ベルギーの密かな愉しみ

しばらくの間 お休みします。

日本人はフランダースの犬ばかり 追記:2019年4月 新しい石像(2016年12月)

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写真は二枚ともベルギーの「牛乳売り」。このように犬は労働力として使われ、荷車を引いていた。説明がフランス語で書いてあるのは、当時公用語はフランス語だけだったから。

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 日本とアメリカで人気の「フランダースの犬」は”A Dog of Flanders and Other stories” という。著者 はウィーダ (本名Maria Louise Ramé)。発行が1872年。ウィーダは初めてベルギーに来たとき、犬が働かされているのを見てびっくりしたという。イギリスやフランスではすでに禁止だったから。

さて日本人観光客の話だが、みんな「フランダースの犬」を目当てにやってくる、とアントウェルペンの人は言う。カテドラルでルーベンスの絵を見てちょっと涙し、それからネロとパトラッシュの村Hoboken(ホーボークンと発音していた)へ向かい、ネロとパトラッシュの銅像の写真を撮る。ちなみにこの像は観光局が日本人のためにわざわざ建てたものだ。

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 「フランダースの犬」なんてどこがいいんだ?ひどい話だぜ。あれは負け犬の人生の話だ。こちらの人はそう思っている。日本人が「フランダースの犬」ばかり強調するから、アントウェルペンは貧しい田舎のイメージ、少年に牛乳を売らせ、犬を酷使するという、惨めたらしいイメージが抜けないじゃないか。そう嘆くのである。

さらに口の悪い人だと、こんなことも言っている。日本人の奴ら(*)はベルギーというと、三つしか知らない。

ブリュージュ・小便小僧(ブリュッセル)・フランダースの犬アントウェルペン。バカのひとつ覚えだね。

これはあるアントウェルペン在住のブロガーさん(実名で書いていて、けっこう露出しているので嫌でも目に付く)の記事で、日本人に読まれるなんて想像だにしていないから正直に思うところを書いている。

注*「奴ら」としたのは「ヤッペン」英語だと「ジャップ」をわざわざ使っているから。何か恨みでもあるのかしら。

「田舎者」に見られること ーこれが一番いやなのだろう。私はブリューゲルの絵が大好きなのに。村の生活や田舎の風景、ことわざ集など本当におもしろい。アントウェルペンの街には田舎の要素が少なくてむしろ残念だな。

 日本人観光客には感謝してもらわなくちゃ。このテロの警戒のなか、12月に私が乗ったANA成田ーブリュッセルには3つのツアーのお客さんが乗っていた。すごいことだ。あの人たちはベルギーのほかルクセンブルクや他も回るのだ。楽しい旅行をしてくれたことを祈る。

参考までに

 

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東京 小便小僧はJR浜松町駅プラットホームにあります。電車からも見えますよ。

 

追記:2019年4月

欧州ニュースアラカルト:トヨタ寄贈の「フランダースの犬」記念碑はなぜ中国資本寄贈の石像に置き換わったのか - 毎日新聞

引用

 トヨタ寄贈の「フランダースの犬」記念碑はなぜ中国資本寄贈の石像に置き換わったのか
毎日新聞2019年4月20日 12時10分(最終更新 4月20日 12時31分)

Texts by 八田浩輔

名作童話として読み継がれ、日本では1970年代にテレビアニメも大ヒットした「フランダースの犬」。ベルギー北部フランダース地方のアントワープにある聖母大聖堂は、主人公の少年ネロが最期を迎えた舞台として、今なお日本人観光客の「巡礼地」であり続けている。大聖堂の前にはかつて、日本とアントワープの友好の象徴として、物語をモチーフに建てられた記念碑があった。ところが2年半前に取り壊され、現在では中国資本が寄贈した新たな石像に置き換わっている。欧州で拡大する中国の影響力は、ここにも表れているのだろうか。フランダース地方出身のインターン記者と共に取材した。

大聖堂前の広場から消えた「日の丸」
 <パトラッシュ、疲れたろう。僕も疲れたんだ。なんだかとても眠いんだ。パトラッシュ…>

 真冬のアントワープ聖母大聖堂。憧れの巨匠ルーベンスの祭壇画を目にすることができた少年ネロはその場で力尽き、愛犬パトラッシュを抱いて冷たい石の床に横たわったまま最期の時を迎えた。75年に放映されたアニメシリーズ「フランダースの犬」の印象的なエンディングである。
 このシーンを想起させる少年と犬の白い石像が、アントワープ中心部にある大聖堂前の広場に完成したのは、2016年12月のことだった。寄贈したのは中国・深センに本社を置くジュエリーブランド「周大生」。石像のわきにあるパネルには、中国の人々と周大生が、アントワープのダイヤモンド産業に貢献したことへの謝意が記されている。港湾都市アントワープは、世界で流通するダイヤモンドの原石の8割が集まるダイヤ取引の中心地だ。

 広場の同じ場所にはかつて、日本の関係者の協力で03年に建てられた記念碑が存在していた。「フランダースの犬」は英国の作家ウィーダが19世紀後半に発表した作品だが、舞台として描かれたベルギーのフランダース地方では、物語を知る人は多くない。ゆかりあるアントワープにも「フランダースの犬」にちなんだ記念碑などは存在せず、現地の日本人社会が建造を働きかけたのだった。

 03年5月9日。記念碑の完成式典には当時の駐ベルギー日本大使やアントワープ市幹部らが出席し、日ベルギーの友好の証しとして両国の国旗も記念碑の上にかけられた。御影(みかげ)石で作られた記念碑は縦1メートル・横2メートル・高さ45センチの箱形で、ネロとパトラッシュを描いた円形のガラスが中心部にはめ込まれていた。夜間になるとガラス部分の内側から赤い照明がともり、日の丸のように浮かび上がる仕掛けもあった。4万ユーロの建設費はトヨタ自動車現地法人が寄付し、上面には日本語でこう刻まれていた。

 <この物語は悲しみの奥底から見出す事の出来る本当の希望と友情であり、永遠に語り継がれる私達の宝物なのです>
 碑文を考えたのは、ウェブデザイナーの日本人男性(50)だ。男性はそれまでベルギーを訪れたこともなかったが、「フランダースの犬」に関する情報を紹介するウェブサイト「PATRASCHE.NET」(パトラッシュ・ドット・ネット)を90年代後半から運営する筋金入りの愛好家として白羽の矢が立った。

