ベルギーの密かな愉しみ

しばらくの間 お休みします。

愛も不時着もないけれど、好ましい北朝鮮の青年の思い出(+観光ビザとスタンプ)

北朝鮮からの留学生に町なかでばったり出会い、しばしお喋りした楽しい思い出…今でも鮮明に蘇る。それが1978年のプラハだというのに。北朝鮮のことが話題になるたび「あの人どうしたかしらね」と記憶を新たにするため古びることはないのだ。心の中の彼は「愛の不時着」の俳優さんと同じくらい、カッコいい好青年のままである。

チェコスロバキアは学生時代、1977年から何度も訪れていて、ポーランド民主化運動「連帯」の始まりを聞いたのも1980年のプラハだと前に書いた。過去記事参照:世界中がレーニン造船所にくぎ付けだった頃 「連帯」

北の学生と会った話いつか書くねと林さんに約束した。書く書く詐欺になるのは嫌なので今日やっておこう。(他にもいろんな人に軽く約束してしまった事柄、ゴメン😓ちゃんとやります)

若い人たちには想像もつかないだろう。冷戦時代の子である私の頭の中で、世界地図はざっくり東か西に分かれていた。つまり第二次大戦が終わり、世の中少しは落ち着いていたものの、すぐさま世界の冷戦構造に組み込まれた日本。朝鮮戦争があり、子ども時代にキューバ危機、多感な時期はベトナム戦争。世界のあちこちで植民地が独立し、民主化運動が起こっては潰された時代である。世界地図は目まぐるしく書き換えられ、もう白地図でいいんじゃね?自分で書き込むから、と思ったりしたそんな時代。

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プラハ旧市街。女性の服装^^)

78年の夏は前年の民泊ではなく、個人宅の屋根裏の小部屋を借りていた。民泊の話は前に書いた。民主主義は時間がかかる &シンボルスカの詩と大震災 ポーランド② 

一旦友人ができるとそのまた友人や同僚や親戚などに紹介され、「うちに泊まって」とあちこちから申し出を受け、住む所には困らなかったばかりか、キャンプや小旅行にも一緒に連れていってもらっていた。なので観光客としてではなく、市民生活のリズムで行動していた。

ある日友人4人(カップル二組)と出かけ、小腹がすいたので屋台でフライドポテトをつまんでいた時のこと。「日本のかたですか?」と日本語が聞こえた。びっくりして振り向くと一人の男性が笑顔で立っている。まわりに4人か5人の男たち。私は頬をポテトに占領されていたので、こくんと首を縦に振った。

青年は自分と仲間は北朝鮮からの留学生だと自己紹介をし、矢継ぎ早に質問を投げかけてきた。プラハで勉強しているのか、お友達はチェコ人か、いつまで滞在するのか。また東京のどこに住んでいるか、大学の専攻は何か等。初めて会った人間に対し、そんな質問攻めは不躾に思うかもしれないが、私の受けた印象は違う。日本語が話せる喜びや好奇心が体から溢れていた。また同じ年齢の者同士が抱く親近感やほっとする感じもあっただろう。

私は青年を観察した。同伴のお仲間とは明らかに雰囲気が異なり、あか抜けたスマートさがあった。皆のようにスーツ姿ではなく、トロイ(パイプから煙が三つ出ているロゴで有名。70~80年代に流行った。|TOROY|)のセーターを着ていた。その下に白いワイシャツ。話す日本語は訛りもなく完璧で、かといって紋切り型でもなく丁寧過ぎもせず、言葉の端々に親しみが現れていた。

私がもっとも驚いたのはまっすぐで美しい眼差しだった。いくら若くたって20歳も過ぎれば子どものような無垢な邪心のない眼は持てないものだ。照れもあるだろうし、様々な感情が心の中を行きかって、それは眼のなかに表情として現れるはずだ。しかしこの青年はこちらがドギマギするほどのまっすぐな視線で見つめてくる。そこに性格から来るであろう明朗さと、話し相手に対する旺盛な好奇心が見え隠れしていた。

私たちのやり取りを、両陣営の連れはおもしろそうに見物していた。ピンポンのようなやり取りであったが、私からの質問は明らかに少なかった。その当時何かブレーキのようなものが働いていたのだろう。個人的なことを聞いてはいけないと思っていた。よほど口から出かけた質問、一番聞いてみたかったことは

