七月の園芸家 マラルメ・詩人の庭 -2-
七月の園芸家
『フランドルの四季暦』フランドルの四季暦 :マリ・ゲヴェルス,宮林 寛|河出書房新社
の中でマリ・ゲヴェルス(1883 -1975、写真)は七月という月を高らかに謳いあげるのですが、その中に青空について語るくだりがあります。私はそこを読んで以来、今日は青空にどんな形容詞をつけよう、と空を見上げて考えるのです。
写真:マリ・ゲヴェルス 出典:Gevers, Marie - Literair Gent
ある日、文学(かぶれの)青年がこう言います。
「マラルメ以後、青空という単語を使うことは不可能になりました。なにしろ、この単語の美しさを存分に味わうことのできる読者は、ほかならぬマラルメの詩を知っているからこそ、青空の美を享受しているわけですし、詩を読まない一般人には、言葉の美はそもそも理解しようがないのです。今さらそんな単語を使って何になるでしょうか」
ここに出てくる『青空』(L'azur)はフランスの詩人ステファヌ・マラルメ(1842-1898)が22歳の時に書いた詩のことです。(→http://poesie.webnet.fr/lesgrandsclassiques/poemes/stephane_mallarme/l_azur.html)
マラルメの初期の詩篇はボードレールの影響が大きいと言われています。この詩は、理想の象徴のような青空と、詩が書けず苦しむ自分とを対比させているのだと思いますが、どうでしょうか。さて、マリ・ゲヴェルスは文学青年にすぐさま反論します。青空とわれわれの間に、たとえ天才の作品だったとしても、詩を介在させる必要はないでしょうと。
そして”L'azur”という言葉は四大元素(この世界の物質は 水・空気または風・火・地の4つの元素からできているという思想)のうちの空気と、色彩である青の両方を意味する類まれな単語であるといいます。たとえば、地という単語が茶色の意味を兼ねることはないし、同様に水と青緑、葉と緑も別々の単語ですから。
さらに、”L'azur”は空の意味にも青の意味にもなれば、光と透明の意味にも、夢や、解放や希望の意味にもなることができると続けます。
(引用 p146)またなんと多彩な青でしょう。空の青にあれだけの幅があることは、それだけで一つの奇蹟です。おもいつくかぎりの修飾語をあてはめることができますし、選んだ修飾語次第で青空は動き出し、震え、波打ちながら、刻々と変化していきますが、だからといって空でなくなるわけではありません。
試しに修飾語と青空を並べてみましょう。…(略)
こうしておもしろい実験が始まり、マリ・ゲヴェルスならではの「青空論」が展開していきます。残念ながら長くなるのでここまでにしますが。ちなみに『フランドルの四季暦』については、去年すでにマミーさまが素晴らしいレビューを書いてくださっています
マミーさん、断りもなく勝手にすみません🙇
園芸家 ステファヌ・マラルメ
マラルメは詩人として、最大の賛辞に包まれ、生前はもちろん、現在でもその栄光と影響は増すばかりです。極限までの完璧さにこだわり、詩の可能性を追求した人生でした。あの破天荒なヴェルレーヌやランボーと同時代人ですが、生活スタイルは正反対で、リセ(日本でいう高校に近い)の英語の教師をして家族を養いながら、詩や評論を書き、翻訳をし、社会の問題にも目を向けた人でした。
パリの自宅で火曜日に開かれた「火曜会」Les Mardistesというサロンには、文学者や知識人ら錚々たるメンバーが集まりました。アンドレ・ジッドやポール・ヴァレリーといった著名なフランス人20人以上のほかに、リルケやイェイツ、ツヴァイクなどです。晩年の頃には参加者が多すぎて、マラルメを師と仰いでいる若者たちにはなかなか近寄りがたくなっていました。こんな証言もあります。1897年12月のある火曜会、フォンテーナスのことば。
火曜会は人々多く集まって、かえってマラルメの深いきびしい思考を聞き難くなっていたが、この日はめずらしく来会者少なく、話題は各芸術及び芸術家にわたり、天啓を受けた気がした。
マラルメは筆まめで非常に面倒見がよい人でした。だから人々はパリの自宅のみならず、フォンテンブロー近くのセーヌ川沿いにあった別荘にもよく訪ねてきました。
その別荘は現在マラルメ資料館(http://www.musee-mallarme.fr/)
となって公開されています。私が訪ねたのはもう20年以上前のことです。現在でもサイトで見る限り、基本はほとんど変わっていないようですが、工夫をこらした特別展示や子供たち向けワークショップが目を引きます。
入り口。プレートがかかっています。Musée départemental Stéphane Mallarmé
華美でなく、大きすぎず、居心地のよい家です。個々の部屋は興味のある方はサイト内で見ていただくとしてマラルメ家のお宝のひとつだったというものをご覧ください。「日本のキャビネット」(Le cabinet japonais)。
出所ははっきりしないようですが、当時のジャポニズムの影響でしょうか。日本のものは人気だったんですね。でも私には日本と中国の折衷のように見えますが。
それにしても高校の英語の先生で、パリのアパルトマンのほかに、川辺の別荘まで持てるなんて驚きです。最初の詩集は45歳のときとずいぶん遅いうえ、47部限定の私家版だったのです。詩や評論、英語の参考書も書いていましたが、裕福ではなかったはずです。
ともあれ大切な家族のために、週末や休暇をみなでのんびり過ごすべく、この家を購入したのでしょう。もとは馬も泊まれる宿屋だった建物です。馬がセーヌ川の川べりを歩きながら観光用の船を曳いていくレジャーがありました。
マラルメにとって庭いじりは大きな楽しみでした。手紙の数々がそれを物語っています。朝、自分の洗面を済ませるより前に庭に出ていました。花のおめかしのほうが大切というわけです。水遣りやアブラムシの退治や剪定など、細やかな心遣いで植物と野菜の世話をしながら、そうしたことをひとつひとつ手紙に綴り、離れている娘や妻に知らせてやりました。
マロニエは育ちすぎてうまく木陰を作ってくれないが、どうしたものだろうね。庭師より娘の意見の方を聞きたがりました。
そろそろ薔薇が咲くよ。早く見にきておくれ。嵐のせいで牡丹の花びらが散ってしまった…etc。
家の中から見た庭。奥のほうに菜園があります。
51歳で退職の許可が下りてからは56歳で亡くなるまで、多くの時間をここで過ごし、詩作に打ち込みます。また友人たちもよく訪ねてきて、さきほどの大きなマロニエの木陰はいわば「夏のサロン」となりました。
私が訪ねた20年ほど前の7月も花盛りでした。花の種類は多すぎて覚えていませんが、前庭の小さい薔薇がとても印象的だったし、名前も知っています。
最後に、薔薇好きな読者のみなさまのために、マラルメのお気に入りを紹介します。
自分で写真を撮っていないため、ピンタレスト画像から借りています。
①Ghislaine de Féligonde
②The Fairy
③New Dawn
④Jacques Cartier
ほかにもまだ数種類、大輪の薔薇もありました。
ああ、 うっとりしますね。薔薇の薫りに包まれて家族と過ごす時間…。
おわり