 電話取材に応じた男性は「『フランダースの犬』は自分の人生にとって大切な宝もの。聖書と同じようなものです」と物語への思いを語る。テレビでアニメシリーズが放映されたのは、小学生の低学年のころだった。母がいない主人公ネロと同じ境遇で育った自分を重ね合わせて共感し、作品の持つキリスト教的なメッセージは、後にクリスチャンになるきっかけになったという。

 男性は数年前、記念碑が移動するかもしれないとの情報を現地の知人を通して耳にした。「最初はフランダースの犬が多くの人に広まるのであれば、残念だけどやむを得ないと思いました。でも……」。それからしばらくして記念碑は取り壊され、同じ場所にネロとパトラッシュの新しい石像ができたことを知った。

 男性は経緯を尋ねるために、現地の関係者や日本の外務省、在京のベルギー大使館などに問い合わせたが、現在に至るまで納得できる回答は得られていない。

「寂しい思いしかない」。男性は何度も繰り返した。

「正しい方向であればスポンサーは誰でも構わない」
 記念碑はなぜ撤去されなければいけなかったのか。新しい石像の建造とスポンサー探しにかかわったアントワープの観光ガイド、タンギー・オットマーさん(37)を訪ねた。飼い犬をパトラッシュと名付ける彼もまた「フランダースの犬」に魅せられた一人である。

 「いつも記念碑が壊れているのを見るのが悲しかった」。オットマーさんは、建て替えが必要と考えた理由について、説明を始めた。記念碑は、広場を取り囲むレストランを回る配送トラックがたびたび接触し、破損と修復を繰り返していた。時には壊れたまま2カ月近く放置されることもあった。「フランダースの犬」を知らない地元の人たちから記念碑として関心を寄せられず、45センチというちょうどいい高さ故に腰掛けとして使われて「トヨタベンチ」と呼ばれていたことも残念に感じていたという。

フランダースの像
 オットマーさんは16歳のころ、アントワープの歴史を調べる中で、ネロとパトラッシュの物語を偶然知った。観光ガイドとなってからその魅力に改めてひかれ、人気の背景を知ろうと日本を訪れたこともある。アントワープ市が観光資源として「フランダースの犬」を十分活用していない状況を変え、フランダース地方を含むベルギー全体で知名度を高めたいという思いを持ち続けていたという。

 オットマーさんは10年、「フランダースの犬」をモチーフにした新しい像の建造に向けた国際デザインコンクールを企画したが、市側の協力を得られずに開催には至らなかった。この時、日系企業のスポンサーも探したが、「良い反応は得られなかった」という。状況が変わったのは16年だった。ガイドの顧客だった中国のジュエリーブランド「周大生」の関係者を通して、同社から金銭的な支援を得られることになったのだ。

 市側の事情も変わっていた。アントワープ市政は13年からフランダース地方の分離独立を掲げる中道右派の新フランデレン同盟(N―VA)が握った。破損を繰り返す記念碑の修復費用を負担していた市側は、新しい像の寄贈を持ちかけたオットマーさんらの提案に乗った。

 観光客の動向も影響した可能生がある。アントワープ市を訪れる日本からの観光客は近年、顕著に減っている。07年には1万4700人だった日本人観光客は、17年には5500人まで落ち込んだ。取って代わるように中国からの観光客は増加を続けている。12年を境に日本人観光客を上回り、17年は9800人と日本人観光客の倍近くが訪れた。

 「フランダースの犬は、友情や信念、そして前向きな思考の大切さを伝える普遍的な物語です。(像が示すメッセージが)正しい方向であれば、スポンサーは誰であっても構わないはずです」とオットマーさんは言う。

 同じ16年の5月、「フランダースの犬」の原作にならって、受賞者がアントワープの王立芸術アカデミーで1年間勉強できる市長主催のデザインコンクールが開かれた。優勝したベルギー人アーティストがデザインした白い大理石のネロとパトラッシュ像は、記念碑の跡地に12月に完成した。くしくもこの年は、日本とベルギーが外交関係を樹立して150周年にあたる節目の年だった。
 オットマーさんは「私がガイドした多くの日本人からは、新しい像についてとても良い反応をもらっています」と笑顔を見せた。

軽視された物語の価値
 「記念碑が撤去されたことは残念でした。石像と互いに補完することができたはずだからです」。そう語るのは、ベルギーのドキュメンタリー作家、ディディエ・ボルカールトさん(47)だ。フランダース地方で知名度の低い物語が、日本で愛され続ける背景に迫ったドキュメンタリー映画「パトラッシュ、フランダースの犬 メイド・イン・ジャパン」を07年に製作し、これを基にした編著は「誰がネロとパトラッシュを殺すのか」(岩波書店として邦訳もされている。

 「フランダースの犬は、異なる文化を結びつける力がある物語です。しかし、アントワープ市はその重要性を十分に認識しているとは思えません」とボルカールトさんは言う。実際、日本側の協力で記念碑が建てられた後も、アントワープでは「フランダースの犬」を使った観光キャンペーンなどは行われず、それを避ける雰囲気すらあった。その理由について、ボルカールトさんは「フランダース人の目から見ると、これは貧しく、何よりも人生に失敗する物語であり、自分たちが打ち出したいイメージとは違う」と著書で指摘している。

 欧州を代表する港湾都市アントワープは、ダイヤモンド産業のほかにもファッションの街として知られ、ベルギー経済を支える活力あふれる街だ。「アントワープにとって『フランダースの犬』は関心事ではありません。重視するのはダイヤモンドやチョコレートなど観光客に売れるものです。『フランダースの犬』は文化であり、アントワープには(経済的利益を)何ももたらしません。日本の人たちは、それは違うと言うかもしれません。しかし、ダイヤモンドがもたらすものとは比較にならないのは明らかです」

 「日本のアニメを見て育った」というボルカールトさんは、日本のアニメとオタク文化の研究で博士号を取得した。「フランダースの犬」をテーマにしたドキュメンタリー映画を製作したのは、ベルギーの人々に物語を広めると共に、「日本に恩返しをして、より良い関係につなげたいと考えた」からだという。

 ボルカールトさんたちの調査によると、フランダース地方の公用語オランダ語で「フランダースの犬」の完訳版が初めて発売されたのは85年と遅かった。きっかけとなったのは、アントワープに「巡礼」に訪れる日本人観光客だったという。英国人作家がフランダースを描いた物語は、日本を経由してその地で暮らす人々に知られることになったのだ。
 映画の発表から10年以上がたったが、ベルギー国内での状況は「何も変わらなかった」とボルカールトさんは嘆く。「本当の希望と友情」の証しだった記念碑の撤去は、それを象徴する出来事だった。【ヤーロー・マナート、八田浩輔】

