ベルギーの密かな愉しみ

しばらくの間 お休みします。

王様の温室見学とシーボルト &紫陽花 &皇太子に会っちゃった!

アジサイの季節がやってくる。

アジサイは私の中でいつもシーボルトと結びついている。この結びつきが起こる前は、シーボルトは教科書に載っていたドイツ人医師、それ以上の知識も興味もなかった。

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(写真:ブリュッセル ベルギー王室の温室のアジサイ

まずはベルギー王のお住まいの話からする。王様はブリュッセル市内にも宮殿をお持ちだが、ふだんはこちらラーケン(緑色で囲んだ所)の王宮にいらっしゃる。この広大な緑地に温室もあって、春のシーズンだけ、つまりちょうど今頃の麗しい季節だけ国民に公開される。予想はしていても、敷地の大きさに圧倒される

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もちろん今年は行けなかったわけだが、以前撮った写真をちょっとお見せする。今年はテロ対策で、リュックなどは持ち込めず、携行品チェックもあったようだ。

 

冬の庭

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鉄骨とガラスを使った美しいドームは「冬の庭」と名付けられている。

ここに足を踏み入れたとたん、皆、おおっと声をあげる。ヤシの木がどこまでも伸びて、生い茂り、空がまぶしい。

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このアール・ヌーボーの温室はレオポルド2世の命により、建築家バラ(Alphonse Balat)が1873年に設計したもので、ベルギーにおける19世紀建築の中でも特筆すべき建物である。

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見学者は並んで決まった道順を進んでいくのだが

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写真は早々にあきらめる。なにしろ14000平方メートルという、見当もつかない広さなのだ。見るのに精いっぱいで、しかも人の流れを妨げてはいけないから。

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花園のお嬢さん、撮らせてもらいました。 

今度は外へ。温室の外観を写したいけれども

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大きすぎてカメラに収まらない。よほど離れないといけないのだ。

話はそれるが、敷地にはこんなものも。

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おや、日本?

これは東博物館と呼ばれている一角で、日本風の五重塔のほか中国風のあずまやなどが建っている。レオポルド2世がパリ万博を訪れた際、「世界旅行パノラマ」で日本の五重塔に一目ぼれして、同じものを作らせたのだ。

パリ万国博覧会 (1900年)

19世紀の最後の年を飾る国際博覧会であるから、過去最大の見物客数、約4800万人が訪れた。高さ100m(*)の観覧車や万博に合わせて作られたエッフェル塔、さらにエスカレーターや動く歩道などが話題をさらった。

日本は法隆寺金堂風の日本館を建設した。夏目漱石もこの万博会場へ来たという。

*(余談)大阪に日本一となる観覧車がこの夏公開になるそうですね。高さ123mで「レッドホース オオサカ ホイール」という名前です。

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レオポルド2世は日本館を設計した建築家から設計図を買い、王宮の敷地内に同じものを作らせた。和洋折衷だが、さほど違和感は感じない。桜の季節が美しいそうで、ブリュッセルで見られる「日本」だと話題になるらしい。

2006年には近くの建物を改装し、日本館(美術品展示)としてオープンさせた。

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鉢も凝っていて個性的。

 

アジサイと植物ハンター シーボルト

シーボルトは医師だったが、動物学、博物学民俗学などヨーロッパの広範な知識を紹介し、日本の近代化に貢献した人物である。そして植物学の分野では、植物資源が少なかったヨーロッパに、日本から多種多様な植物を導入。オランダにライデン気候馴化園を作り、育て、増やし、販売も行い、ヨーロッパの庭を豊かにした人だ。

シーボルトは日本から持ち帰ったアジサイ属を13種類に分けた。その一つをOtaksaつまり "お瀧さん"と名付けた。正確にはラテン語HYDRANGEA otaksa。

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http://www.heritagehydrangeas.com/project/hydrangea-macrophylla-otaksa/

