サッカーベルギー代表 団結の象徴 -2-
新しい時代の到来?信じていいのか?
今度こそワールドカップに連れていってくれるんだな?頼んだぞ!
・・・というのは日本じゃなくてちょっと前のベルギーの話。サッカーとなると国民的ヒステリーの渦に、喜怒哀楽の激しく揺れる感情にベルギー中が押し流されていたころの話。もちろん今は落ち着いて余裕がある。何しろFIFA世界ランキング1位である。この10年で他国ではちょっと見られないほどの急成長を遂げ、眩いばかりのスター選手軍団を擁するベルギーだが、過去にはなんと71位と、嘘のような低迷期もあった。
(ベルギー代表「赤い悪魔」の専用機)
ベルギー人のサッカーを初めて見たのは2002年日韓大会で、テレビで観戦したのだが、日本と引き分けたことくらいしか覚えていない。それよりベルギーチームが日本へ自国から「レストラン」を丸ごと持ちこんだことを知り、ご相伴にあずかりたいと心から思ったものだ。シェフや栄養士はもちろん料理器具や豪華食材・ビールなど飲料まで運びこんでいた。
2007年私はベルギーに滞在し、オランダ語とフランス語で新聞を読み、テレビ・ラジオなどからできるだけ多くの情報を得ようとしていた。自分なりにベルギーという国を包括的に理解しようと思ったのだ。ベルギーでスポーツといったらサッカーと自転車(あとホッケーも強い)しかない、と言ってもいいほどで特にサッカーは特別な地位を占める。だからしょっちゅうサッカーの記事を読むことになる。「国民を団結させているのはサッカーベルギー代表と王室」と言われている。ここに私は歌手ストロマエ(*)を加えよう。この複雑な状況はあとで述べるとして…。
今振りかえると、あの頃つまり2007年がベルギーサッカーの再興の始まりだったかもしれない。というのも、エデン・アザール(Eden Hazard、1991年生まれ。プレミアリーグ・チェルシーFC所属)が16歳でプロ契約した年であり、すぐに代表デビューも果たし(翌年17歳)、ベルギーのサッカーファンを熱狂させていた時期だからである。そのせいで静かに暮らしていたアザール一家にはメディアに追いかけられる日々がやってくる。女性雑誌などで母親はエピソードや子育て法を教えてくれとせがまれ、父親はまだ3人いる小さな息子たちをサッカークラブに送るたびに人々に囲まれていた。母親はかつて女子サッカー一部に所属してフォワードだった。父親は確か二部だったと思う。
(写真:AP】ロシア杯の香川・アザール選手。二人は偶然同じ時期にプレミアリーグに移籍することになり大きな関心が寄せられた。その後二人は明暗を分けることにhttps://www.football-zone.net/archives/119033
ベルギーは子どもたちの育成に力を入れ、徐々に環境も整えてきた。移民の子弟もやる気とポテンシャル次第で各地のクラブに迎えられた。それまではフランスなどとは違い、ベルギーサッカーは「白人」のチームだった。
また指導法も、個人の長所を生かすことに重きを置き、自由を与え、どんどんチャレンジをさせた。
さらに隣の強豪国オランダやフランスの力も借りる。そのためにクラブ間でユース育成の提携を行い、若いうちから外へ出す。たとえばアザールがフランスのリールに行ったのは14歳のときだ。そんな子どもが外国で?と思うかもしれないが、アザール家はラ・ルヴィエール(La Louvière)という町にあり、私も行ったことがあるのだがフランスに近い。リールとの距離は、東京都心から静岡、群馬、茨城といったところだろうか。週末に家族のもとに帰れるし母語フランス語で意思疎通ができる。
フランダース地方の若い選手は北の隣国オランダへ。オランダ語で意思疎通ができる。年若い選手にとってこれは重要だと思う。たとえば南米の若い選手がドイツやイギリスに渡るときの文化の違いや言葉の問題を想像してみる。どんなにか心理的な負担が大きいだろう。
2009年はまだ世代交代が行われず、5月に国立競技場で開催されたキリン杯で、ベルギー代表は日本にボロ負けした。結果は次のとおり。