地元出身インターン記者の思いは……
 私はフランダース地方のデンデルモンデという街で育ちました。現在はルーベン・カトリック大学大学院でビジネス・コミュニケーションを専攻しています。2018年8月まで1年間、九州大学に留学していました。

 「フランダースの犬」を初めて知ったのは、ベルギーの大学で受けた日本語の授業でした。日本語と日本に興味を持っていなければ、私は自分が育った地域を描いた話を知ることがなかったかもしれません。ベルギーで「フランダースの犬」は子供向けの本も漫画もなく、学校でも教わりません。日本で製作されたアニメシリーズは、さまざまな言葉に翻訳されていますが、ベルギーでは一度も放映されたことがありません。こうした事実は、フランダース地方とベルギーにおいて、この物語がどれほど知られていないかを示すものです。

 アントワープ聖母大聖堂の前の広場にあった日本とベルギーの友好を象徴する記念碑は、中国企業がスポンサーになった石像に置き換わりました。最初は中国による干渉も頭をよぎりました。しかし実際には、関わった人たちに悪意はなく、ネロとパトラッシュの物語への敬意から何かがしたいと考えた結果だと分かりました。
 私は、記念碑は取り壊されるべきではなく、新しい石像と共存することができたと考えています。記念碑が何度も損傷したことから、アントワープ市が撤去を決めたことも理解できますが、物語の価値と日本とのつながりを認識していない市を擁護する気にはなれません。

 日本でもテレビシリーズの放映から40年以上がたち、若い世代でこの物語を知らない人たちが増えることを心配しています。私の日本の20代の友人も「フランダースの犬」を知りませんでした。

 ネロとパトラッシュが日本とベルギーで忘れられないために、三つのことが必要だと思っています。一つはアントワープ市が、この物語を通して政治・経済を超えたレベルで日本とつながる重要性を認識することです。次に、フランダースの人々がこの物語を知り、たとえ自分が持つフランダースのイメージと異なるとしても、それを受け入れること。最後に日本の若い世代にこの物語を知る機会が増えてほしいと思います。友情の物語が、子供や孫たちの世代にも長く生き続けることを願っています。【ヤーロー・マナート毎日新聞ブリュッセル支局インターン)】

 

アントウェルペンには白人しか住んでいないのか 〈街のイメージ考〉

街のイメージを選びたい? 物議をかもしたビデオ

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アントウェルペンの豪華なカフェ)


Moving Antwerp

「物議をかもしたビデオ」とは、2014年にアントウェルペン市が作った観光のプロモーションビデオである。発表されるや大きな反響を呼んだ。批判である。

Game of Thronesの音楽にのせて、街の名所や人々の暮らしを速いテンポで映し出すカッコイイ作品だ。MAS博物館やカテドラル、中央駅や港、スヘルデ川、ダイヤモンドセクションやファッション業界などが紹介される。どれもこれもアントウェルペンがチョー自慢にしているものだ。このビデオで、外国企業や国際会議などのさらなる誘致に役立てたいと考えた。

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しかし、なにかおかしい。登場する人々は全員白人だ。たしか一人だけ有色人種の男性がいたが。4割以上が外国出身という街の人口比率からすると、あと半分の市民はどこへ消えたんだと非難ゴウゴウ。youtubeのコメント欄の書き込みはものすごい数にのぼり、とてもここには書けないような言葉や表現が溢れたため、市は不適切なコメントをすべて削除するに至り、このような声明を出して終止符を打とうとした。

 visitantwerpen 1 年前
The video above appears to be a very hot topic. We are very grateful for the many comments and discussions that were written on this page. However, we see that many comments are discriminating and too politically inspired. Offensive language cannot be tolerated in comments on this video. We will therefore delete some of the messages. 

本当のアントウェルペン

このあと「白人でない」市民が「これがアントウェルペンの本当の姿だ」と自分たちでプロモーションビデオを作ってyoutubeにあげたりした。


Moving the real Antwerp

アントウェルペンは「街のイメージ」を非常に気にしているようだ。すなわちアントウェルペンは、モダンでクールな街、ファッションの街、美術と歴史の街、グルメの街 etc...と様々な形容詞をつけて、自分たちの望む側面に在外の目を向けさせようとする。

だが観光用のビデオは市民の税金で作っているのだ。白人ではない、あと半分の市民はどこにいったの?と声をあげたのもごもっとも。

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(派手なデコレーションのウィンドー)

私は市の中心部だけでなく、いろいろな地域にも行ってみた。そのとき参考になったのが、以前紹介した学生向けガイドブックである。

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過去記事→王立美術館地区 と Mampokoでランチ - 

これで地域の特色はだいたいつかめる。アントウェルペンに来たばかりの、右も左もわからない学生や社会人がアパートを捜すとき、気にかけなければならないのは環境と家賃だろう。家賃の安い地域は必然的に有色人種の多く住むところになる。そうした大切なもろもろをガイドブックは教えてくれる。

この町は実にうまく棲み分けがなされている。文字通りモザイクのようだ。公共交通機関に乗って移動するだけでもかなりのことがわかる。人々の肌の色、服装、話す言葉、会話の音量、匂い(たいていは買い物袋の食料品から)。観察は飽きることがない。

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写真:ビアカフェ「11番目の戒め」 

追記:下の記事も白人しか集まらない市のイベント について触れている。

cenecio.hatenablog.com 

🌸写真ギャラリー

本記事一枚目のカフェ、ずいぶんときんきらしてますよね。ここはいつも買い物にいくスーパーが入る建物にあるんです。アントウェルペンはスーパーまでゴージャス。赤い旗:スーパー・デレーズDELHAIZE。ベルギーを代表するスーパーマーケットチェーンの店舗です。

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下2枚は借りてきた写真。本当に宮殿みたい。

http://www.cpantwerpen.be/wp-content/uploads/2015/06/DSC_61651-960x641.jpg

http://www.cpantwerpen.be/wp-content/uploads/2015/06/Stadsfeestzaal-high-72-960x664.jpg 終わります。

KIRA(キラ)がブリュッセルに現れた日 デスノート・ NARUTO(+KANA出版の紹介)

デスノート」の新作、今年の秋らしいですね。

ノートが6冊ですって?わお~

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わたし わ きら です

今日は、キラがブリュッセルに現れたという話をしたい。『DEATH NOTE』(デスノート)は、ご存じないかたのために簡単に述べておくが、『週刊少年ジャンプ』の人気漫画。原作 :大場つぐみ、作画 :小畑健の名コンビで、2003年~2006年まで『週刊少年ジャンプ』に連載された。

