ベルギーの密かな愉しみ

しばらくの間 お休みします。

民主主義は時間がかかる &シンボルスカの詩と大震災 ポーランド②

前回世界中がレーニン造船所にくぎ付けだった頃 「連帯」に続き、今日も、ポーランド在住のペレックさんのことと、私のささやかな思い出を中心に。また皆さんのコメントも紹介。

 

Airbnbに泊まる

1975年から夏は毎年旅行していた。81年は前年始まった「連帯」の活動に興味があって、チェコとドイツに行く前に10日間滞在した。(ビザを下に貼っておく)

実は最も困ったのは食事だった。ストライキ続きだったから商店の棚はほとんど空。市民には配給があるので少ないとはいえ問題はなかったようである。ホテルで何か食べられるでしょう?と思うかもしれない。当時西側の若者、バックパッカーでホテルに泊まる人はほとんどいなかったんじゃないかな。ホテルは団体観光客やビジネス客のためのもの、少なくとも私の認識はそうだった。なにしろヒッチハイクする人も多かったし、自転車・バイクも人気の移動手段だった。ヨーロッパの若者たちはキャンプ場を利用していたが、安全面から私はこれを避けた。

ワルシャワ空港に着いて中央駅まで電車に乗り、外に出ると民泊(今でいうAirbnb)を申し出る人たちが手に紙を持ち、並んでいる。紙には家の場所や値段などが書いてある。タクシーの運転手でこうした民泊と契約して(或いは友人で)紹介する方法もあった。私はプラハではこの方式で、運転手さんに案内してもらい、郊外の、大きな庭付きのすばらしい一軒家に、イギリス人やドイツ人と一緒に滞在していた。70年代、80年代はもちろんのこと、私たち一家がフランスにいた95年でも、帰国前住居を引き払ったあとは、民泊を利用してあちこちに住んでいた。

さて、ワルシャワ駅の外では値踏みが始まる。金額の話ではない。ドル払いで2千円前後(1泊食事なし)と大差はない。旅行者にとって重要なのは家主の雰囲気と家の場所。当然ながらポーランド人の側だって相手を選びたい。

私は小柄な婦人を見つけ、歩み寄った。退職した小学校の教師で夫とは死別、子供二人は独立したので部屋がふたつ空いている。街の中心に近く、閑静なところだと言った。実際に環境も家主の人柄も文句のつけようがなく、彼女からは多くのことを教わった。

さきに書いた食事の件だが、開いている数少ないレストランを探して一日一食はなんとかできたし、知り合ったポーランド人が家に呼んでくれたり、また家主が教えてくれたたドルショップで必要なものは買えたのである。

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写真:1981年のワルシャワ旧市街の広場。

こちらはwikiの写真。1860年代の広場 Old Town Market Place, Warsaw

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↓第二次大戦終戦直後の広場。

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Old Town Market Place, Warsaw

 

度重なる悲運の国 ポーランドのイメージ

マミーさん id:mamichansanから頂いたコメントに「何度も分割された悲劇の国家…」というくだりがあり、私も全く同じことを思っていた。なぜ?どうしてこんな目に遭うの?隣国ソ連スターリン)とドイツ(ナチス)はポーランドを山分けした…なんという酷いことを!悪い奴らめ!と憤っていたものだ。世界史の教師は地形的特徴を説明した。「平らな国土で攻めやすかった。山はポーランド南部の、国境辺にしかないからねえ」と。

ポーランドと聞いてギアさま id:sinsintuusin は「コペルニクスショパンキュリー夫人」とおっしゃる。私はショパンはともかく「あれ、そうだったの?」と常識のなさがバレる。そうだった、キュリー夫人。2回もノーベル賞をもらった偉人だった。

ポーランド文学賞に至っては4人が受賞している。そのことはあとのテーマで取り上げるとして、またちょっと脱線を…。世界史で習う「ポーランド回廊」Wikipedia

高校生の私はあれがおもしろいなと思っていた。「ぽーらんどかいろー」というのどかな音の響きから、古びた修道院の、中庭を取り巻く細い廊下(回廊)を、夢想癖のある頭の中で勝手に繋げていた。あの地域から『ブリキの太鼓』や「連帯」の運動が生まれるまでのことだが。その後頭の中の修道院は消えた。

 

ポーランドは詩の国 シンボルスカ

ペレックさんとポーランド人のご主人(←カッコいいからね!)との出会いがよかった。ヴェスワヴァ・シンボルスカ (Wiesława Szymborska)のノーベル文学賞受賞を祝う大使館主催のパーティで知り合ったのだ。お二人とも学生で。

nietoperek.hatenablog.com

シンボルスカさんが仲人と言ってもよいでしょう(笑)。

そしてシンボルスカだ。ポーランドの人はどう思うかわからないが、日本ではシンボルスカの詩「眺めとの別れ」は東日本大震災や福島と強く分かちがたく結びついている。

またやって来たからといって
春を恨んだりはしない
例年のように自分の義務を
果たしているからといって
春を責めたりはしない

 