http://www.jfa.or.jp/national_team/2009/national_t/20090531/result.html
このとき通訳・マネージメントでチームに帯同していたベルギー人に数日後会う機会があったので「どうでしたか」と聞いてみた。実はちょっと気の毒で目を合わせづらかったのだけど。
「日本が強すぎた」そう一言答えた。この頃はベルギーはランキング60幾つだったかな。でも前年2008年の北京オリンピックでは4位だった。オーバーエージ枠でロナウジーニョを入れてきたブラジルに負けての4位。
2010年南アフリカ杯で日本が新時代の息吹を感じたころ、ベルギーは予選敗退で大会に出られず、「それならオランダの応援に!」とベルギーのサポーター一行は元気よく南アに出かけていったものだ。そのおかげか(?)オランダは準優勝した。
そしていよいよ黄金世代が登場する。選手はとても若いがキャプテンのコンパニ選手がしっかりまとめている。2014年ブラジル杯に向けてチームには自信がみなぎり、国民は大きな希望を抱いていた。何しろ予選負けなしで勝ち上がってきたのだから。興奮と熱狂の絶頂にあって2013年11月、親善試合のためホームにコロンビアと日本を迎えた。このすばらしい1年をすばらしい結果で締めくくりたい。そう皆が思っていたはずだ。
それにしても日本はランキング44位、ベルギーは5位、こんなに差があって試合に意味があるのだろうか。新聞にはそんな記事も出ていた。また先にオランダが日本との試合を終えて2-2で引き分けたことに対し「ランキングの低い日本に勝てないのだから、オランダチームの病は相当深刻なようだ」と意地の悪いコメントが載っていたのもはっきり覚えている。
11月20日試合の日がやってきた。首都ブリュッセルでキックオフ。結果は日本は柿谷、本田、岡崎選手のゴールで3得点。ベルギーは2点にとどまった。3点目が入った時は悲鳴とも怒号ともつかないような騒音のなか、ベルギーのアナウンサーは「バルセロナのゴールだ」と叫んだ。
その後多くの記事が出たが、読んだものでは「本田が中心のチームで、ショートコンビネーションがすばらしく、バルサっぽいパスサッカーをやる」と、日本の良さを挙げ、こんなに技術が高かったなんてと驚いていた。しかしサポーターの落胆は大きかった。年の終わりに崖から落とされたようなもんだ、ランキングなんて当てにならないな、監督がアザールをセンターで使うのはダメだろ等々。監督への批判は多かった。
「赤い悪魔は素晴らしい年をふたつの敗戦で締めくくる」(コロンビアにも2-0で負けた)というタイトルのオランダ語新聞。日本代表は軽やかに楽しそうに試合をしていた印象を受けた。ところがこれが本大会に繋がらないのだ。みなさんご存じ、ブラジル大会ではグループリーグ敗退だった。
2018年ロシア杯
熱かった6~7月のワールドカップ。まだまだ記憶に新しい。またしてもベルギーと対戦。いつも人に聞かれるのだが「どっちを応援するの?」。決まってるじゃない、日本だよ。いつだって日本を応援する。ベルギーに勝つとは思っていなかったけれど2点が入ってからは「行ける」と思ってしまい、最後の逆転が相当にこたえた。
⚽ "Miraculés"
— Le Soir (@lesoir) July 2, 2018
La Une du @lesoir ce mardi après la victoire des Diables et dans quelques minutes sur https://t.co/cwwapndmZo pic.twitter.com/EaAMn35g7q
↑ベルギー仏語新聞LeSoir表紙「奇跡的に」
今見てもちょっと涙が出る。
#BEL players made sure to console the devastated #JPN players after the full-time whistle.