夜神月(やがみらいと)が偶然入手した死神のノート「デスノート」。ここに名前を書き入れると、その当人を殺すことができる。夜神月はこのノートを使って犯罪者を、のちには自分の行く手を阻む者を抹殺し、自分の思い描く理想の世界を作り上げようとする。そこに名探偵のL(エル)やその仲間が挑み、頭脳戦を繰り広げる。その後、TVドラマ化、映画化し、いずれも大ヒットした。

前にも話したように、私は2007年から2008年、ブリュッセルに住んでオランダ語を習っていたのだが、授業は午前だけで昼には家に戻っていた。9月のある日、昼食の準備をしながらラジオを聞いていた。するといきなり

「わたし わ きら です」

という日本語が聞こえたのである。オランダ語の放送局で、いつもは歌や旬の話題満載の楽しい番組の中でのことだ。いったい何が起こったんだろう、突然「デスノート」の話だなんておかしい…。

 

 殺人事件

ブリュッセルのフォレスト公園で、成人男性の遺体の一部が見つかったという。下半身だけ。そばにメモ書きがあり、

”WATASHI WA KIRA DESS”

と書かれていた。発見者はその場所を朝の散歩コースにしている老人で、すぐさま通報した。駆けつけた警察官は、メモの意味がわからず、首をひねるばかり。

 記事の右側がそのメモ書きである。

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調べを進めていくうち、あの謎の文言は日本の漫画「デスノート」と関係があるとわかった。殺人事件として捜査している途中だという。さきの放送は、日本のサブカルチャーにくわしい専門家(ベルギー人男性)が招かれ、「デスノート」について説明しているところだったのである。

女性アナウンサーの顔は見えないわけだが、きっと口をあんぐり、目をパチクリさせて聞いていたことだろう。

 

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サイコパスのしわざか、連続殺人事件なのか、と世間を騒がせ、怯えさせたが、結局仲間だった男が4人つかまり、うち3人が有罪となった。全員が20代前半。主犯の男が23年の刑、あとの二人が20年だった。彼らはデスノートのファンだったという。

 

 デスノート人気

 「デスノート」はヨーロッパでも大人気で各国版がある。オランダ語版も。もちろん最初に翻訳出版したのはフランス語で、ダルゴー・グループ傘下にあるKANA出版社だ。2016年現在、下のような漫画を出版している。(ほんの一例です)

 

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デスノート」は2007年からフランス語に翻訳され、TVアニメも放送された。この事件のあと、たまたまパリへ行くことがあったのだが、大型書店FNACでは多くの若者が漫画の立ち読み(実際は多くが床に体操座り)、そばには「デスノート」が積み上げられていた。

またデスノート関連グッズも多くて驚いた。とあるウィンドーに飾られたリューク像の大きさにびっくりし、すぐ写メに撮って家族に送ったりしたものだ。 

コスプレをする人も多い。(左の写真はふつうにウィキペディアに載っていた)

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Amane Misa - Death Note by FrancescaMisa on DeviantArt

 

恐るべし!スペイン語ウィキペディア

Death Noteスペイン語版が熱すぎる。『絵本百物語』1841年(天保12年)に登場する死神にまで言及している。(いやはや勉強になりますね)

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Death Note - Wikipedia, la enciclopedia libre 

イタリアで出版された解説本。

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 米国版映画「デスノート」撮影が始まっている。

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Death Note le film Netflix : les premières images ! | Kana

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Les acteurs de la série Netflix de Death note dévoilés ! | Kana

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https://oriver.style/cinema/willem-dafoe-as-luke/

 

 追記:NARUTOについて書くなら章を改めるべきだが、ちょっとだけ触れておく。

ブリュッセルに滞在した2007~08年は、なんといっても一番人気は、社会現象と言われたNARUTO

あのNARUTOで忍者熱に冒され、日本へやってくる青年が激増したのである。もう誰にも止められない。若者たちの頭の中にある、そこにしか存在しない忍者の里、理想郷、憧れのニッポン。みなさん、各地の忍者村や道場などへ修行に散らばっていった。

NARUTO人気にあやかろうと、ヨーロッパの食品会社は、子供向けの飲料(ヨーグルトだったかも)におまけのキャラクターシールをつけるなどしたが、大型スーパーでは、みごとにおまけだけが盗まれていたものだ。

 

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Door Painting Collection Figure Naruto PVC Figure - Uzumaki Naruto -Yomigaeru Sharingan Ver. 

表紙にあるように、NARUTOもKANA。この出版社はNARUTOデスノートだけでしばらくは安泰と思われる。NARUTOは少年漫画の王道で、2016年の現在もかつて(2007~09年)ほどではないにしろ、売れ続けているからだ。しかし今後、NARUTOに匹敵するような傑作マンガははたして現れるのだろうか。

 

  追記:ブリュッセルにあるKANA出版の仕事場拝見!

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Les locaux Kana à Bruxelles | Kana

 出版社の編集者さんが書いているブログですが、社内の写真がたくさんあります。

 

追記2:KANA出版部の人が来日

cenecio.hatenablog.com

ず~っと昔のオリンピック アントワープ五輪1920年 追記:NHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』

東京の次はどこ?

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パリは名乗りをあげたようだ。イタリアやハンガリーなども。2017年にペルーで開かれる総会で決定する。前回フランスは日本に票を入れてくれた。なぜならスペインに決まると、しばらくヨーロッパに回ってこないからである。

 

1920年のオリンピック

今日はアントウェルペンで開催されたオリンピックの話をしよう。

「え~!いつ?日本も出たの?」

そう思うでしょ。私もオランダ語を始めてしばらくの間は知らなかったことだ。だってこんな小さな国で、しかも首都でもないところでオリンピック開催だなんて・・・。

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1920年といえば、「大戦争」と言われた第一次世界大戦が終わって二年足らず!でも下の写真を見ていただければおわかりだが、出場国29か国、選手も役員も少ない。ほとんど日本の運動会の規模だ。

もちろん日本も選手団を送った。

( 日の丸が見える↓)

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日本人が写っている写真は、残念ながらこれしか見つけられなかった。選手15名、役員 3名で、団長はあの有名な嘉納治五郎である。

