 日独シーボルト・シンポジウム2011 日独交流150周年記念 『シーボルトの知的遺産と日独協力の新しい道』(写真:ウィキペディア)
ご自宅のお城は国宝の山
城を訪ね、貴重な資料や収集品を、東京大学が調査してきたようだ。
54.フォン・ブランデンシュタイン家日本関係史料(古写真)調査
二〇一四年八月二八日から九月五日にかけて、ドイツ連邦へ出張し、フォン・ブランデンシュタイン家(シュルヒテルン郊外)が所蔵する日本関係史料(古写真)の調査をおこなった。参加者は、保谷徹・谷昭佳・高山さやか・鳥海早喜である。国立歴史民俗博物館のプロジェクトチーム(代表:長崎純心大学宮坂正英教授)との合同調査であり、同チームには本所松井洋子教授が参加している。
フォン・ブランデンシュタイン家はフォン・シーボルトの娘の嫁ぎ先であり、シーボルト父子に関係する古文書・古写真を所蔵する。今回の調査ではとくに、フォン・シーボルトの家族アルバム写真、幕末期にシーボルトが受理した和文史料(幕府外国奉行からの書簡群など)などを中心に、デジタル撮影による収集をおこなった。撮影データの総数は二五三六カットである。
なお、国立歴史民俗博物館が予定する日独修好一五〇年記念展示のための史料撮影にも協力した(本所は特別協力)。
(保谷 徹・谷 昭佳・高山さやか・鳥海早喜)
『東京大学史料編纂所報』第50号
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/50/saiho_50_054.html
そのお城はこちら。
ブランデンシュタイン城 Burg Brandenstein ( Schlüchtern/Elm近く)ウィキペディア
日本にもきたツェッペリン
ツェッペリン伯号は、1929(昭和4)年8月15日にドイツを出発し、世界一周の旅に出た。途中、日本に寄っている。さいわい霞ヶ浦基地には、第一次大戦の戦利品としてドイツからもらった巨大な格納庫があり、ここに入れることができた。乗員は料亭や晩さん会、日本式の風呂などを楽しんだようだ。その後、ツェッペリン伯号はロサンゼルスなどを経て、世界一周を果たした。
終わり
シーボルト関係記事
追記1:前回、載せるのをわすれたカノコユリ
左は「フローラ・ヤポニカ」の原画。シーボルトが日本から持っていって絶賛されたユリ。「花弁にルビーが散りばめられているようだ」と。
追記2:展覧会 千葉
追記3:展覧会 東京
追記4:朝日新聞から
両陛下が「シーボルトの日本博物館」鑑賞 東京・両国:朝日新聞デジタル
大変に気にいった蛇身弁財天像です。シーボルトのコレクションはおもしろすぎる!