— Match of the Day (@BBCMOTD) July 2, 2018
Nothing but class 👏 #WorldCup pic.twitter.com/BuZdzad6c1
↑香川選手に声をかけるベルギー選手たち、 エデン・アザール(左上)、デブルイネ(左下)、ルカク選手(右)。
↓涙をぬぐう酒井選手。フランス人のツイート主も心揺さぶられた様子。日本選手の健闘をたたえている。画像はフランスのTV1チャンネルから切り抜いている。マルセイユで活躍する酒井選手にはたくさんの応援団がいるのだ。(前回記事の追記に酒井選手が侍に扮している壁絵写真を載せておいた。リツドアン 堂安 律選手のことを中心に-1- 追記:10月18日(酒井宏樹&南野拓実選手)
ああ、この写真も。
日本、決勝被弾直後の"感動の1枚"を海外メディア公開「胸が張り裂け、心が温まる」 | THE ANSWER スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト - (3)
インタビューに答えるベルギー・ディフェンスの要ヤン・フェルトンゲンの言葉がおかしかった。「日本に2点入れられたときには、ああ、もうベルギー行きの赤い飛行機に乗るんだな」という考えが頭をかすめた。
翌日のフランス語紙のひとこま漫画
Le Kroll du jour sur la victoire des Diables rouges face au Japon - Le Soir Plus
(上の絵)月曜18時
「日本が相手か、ちょろいだろうな」
「ブラジルよりは、だな」
(下の絵)同日22時
「おれ、死ぬかと思った」
「で、いつなんだ、ブラジルとは?」
ベルギー代表はみごと3位で帰還。ブリュッセルのグランプラスは赤黄黒の人で埋め尽くされた。数万人の人がお祝いに駆けつけたという。
IN BEELD: 40.000 uitzinnige fans bedanken de Rode Duivels in Brussel | VRT NWS
上の写真を見ると「ああ、ベルギーはサッカー熱がすごいんだな」という感想を持つかもしれない。でもちょっと違う。ベルギーは四国ほどの大きさだが言語は三つ、主にフランダース地域のオランダ語圏、ワロン地域のフランス語圏に分かれている。そしてこの二つが「言語戦争」などと揶揄されるくらい仲が悪い。私が滞在した2007年はそのピークともいえる危機的状況で、本当に国が分裂するんじゃないかという危惧から大規模なデモ行進が行われた。フランダースの第一政党が分離派になってから危機感は募る一方だったのだ。そのころサッカーも不調だった。
しかし代表が強くなると、不思議と人々も団結していった。さらに移民の子弟なども混ざり、チーム内でも比率が高まる。するとフランス語・オランダ語の対立などは過去へと押しやられ、さまざまな出自の子弟たちが集まり、うまくコミュニケーションを取り合ってサッカーをするようすや、多様性を具現化した代表チームに人々が魅せられ、誇りに思うようになった。しかも強いときている。ワールドカップではどんな小さな町でも住民は集まって自分たちの「代表」を応援した。
また監督も、ベルギー人からスペイン人のマルティネス監督に変わったところで、チーム内の言語は英語になった。選手たちはベルギー以外の国で普段はプレーをしているので数か国語が話せる人も多い。ルカク選手はアントワープ出身でオランダ語が母語だが、インタビューでフランス語、英語、スペイン語も使い分けていた。
そう、多様性こそベルギーの強さであり、魅力なのだ。そしてベルギー代表が国をひとつにまとめ、団結の象徴となって分裂の悪夢から救ってくれた。これは言い過ぎではないと思う。
今日はここまでです。
参考:ヨーロッパのサッカーチームにおける移民率
ベルギーはチームの選手の47.8%が移民・外国ルーツの子弟。12.1%が国民全体に占める移民の割合。(ベルギーは植民地だったコンゴやモロッコからの移民が多い。)
↑写真の選手はベルギー代表のフォワード、ルカク選手。両親がコンゴ出身。
*歌手ストロマエ ストロマエ・世界が羨むベルギー人&ストロマエを苦しめるマラリア予防薬の副作用&㊗ストロマエがパパに!(9月23日)