しかし、日本チーム登場の様子を伝える記事を見つけたので訳出してみる。

 1920年8月16日付のオランダの新聞「祖国」から部分訳。

「次に白い服を着た日本人選手団が入ってきた。

しかつめらしい顔に細い目、獲物を狙う動物さながらに、両手を幾分身体から離し、今にも飛びかからんばかりだ。

役員は皆、ほかのどこの国の役員よりも美しいシルクハットをかぶり、完璧な服装に身を固めている」…

成績テニスで銀メダルを二個獲得。

熊谷一弥(テニスシングルス)
熊谷一弥・柏尾誠一郎(テニスダブルス)

陸上や競泳に出場したが、どの選手も決勝まで進めず。ちなみに最多のメダルはアメリカで、合計95個。1924年はパリ大会だったが、日本はレスリングで銅メダルを一つもらっただけだった。


金栗 四三(1891年明治24年)8月20日 - 1983年 かなくり しそう)

日本における「マラソンの父」

wikiより抜粋

・1912年(明治45年)のストックホルムオリンピックでは、レース途中で日射病により意識を失って倒れ、近くの農家で介抱される。金栗が目を覚ましたのは既に競技が終わった翌日の朝であった。このため金栗はレースを諦めざるを得ず、そのまま帰国した。

 ・1916年(大正5年)のベルリンオリンピックではメダルが期待されたが、第一次世界大戦の勃発で開催中止となり出場することができなかった。その後、1920年大正9年)のアントワープオリンピック1924年大正13年)のパリオリンピックでもマラソン代表として出場した。成績はアントワープで16位、続くパリでは途中棄権に終わっている。

・1967年(昭和42年)3月、スウェーデンのオリンピック委員会からストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待された。(略)金栗を記念式典でゴールさせることにしたのである。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場をゆっくりと走って、場内に用意されたゴールテープを切った(日付は1967年3月21日)。

この時、「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされた。

・金栗はゴール後のスピーチで、「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントした。

ストックホルムオリンピックから100年を経た2012年に、金栗のひ孫にあたる男性が金栗を介抱した農家の子孫を訪ねている]。

写真:アントワープ五輪 金栗選手出場のマラソンスタート

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d8/Le_d%C3%A9part_du_marathon_aux_JO_d%27Anvers_en_1920.jpg/800px-Le_d%C3%A9part_du_marathon_aux_JO_d%27Anvers_en_1920.jpg

Fichier:Le départ du marathon aux JO d'Anvers en 1920.jpg — Wikipédia

ラソン ゴール

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/78/L%27arriv%C3%A9e_du_marathon%2C_aux_JO_d%27Anvers_en_1920.jpg/800px-L%27arriv%C3%A9e_du_marathon%2C_aux_JO_d%27Anvers_en_1920.jpg

Fichier:L'arrivée du marathon, aux JO d'Anvers en 1920.jpg — Wikipédia

ラソン総括(フランス語)

http://marathoninfo.free.fr/jo/anvers1920.htm

 

アントワープ五輪 終わります。

 

🌸今日の写真

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アントウェルペン もとは船を入れておく倉庫だが、今は駐車場。レース模様のような屋根、兜の飾りが美しい。毎朝これを見て、川べりを散歩した。)

 

個人メモ:資料写真 アントワープ五輪関連

大変なお祭り騒ぎである。

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追記:

wiki

2019年(平成31年)1月6日より、金栗を主人公の一人とした『いだてん〜東京オリムピック噺〜』がNHK大河ドラマとして放送されている。金栗を演じるのは六代目中村勘九郎である。ドラマの放送開始を控えた2018年(平成30年)12月1日には、熊本県金栗四三の出身地でゆかりの深い玉名市和水町南関町が、金栗の母校である、筑波大学茨城県つくば市)と功績を活用した観光振興やスポーツを通じた教育、地域活性化などに連携して取り組む協定を締結した。

 

あの頃 ヨーコ・オノと…

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Yoko at the Baltic 

あの頃ペニー・レインと」(原題Almost Famous)というアメリカ映画があって、今日のタイトルはそれをもじっている。ちなみに当ブログのタイトル「ベルギーの密かな愉しみ」だってお気づきだと思うけど「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」(Le Charme discret de la bourgeoisie)を拝借している。

あの頃ペニー・レインと」はケイト・ハドソンを見るだけでも価値ある青春映画だが、ヨーコ・オノの話である。

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Yoko Ono in 1964. © Getty Images

「あの頃ヨーコ・オノもいた」

「まだ有名になる前のヨーコ・オノが・・・」

ヒューホー・クラウス(この人については後日述べる)について調べていたとき、こんな懐古調のくだり、回想の記述にぶつかることが何度かあった。あの頃はおもしろかったな、盛り上がったよなと。

そうか、ヒューホー・クラウスとヨーコ・オノは接点があったのか。彼女は60年代は前衛芸術家として世界中を飛び回っていたし、ジョン・レノンとの結婚は1969年だから、それ以前にベルギーでパフォーマンスをやり、人々はそれを観に行ったんだろうな。年齢も彼女は4歳年下だから同世代だもんね。とはいえクラウスは2008年に亡くなってしまった(安楽死)。

しかしヨーコ・オノは80歳を過ぎてもなお驚異の若々しさで、パワフルに飛び回っている。彼女とか岸恵子とか、いったいどうなっているんだろうと思う。(岸恵子は娘のほうが年上に見えちゃうくらい)

 

ベルギー国際実験映画祭

ベルギーとオランダの境にある、海辺の町クノック(Knokke)は、風光明媚な富裕層の住む町である。そこで 1949年から全5回、(1949, 1958, 1963, 1967,1974 年)国際実験映画祭が開かれた。1963年には高林陽一が「砂」で審査委員会特別賞受賞。砂丘を歩く一組の男女が映る。男は壺を抱え、女が壺に砂を入れるだけーという話だそうだ。

映画以外にもコンサートやパフォーマンス等々があり、ヨーコ・オノはこの地に1967年、” Bag Piece”を引っさげてやってきた。

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美しいカジノのホール。黒い大きな袋が置いてある。袋といっても小さなテント位の大きさだ。あなたは、近くにたまたまいあわせた全く面識のない人に、一緒に袋に入ってくれないかと頼む。袋をすっぽりかぶり、中で服を脱ぎ、二人でちょっと踊ったり動いたりしたあとで、再び服を着て外に出るというもの。ヨーコは自身でやってみせ、来場者にも参加するよう誘う。そう、そこを訪れた人がパフォーマーになるのだ。 

これは60年代を代表する、もはや古典と言っていい作品で、のちにジョン・レノンと共に進めていく平和運動の中で、「バギズム」と名付けられることになる。

去年のMoMAニューヨーク近代美術館)のヨーコ・オノ回顧展でも、またつい先日まで開催していた東京現代美術館「オノ・ヨーコ|私の窓から」展でも再現されたが、clothing option、つまり裸にならない、服を着たままバージョンが採用されたという。