「あなたは帰国者ですか。いつ渡ったのですか」

私は心の中で結論を出していた。この青年は、帰還事業(帰国運動)で恐らく幼少期に北に帰ったのだ。70年代に入ると帰国する人はかなり減っていたはずだから。私はそのことを中学の同級生のM君から学んだ。M君の親戚は全員帰国したが、自分たちはここ日本で暮らしていくんだと話してくれた。優秀なM君はその後高専に進学した。

私だって質問したい。そこで「日本語がすごくお上手ですよね」と振ってみた。すると「両親も話しますから」とあっさり。それ以上は何も聞けなかった。

他にもチェコのことや日本のことなど様々な話題でお喋りした。このままずっと話していたい、別の日にでももっとゆっくり話が聞きたい。そう思ったけれどそれが叶わないことはお互いにわかっていた。お仲間が割って入ってきたし、私の連れも「そろそろ美術館に行こうよ」と促した。名残惜しい気持ちで私たちは別れた。彼は「良い滞在を」のような、ちょっとぎこちない日本語の挨拶を送ってきた。私は「じゃ、さようなら」とだけ言ったと思う。

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(上の2枚は私の部屋。拙ブログをずっと読んでいる人は見た事があるはず)

その後友人たちは「グループの中であの人だけで明るく輝いていた印象よね」と批評した。そして北朝鮮ベトナムからの留学生、実習生はけっこういるらしいけれど、町なかではほとんど見かけないとも。

別の日に別の友人に話したら、「うちにも建築を学びにベトナム人が来ているよ」。それで「私もそう見えるかしら?」と言ったら「え?何言ってるの。女子は来ないよ。それに服装でわかるじゃないか」

ベトナム北朝鮮の人たちは皆同じ服装をしている。一年に支給される布の分量が何メートルと決まっていて、それでオーダーメイドする。すなわち決まったデザインのスーツやズボンなどを作るからだ。いつもグループで行動しているのはお互いを監視するためとも教えてくれた。

話が逸れるけど、中国と国交正常化し留学生を受け入れるなか、東京・文京区の交流活動の一環で「家庭に招待して食事をしたりお話したりして友好を深めよう」というのがあった。私の友人がいち早く応募して、二人のエリート留学生をお迎えした。中国人は一人で動いてはいけなくて必ず二人で行動し、互いの言動・行動を監視するらしいと言っていた。日本語は正しく話せるものの、本心は決して明かさない感じがあって、きまずい空気が流れていたとも話してくれた。

 

 

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(コンサートホールやレストランなどが入っている市民会館。ミューシャの絵が嵌ったステンドグラスが美しい)

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(町に戦車が飾ってあるのもおもしろいが、困ったことに夕刻ともなると戦車は石畳の上を散歩して、テレビやラジオの音をかき消し、団欒中の市民の邪魔をする)

さて北朝鮮の生活がたとえば1970年代どんなふうだったか、私には全くわからない。なのでネットで何かあるかなと探してみた。専門が朝鮮半島情勢である重村智計氏がラジオでwww.j-wave.co.jp/こんなことを言っていた。

重村「1970年頃までは北朝鮮、非常に生活は良かったんですよ。もうちょっと先、80年代後半ぐらいまでは。韓国の方がまだ遅れてた。なぜ良かったのかというと、当時、社会主義共産主義の国々から沢山援助がきた。それからいろんな工場とかも建設してくれたんですよ。住宅も。1948年から1971年にかけては日本の植民地時代よりも下層の人々もいい生活ができるようになったので、建国の父である金日成さんがものすごい皆に賞賛された」…

思い出話は終わります。

 

興味のある方のためにまたビザを貼ります。

①スタンプでチェコに入るとき・出るときの交通手段が記載されるのはおもしろい。

左は飛行機で。ポーランドワルシャワからプラハの空港へ入国、出るときはパリへ向けて飛んだ。

右はパリ発の列車で。CHEBはドイツとの国境の町。

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②これはハンガリーのビザ。チェコのようにしゃれた配慮はない。

83年はすでにフランス暮らしだったので、夏と復活祭の休みは旅行していた。

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ではこの辺で。また次回!