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肖像画の下にOTAKSAと名前が書いてある。

楠本お瀧は16歳のとき、シーボルトにみそめられ、出島のシーボルトの家で同棲することになる。これが1825年で、1827年には娘イネが生まれた。赤ん坊はオランダ商館で父シーボルトの手によって取り上げられた。その後母と娘は長崎に転居し、シーボルトは頻繁にここを訪れ、世話を焼いていた。しかし、シーボルト伊能忠敬の日本地図をはじめ、そのほか禁じられているものを国外に持ち出そうとしたことが発覚し、国外追放となってしまう。

お瀧とイネの肖像を螺鈿で彫刻させた小箱を二個、大切に肌身離さず持っていたという。再び入国が許可され、シーボルトが息子とともに来日し、お瀧、イネと再会を果たしたのは30年後の1859年である。

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写真:ライデン大学植物園にあるシーボルトの胸像。

ところでシーボルトはさきに書いたようにドイツ人(1796年ヴュルツブルク生まれ)なのだが、世界の様々な国へ行ってみたくて、当時世界中で貿易をし、繁栄を誇っていたオランダに赴く。そして陸軍軍医の資格で1823年(文政6)長崎へ到着した。出島に居を構えたが、長崎へ出て診療することは特別に許されていた。鳴滝(なるたき)に一軒の家を購入し、「鳴滝塾」を開いて医学などを教えた。(その後江戸に行ったり…たぶん皆さんもよくご存じだ思うので、飛ばします)

シーボルトオランダ語は変だとよく言われていたらしい。低地(オランダに近い地域)のドイツ語ならまだしも、ヴュルツブルクは高地(現代の標準ドイツ語のもととなった地域)だからずいぶん発音や語彙が違ったはずだ。田舎の出身なもんで、とごまかしたエピソードも残っている。

オランダのアントウェルペン

そう、1830年7月、当時はまだオランダだったアントウェルペン港に着いたシーボルト。さて船に積み込んだ日本の植物1200個体がどうなったかというと、多くが暑さや雨風にやられ、枯れていた。生き残ったのは260ほどだったという。

そしてそれもすぐに手放さなければならなくなる。というのも翌月、なんとベルギー革命が起こり、ベルギーが独立してしまうのだ。シーボルトは日本の植物をゲントの植物園に預けたまま、泣く泣くオランダへ出国する。あの聖カトリーヌ教会の港から。(過去記事リラックマハウスと棲み分けのモザイク。(ブリュッセル聖カトリーヌ教会地区2016年3月) 

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花菖蒲ミケリ Iris Kaempferi Sieb.var.Miqueri 

シーボルトは花菖蒲にもこだわりがあった。花菖蒲が外国の園芸市場に初めて公式に登場したのは1856年、ライデン気候馴化園の目録である。1872年には21品種に増え、新奇な植物を求める貴族や園芸家の間で人気を博した。そのひとつ「花菖蒲ミケリ」は、シーボルトの膨大な収集植物の分類作業の協力者で、植物学者でもあったミケリMiqueriの名がついている。Kaempferi「 ケンペル」はやはり医師で博物学者で、あの『日本誌』の著者である。

こちらのかたのブログ、美しい画像と簡潔な説明でおすすめです。

psieboldii.blog48.fc2.com

 

思いがけない幸運 皇太子(現国王)に会う

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(ピンク色の服の娘さんの手を引いているフィリップ皇太子)

温室見学を終えて帰るとき、ばったりと皇太子に会った。まだ王になる前である。この日家族で見学にやってきたのだ。人々が視線を向けている先は、妻のマチルダ王女と三人の子供たちで、車から降りるところ。「早くおいでよ~」と言っている。乗っている車はゴルフだった。

 それから6人で、ほかの見学者と同じように、入り口までの道をゆっくりと歩いていった。市民に声をかけられ、笑顔で応えながら。

 

🌸 個人メモ

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