ちなみに、黒い袋の中からは観客の反応が見られるが、外からはもぞもぞ動いている様子しかわからないそうだ。

ヨーコ・オノはここベルギーで強烈な印象を残したらしい。

人々の記述によると、壇上でインタビューに答えるときも裸だったという。まさか、そんなわけないでしょと思い、シネマテークのサイト(*②)をあたってみたら本当だったので肝をつぶした。

 

ヒューホー・クラウス

クラウスも映画祭に出品した。芝居Masscheroenの中で、全裸の男を三人登場させ、キリスト教の三位一体を表現し、物議をかもした。1968年に、宗教を冒涜し良俗を穢したとわいせつ罪に問われ、罰金および禁固四か月の実刑が下る。

人々の抗議(Anti-Censuur Protest Read-in)により、のちに禁固刑は執行猶予がついたが。

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去年発売の本「若き日のヒューホー・クラウス」 

「あの頃ヨーコ・オノもいた」と当時を懐かしむ世代は、「クラウス・ジェネレーション」とも呼ばれるらしい。ちょうど英米でのフラワーチルドレン(フラワーパワー、ヒッピー世代とも呼ばれる60~70年代の若者のこと。ベトナム戦争反対、花を手に愛と平和をうたう)や、ドイツのルディ・ドゥチュケ世代(Rudi Dutschke)と共通するものがある。

クラウスは非常に多才で、小説、戯曲、詩、絵画、映画領域で華々しい活躍を見せたが、このころの特徴をひとことでいうと、「反抗」だろうと思う。自身の親やその世代(対独協力、フランダース民族主義者)、社会の価値観やカトリック教会を敵にまわし、挑発し、全否定した。 

 クラウスについては時間のあるときにまた。

 

参考 

MoMAニューヨーク近代美術館)の展示まとめ。(日本語) 

 http://www.widewalls.ch/moma-welcomes-yoko-ono/ 

シネマテークのサイト。実験映画祭まとめ(オランダ語。切り替えでフランス語)

www.cinematek.be

ドイツのカーニバル・じゃんけん・テロの脅威にユーモアで応戦(+じゃま猫)追記:2018年のカーニバルも激しい! 

①カーニバル 2016 いつも過激!

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http://www.demorgen.be

ドイツ、デュッセルドルフのカーニバル。風刺たっぷりの山車が登場することで有名なのだが、ちょっとこれはひどいと思う。普通に見たら、一国の独裁者が国民に圧政をしいているようにみえるだろう。でもこの人ヤロスラフ・カチンスキは右派議員の一人にすぎないはずだが。

あれ、大統領だったんじゃ…。それは双子のきょうだいレフのほう。あの不可思議な5年前の事故(事件?)。レフと妻、議員や軍人ら90人を乗せた飛行機がロシア領土内で墜落し、全員が死亡したのである。酷い事故だったな。もちろんカチンスキ氏もお怒りだとポリティコ紙が伝えている。 

2枚目の写真は難民の波に文字通り呑まれるメルケル

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3枚目はイジりがいのあるトランプ氏。

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 カーニバルは何でもありなんですね。

②ベルギーにおけるじゃんけん

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わかりづらいかもしれないが、ベルギーの地図で、南の半分、すなわち黄色がワロン(フランス語地域)。北半分のフランドル地域において、「じゃんけん」のことをどう言うか調べたもの。

①blad-steen-schaar すなわち葉っぱ、石、ハサミ

なのか

②schaar-steen-papier ハサミ、石、紙

なのかである。

地図のオレンジが①の地域、左右に分かれている。赤が②の地域だが、おもしろいことに首都ブリュッセルからアントウェルペン州全体を含む細長い地域である。

子供たちにインタビューしたところ、両サイドとも自分たちのほうが発音しやすくていいと言っている。出身が異なる者同士のじゃんけんは息があわなくて難しいらしい。

もうひとつおもしろいと思ったのは、

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勝ったチョキはパーの紙を切る真似をすること。

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(写真: アントウェルペン 私の部屋からみた朝焼け)

 

③テロの脅威にユーモアで応戦 

すごく楽しめます。み~んな可愛い💛

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National emergency? Belgians respond to terror raids with cats | World news | The Guardian

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④「じゃま猫って知ってる?」

テレビから聞こえてきた。なんのことはない、文字通り、飼い主の邪魔をする猫のことだった。

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そうした写真をアップして人々は笑いあっている。でも本音は、自分の家の可愛い猫を見せたいだけなのかも。上の写真はうちの猫がまだ赤ちゃんのころ。勉強中のコピーのうえで眠り込み、老眼鏡もとられてしまった。

ガーデニングをする人のお宅では猫は飼わないって本当かしら。土をいじったり掘り返したりして植物をだめにするから、というのだけれど。うちは外へはださないから、考えたことがなかった。部屋の観葉植物を食べて困る、とこぼしている人がいたけれど、それはしつけの悪い猫ちゃんなんじゃないかと思っていた。

我が家の猫は「それはだめよ」というとちゃんとわかる。小さいときによく叱ったから、あ、またお母さんに怒られるからやめよう、と思っているみたいだ。

🌸わがやの猫のテレビ狂時代。

猫番組にだけ反応した。

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気になってしかたないらしく、裏側も見ていた。

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だんだん興味がうつり、

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ジャガイモとじゃれてみたり

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でもやっぱり箱入り娘かな。ワレモノ注意。

 

追記:2018年2月13日

2018年のドイツのカーニバルは?