わかっている わたしがいくら悲しくても
そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと
草の茎が揺れるとしても
それは風に吹かれてのこと

・・・

ネットでも全文を読めるので興味のある方はできれば全文、最後までどうぞ。

始まりは池澤夏樹氏だった。朝日新聞に寄稿し、シンボルスカの詩の一部を引用。震災からまだ1カ月もたたず、私たちが皆言葉を無くしてただ悲しみにくれていたころだ。詩の力は強い。その後多くの人がこの記事に触れ、シンボルスカ自身や訳詩集にも注目が集まった。2011年秋池澤氏は『春を恨んだりはしない - 震災をめぐって考えたこと』 という著書を中央公論から出した。

シンボルスカの詩はそれから一人旅であちこちに広まっていった。そして毎年3月が来ると人々の心の中でうたわれる。この時くらい、ポーランド語ができたらなあと思うことはない。やはり詩は原語だ。

 

U2も「連帯」のために歌を捧げた

ファンの人はご存知と思うが、アイルランドのロックバンドU2 が、1983年に出したアルバム「WAR」の中の”New Year's Day(NYD)”がそうだと聞いている。wikiからの引用をつけておこう。

www.youtube.com

ニュー・イヤーズ・デイ - Wikipedia

(略)

後にポーランドの大統領となるレフ・ヴァウェンサ率いる独立自主管理労働組合「連帯」をテーマとする曲となった。ボノはなかなか歌詞を完成させることができず、危うくアルバムから漏れるところだった(ちなみに歌詞にある「Under a blood red sky」の一節は、その後、ライブアルバムのタイトルになった)。レコーディング中、リリーホワイトは「Sunday Bloody Sunday」には特別なものを感じていたものの、「NYD」にはピンと来なかったが、スタジオに出入りしていたインターンの少年が、この曲が流れる度に興奮しているのを見て、「もしや」と思ったのだという[2]。

そして「War」のレコーディングが終わった後の1983年1月1日、実際にポーランド戒厳令が解かれ、この偶然にU2のメンバーは大変驚いた。…

 

ポーランドにミルクやおむつを送った大阪の人たち

九条の映画館シネ・ヌーヴォが「連帯」当時を振り返るツイートをしており、胸打たれる内容なのでぜひ紹介したい。

一部引用するが連ツイをどうぞ。 

1981年12月13日、厳寒のポーランドでは戒厳令公布で、血の日曜日と化し、組合員の逮捕、暴力など残虐行為が行われ、非常事態となった。今井氏から軍政となる前に「連帯」から生活物資の要請が日本に届いていたことを知り、この場で支援組織「ポーランドへミルクをおくる会」を結成することになった…

 

「私たちの組織は徹底した民主主義なので時間がかかります」ワレサ委員長の言葉)

前の記事にこれを書いたとき、この一文からshohojiさんが考えることは私ときっと同じだろうと確信があった。ベルギーやオランダの政治のことだ。組閣に一年以上かかることがざらにある。選挙が終わってもまだ内閣ができないの?と私は当初驚いたものだ。

連立を組むために徹底的に話し合うからだ。譲歩も必要なのだが、最近はますますまとまらない傾向で、さすがに王様にもお困りの様子(笑)。でも私はこれこそが民主主義だと思うし、民主主義は議論するから時間がかかる。日本の現政権はこれから最も遠い位置にあると思う。また市民の政治意識が低く、意見も言わず、投票にさえ行かず、監視もせず、お上にお任せの日本ではこうした民主主義はありえない。

shohoji id:shohoji さんがくださったコメントのなかで「民主主義は時間がかかる」のは「参加者の受ける教育と参加者自身の余裕が不可欠な面でも」とあった。この「教育」というところ、わかるなあ。学校だけじゃなく社会全体で、よい市民を育て、政治家を厳しくチェックし、ちゃんとした人を選ぼうということをまるでやってこなかった。今さら議員の質が…とか能力が…と言っても虚しい。人間性にも欠けたような、数合わせのためだけのタレント議員が増えるのはシステムにも問題あるかもしれないが、やはり私たち市民の意識の低さ、社会や政治は自分たちが作っているという意識が欠如しているからだと思う。それと、マスコミが全く機能していないからね(嘆息)。

今振り返ってみても、ワレサ委員長と連帯の運動は凄かったなとつくづく思う。

 

最後にまた写真を何枚か貼ってみる。1981年8月ワルシャワと10日間の観光ビザ。

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ポーランドは一旦終わりです。頂いたコメント、もっと取り上げたかったんですが、すみません。いつもありがとうございます。