こちら雨雲さんが伝えてくれています。お借りします。

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https://twitter.com/N74580626/status/963170241252503553

のずさんが呟いています。4枚目に対し

AfDの「Wollt ihr den totalen Zwerg?(諸君らは完全な小人を望むか?)」がヤバ過ぎ。

何がヤバいって、ゲッベルスの「総力戦演説」、「諸君らは全面的な船倉を望むか?」(Wollt ihr den totalen Krieg?)というナチネタのパロディーだからです。確認してみないと分かりませんが、党首の身長を揶揄しているのでしょう。

アントウェルペン中央駅2。

昨日に続き、今日は駅の中を見ます。

アントウェルペン中央駅 -1- 駅を外から - ベルギーの密かな愉しみ

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列車が着いた。わあ、きれい!と思う。何度来てもそう思う。

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「出口」って書いてあるけど、駅舎への入り口でもある。終着駅だからみんなここに向かうのだ。実をいうと裏から出ることもできる。日本と違って改札がないから。ユダヤ人は皆後ろの出口を使っている。自宅に近いからだろう。前に「シナゴーグ」のところで書いたけど、アントウェルペンには約2万人のユダヤ人が住んでいる。 

今あそこで、おじさんが三脚立てて写真を撮っているね。邪魔しないように通ろう。

階段を降りていくと切符売り場のカウンターが見える。左にインフォメーション。(以前アントウェルペンの観光案内所・WIFIを求めて・書店 ほか - でお話しした)

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 振り返ると。

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階段右側の細い溝に、自転車のタイヤをはめて、上まで転がしていける。凄いアイディアだよね。

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ウィキペディアより

駅構造
石に覆われたターミナルの建物と待合ホール上の巨大なドームはベルギーの建築家Louis Delacenserieが設計したもので巨大な鉄(高さ44m、長さ185m)とクレメント・フォン・ボガードによるガラスで構成されている。当駅はベルギーの鉄道建築でもっとも素晴らしい例として広く見なされている。

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小学生のグループが先生の指示を聞いている。 

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ガシャポン 右上ドラゴンボール

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構内のロッカー。

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8か国語の中に日本語がある。大きいロッカーは5ユーロで、中型スーツケース2個はゆうに入り、さらに小型のものも1個か2個入る。やり方は説明に従えば簡単だが、コツをひとつ言うなら、ドアをバンとしっかり閉めないと鍵がかからないこと。静かに閉めてはだめ。バンと強くやってください。するとカチャリと音がして、支払うべき金額が表示されるしくみ。 

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ウィキペディアより

線路の配置
レベル +1 (元の駅) ドーム状のトレイン・シェッドの下に6本の終端式の線路がある。3本ずつの2群に分かれておりその間の開口部から地下が見える。
レベル 0 チケットオフィス・商業区域
レベル −1 (道路面より7m下) 4本の終端式の線路がある。2本ずつの2群に分かれる。
レベル −2 (道路面より18m下) 4本の線路がある。中央の2本は街の下のトンネルにつながる(高速列車と高速国内インターシティーサービスに使われる)

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明るくて美しい駅。終着駅の暗さはない。

世界の鉄道駅トップ10には、いやトップ5には毎年必ず入っている。TOPの選ぶ基準にもよるので、何位とかはあまり意味がないと思う。ロンドンのセント・パンクラス駅やニューヨークのグランドセントラル駅なども、いつも入っていますね。

金沢駅アメリカの雑誌で「世界で最も美しい駅14選」に選ばれていました。金沢駅、写真だけでも一度見る価値がありますよ。

アントウェルペン中央駅 -1- 駅を外から 

アントウェルペンにはカテドラルが二つある」と言われる。。一つは聖母大聖堂、もう一つはこの中央駅である。さしずめ鉄道大聖堂といったところ?

アガサ・クリスティー推理小説シリーズ「エルキュール・ポアロ」は、「名探偵ポワロ」としてイギリスでTVドラマ化された。ポアロ氏はベルギー人で、第一次大戦中イギリスに疎開していて、そこで様々な事件を解決するという話だった。

その中に「ブリュッセル中央駅」が出てくる回があるのだが、実際はアントウェルペン中央駅を使っている。何故?ブリュッセルのは地味すぎるから?確かに首都の中央駅としては風格に欠けるかな。

 

アントウェルペン中央駅の駅舎は四方形で、一辺(①)は当然プラットホーム側であり、線路がのびている。高架下の車道から見てみよう。住まいの近くだ。駅舎の茶色の美しいドーム、プラットホームを覆う赤い屋根が見える。左にはダイヤモンド街&ユダヤ人地区

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線路脇のこの不思議な構築物、前にも写真を乗せたが、飾りなのか意味があるのかはわからない。

四辺の別の一辺(②)は動物園に面している。

残りの二辺は一辺が広場 :het Koningin Astridplein アストリッド女王広場③、もう一辺が通り:Keyserlei 皇帝通り④に面している。どちらも飲食店やホテルなどが多く人で賑わっている。Keyserleiは、まっすぐ行けば目抜き通りMeir(メール)、そして旧市街に繋がり、スヘルデ川に出る。 

新聞のweb版から拝借した写真。

f:id:cenecio:20160128082613j:plain© photo news.

左の森が動物園。緑地のあるところが「アストリッド女王広場」③である。以前はただ駅前広場という名だったが、1935年にお化粧直しをして、当時人気だった女王の名前をつけたそうである。一応こちらが駅の正面だ。

 

バスの停留所

ここでちょっと話はずれるが、バスについて。この広場から、ブリュッセル空港直行のバスが出ているのだが、これがとっても便利。一時間に一本、10ユーロ。鉄道だと一時間に二本でているが、駅の難点は広い構内の移動だと思う。旅行客は大きな荷物を持って、あ、失礼!と肩をぶつけたりしながらエスカレーターを上り下りし、何番線だっけときょろきょろ捜し、よっこらしょと列車に乗り込む。荷物は足元に置くか網棚に乗せるか。切符もあらかじめ買っておかなければならない。

直行バスは、自分でスーツケースを荷物室に入れ、運転手に10ユーロを渡し、好きな座席に座る。5分くらい走ると、アントウェルペン郊外の大きなホテルの前で一度とまり、客を拾う。そのあとはまっすぐ空港へ。45分だった。乗客は見たところ全員ベルギー人かな。自家用車で人を乗せてきて、バス停の前で降ろしていた。私は列車が大好きなのだが、バス移動が思いのほか快適で楽チンなので感心した。 

で、アストリッド女王広場③だ。駅に向かって左側は現在工事中だが、アールヌーボーのきれいな建物が並んでいる。有名なダイヤモンド博物館もここにあるのだが、ただいま閉館。近く旧市街に引っ越すらしい。

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動物園の入り口。ラクダが目印。1843年設立のヨーロッパで2番目に古い動物園。年間100万人以上の来園者があるという。

緑地をはさんで駅の向かいには、ホテル(AstridPark  Plaza Hotel)と水族館がある。駅前に動物園&水族館というのは珍しいねえ。それから中華街の入り口の門も。

 

昔の絵葉書 アストリッド女王広場

f:id:cenecio:20160203132030j:plain 次にKeyserlei 皇帝通り④のほうも見てみよう。

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Middenstatie (中央駅)と書いてある。美しいドーム。

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 ありがたいことに鉄道に詳しい人が、日本語のウィキペディアに解説をつけてくれていた。次回は駅の中をご案内します。

 

追記*動物園側からの写真(4月10日)

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ステーン城  Het Steen 

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すでにお話しした伝説の観光ガイド、故ファン・カウエンベルヒ氏の記念碑(下過去記事)から見たステーン城。街案内の起点と定めていた場所だった。

キスマーク と 原発テロの危機 ほか (2月の記事まとめ) - ベルギーの密かな愉しみ

 

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 ステーン城の入り口に立ち、町やカテドラルが臨める。

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ステーン城はもともとアントウェルペン砦(Antwerpse burcht)で、海賊などから町を守るため 、1200~1225年の間に建てられた。当初は法廷や教会、魚市場や倉庫なども入っていたそうだ。

1520年ころカール五世(神聖ローマ皇帝であり、カルロス1世のとき建て替えられ、steen(石という意味)という名前に変わった。刑務所に使われたり、負傷した兵士を収容する施設だったり様々な用途に使われたのち、 1842年、市が買い戻した。 だが 1880年、川岸の拡張の際、大部分を破損。 残っているところを Het Steenと呼んでいた。1889-1890年に 再び増築・修復工事を行い、その後は博物館として使われる。

2010年まで海洋博物館だったが、展示品の船などは全部MAS博物館(既出)に引越しをして、現在は閉鎖され、中には入れない。

でも市民は、天気がよければここに足が向くようだ。川を見るのが気持ちいいからね。

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キリスト架刑像と遠くに、先日の肉屋ハウスを臨む。

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監獄として使われていたころ、死刑囚はこのキリスト像のもとで祈りを捧げたという。

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「ねえ、のぼっていい?」

だめでしょ。

 

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入り口アーチの上の紋章、真ん中はカール五世で、両側はブルゴーニュ公国を表す。

・・・と書いてあったけど、私は紋章のことはからきしわからなくてすみません。

ただ確かなのは、カール五世は、自分の強大な力を表すため双頭の鷲を使っていること。頭が二つある鷲(英語 Double-headed eagle)の紋章というと、私はすぐドイツを思い浮かべるが、紀元前からいろいろな国家や貴族に使われている、非常に人気のある紋章らしい。

図にするとカール五世さんのはこんな風。

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さてこちらは

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鷲の下のが何の紋章かわからないけど、文字は拡大するとfortunata antverpiaと書いてあるな。

ググってみると、

www.redbubble.com

Tシャツ、ほしい?

私は別に・・・。 

最後にステーン城の前に立っている巨人Lange Wapper君。

いたずらばっかりする伝説上の男の子だって。↓写真左下。

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f:id:cenecio:20160202133401j:plain写真:ウィキペディア

 初めは小さかったのにだんだん大きくなって、ここまでの巨人になってしまったんだって。ほぉ。

 

おまけ

川向うからステーン城を見てみた。

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資料:Steen

 アントウェルペン守備線

Stelling van Antwerpen - Wikipedia

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9b/Forten_rond_Antwerpen.png/450px-Forten_rond_Antwerpen.png

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Nationaal Gedenkteken van het Fort van Breendonk

www.fortengordels.be

劇場地区へ 朝市とオルタカフェ

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ブルラ劇場。

可愛い建物でしょう?初めて見たとき、これが劇場?お芝居見に行くのが楽しいな、と思ったが、実は市の劇場は後方にある建物だそうだ。これは建築家Pierre Bourlaの苗字をとって「ブルラ」と呼ばれている。ネオクラシック様式の900席の劇場。絨毯商人の建物があった場所に1827年建設開始。1829年にお披露目の予定だったのに、ベルギー革命(独立)のために遅れて1834年にオープンした。当時は「王立フランス語劇場」と呼んでいたという。

ゆったり建っているように見えるが、

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 このように繁華な町中にある。この辺はカルチェラタンと呼ばれているようだ。

裏には私の大関心事、有名なビアカフェがあるのだ。

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De Duifkens  Graanmarkt 5

マスコットの猫ダリダがいるというのが気になって一度入ってみたいのだが、閉まってたり地元民でギッシリだったり。敷居が高い…。

こんなお店も

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シャネルのアントワープ店。このへん高級ブチックが多い。

 

Horta Grand Café

そしてこの劇場地区には重要な遺産がある。オルタが建て、残念にも1965年に取り壊されたブリュッセルMaison du Peuple(人民の家)が、ここアントウェルペンの地で第二の生を受けたのである。市民の憩いの場であり、観光名所でもある。

住所:Hopland 2  2000 Antwerpen

Maison du Peupleというのは、アール・ヌーボーを建築に取り込んだ先駆的な建築家ヴィクトール・オルタ(Victor Horta1861 - 1947)の代表作のひとつで、当時のベルギー労働党のために作られた。ちょっと古い絵葉書を見てみよう。

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この巨大な建築物の中に、労働者のために作られたありとあらゆる設備が入っている。

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この絵葉書に見る鉄の骨格をそのまま使用して、オルタカフェは作られた。

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枠組みはばらしたあと番号がふられ、長い間Tervurenというブリュッセル近郊の町に保管されていた。そしてビール醸造Palmが、オルタの作品を十全に生かし、人々の集まる場を、とプロジェクト案を提出、2000年に完成を見た。

 

美しさにキョロキョロしてしまう。

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一階と地下はカフェ・レストラン。二階の「アールヌーボー・ホール」は、会議、レセプション、結婚式、周年記念行事、展覧会、新年会、見本市、ファッションショーなど多目的に。

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そしてこちらが市劇場、Stadsschouwburg Antwerpen

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日曜市の日で、天気もいいので市民でいっぱいだ。

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小さな店主さん、どう?売れてる?

 

片づけを始めた劇場広場と市劇場。

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市場はもっとこじんまりしているほうがいいなと思う。

5年くらい住んだパリの朝市が好きだった。広い並木道の中央緑地に、週に二回、20店ほどテントが並ぶのである。顔見知りになると、いろいろ味見もさせてくれ、子連れだと必ずおまけもつけてくれて、お得で楽しいひとときを味わえた。自宅の庭で育てた白アスパラガスだけを売る、とっても可愛いおばあちゃんの姉妹など、今でも顔やしぐさが目に浮かび、懐かしい。

パリにはもう行かないだろう。80~90年代、平和でいい時期に住んだ。よほどの用がなければ行かないだろうが・・・うーん、誰かの結婚式に招待されるとか、そうしたらイソイソと飛んでいくかな。

ただやはりテロの不安はいつになっても頭から去らないだろう。