ベルギーの密かな愉しみ

しばらくの間 お休みします。

アメリカ海軍の衛生兵だったヒトラーの甥 改名はしたけれど…-6-

だいぶ日があいてしまいましたが、核シェルターと防空壕 &ヒトラーはイギリス贔屓(びいき)か -5- - の続きです。

ヒトラーのイギリス贔屓は、母親の違う兄とその息子である甥がイギリスにいたことも関係あるのか否か? →・・・ないでしょう。

前々回載せた図をもう一度見てみます。ヒトラーの兄アロイス・Jrはイギリスでアイルランド人のブリジットと結婚。男児ウィリーが生まれますが、のちに母子を捨てドイツに移住し、ドイツ人と結婚(重婚罪!)して家庭を構えてしまいます。アロイスがドイツを旅行中に第一次大戦が勃発したため、イギリスへの渡航が禁止されたという経緯はあるものの無責任極まりない。

ドイツにはハインリヒという息子がいましたが、1942年ソ連で戦死(捕虜となり拷問死?)しました。

http://i.dailymail.co.uk/i/pix/2014/09/20/article-2763514-218622BE00000578-308_634x710.jpg

http://www.dailymail.co.uk/news/article-2763514/Found-The-REAL-Hitler-diaries-astonishingly-reveal-Fuhrers-British-born-nephew-William-Hitler-went-Berlin-cash-connections-end-fighting-Nazis.html

ウィリー(ウィリアム・パトリック・"ウィリー"・ヒトラー:William Patrick "Willy" Hitler、1911‐1987)は母親の手で育てられ、1929年彼が18歳になったとき初めてドイツの父の元を訪ねます。

1933年にも再訪。この時の目的は総統閣下である叔父から何らかの恩恵を受けて、儲かる仕事にありつけるのではと期待したようです。実は母国イギリスでは名前「ヒトラー」が災いして職につけず、貧しい暮らしをしていました。

ところが叔父のアドルフは、銀行の事務やオペル社の工場での仕事くらいしか斡旋してくれない。これに不満のウィリーはなんと叔父を脅迫するのです。ヒトラー一家の恥となる話を新聞社に売りつけると言って。(ヒトラーの父方にユダヤ系の血筋…という巷に広まっていた噂ですが、現在この説は否定されているようです)

ウィリーは図に乗ってヒトラーの山荘ベルヒテスガーデンまで押しかけることもありました。また1938年にはLook誌に「私はなぜ叔父が嫌いか」という記事を寄稿しました。↓

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http://nationalpost.com/news/world/strange-tale-of-hitlers-nephew-resurfaces-as-canadian-sells-1939-why-i-hate-my-uncle-article

1939年になると母と共に渡米して講演会ツアーまでやります。これはアメリカの出版会の重鎮ウィリアム・ランドルフ・ハースト( 1863 - 1951年、映画『市民ケーン』のモデルと言われている)に誘われたからです。

https://www.warhistoryonline.com/wp-content/uploads/2016/07/william-patrick-hitler-aviso.jpg講演会のチラシ

・・・とまあこんなわけですから、ヒトラーの親英感情は親戚とはなんの関係もない。逆にヒトラーは甥をひどく嫌っていたそうです。

ここまできたらウィリーのその後の人生も気になりますね。

 

アメリカ海軍に入隊し、戦場へ

滞米中のその年に第二次大戦が勃発。ウィリーはルーズベルト大統領に手紙を書き、米軍への入隊を懇願します。FBIも彼の身元を調べあげ、問題なしということで1944年海軍に入隊。衛生兵 (combat medic)として勤務します。

志願兵事務所を訪れた際の、繰り返し語られるエピソードがあります。

ウィリーが自己紹介をすると、担当官はヒトラーという名前をジョークだと思ってこう返したということです。

"Glad to see you Hitler. My name's Hess."(お会いできて光栄です、ヒトラーさん。私はヘスです)

https://www.warhistoryonline.com/wp-content/uploads/2016/07/Patrick-Hitler.jpg

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1947年除隊。戦闘中の負傷により「名誉戦傷章」を受章したそうです。このあとウィリーは改名します。ヒトラーという姓を捨て、その後スチュアート=ヒューストン(Stuart-Houston)として生きていく。改名により、アメリカの「ヒトラー」はいったん表舞台から姿を消しました。

私は記憶をたどってみるのですが、学生時代ドイツ人の戦争体験者に聞いたことがあるのです。ヒトラーの親戚ってまだどこかにいるんでしょうか?

すると

ードイツやオーストリア、それからアメリカにもいるよ。でも名前を変えたって聞いたけどな。

ドイツ人はいろいろな情報源から何かしら知っているんだなと思ったものです。

ここでジャーナリストのイギリス人ガードナー(David Gardner)氏の登場です。1995年ころニューヨーク勤務だったガードナー氏は、「ヒトラーの甥」はどこにいるのだろうと疑問を持ちます。昔の新聞記事や電話帳を頼りに4年かかってついにファミリーの居場所をつきとめ、訪問しました。

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/814SR9A5DZL.jpgガードナー氏の本(2001年)

The Last of the Hitlers: The Story of Adolf Hitler's British Nephew and the Amazing Pact to Make Sure His Genes Die Out Hardcover – December 8, 2001  by David Gardner (Author)

ウィリーは14歳年下のドイツ人の女性と結婚し、四人の息子をもうけ、ニューヨークでひっそりと暮らしていました。姓はスチュアート=ヒューストンですからヒトラーとのつながりなんか全くわからないはずです。子どもたちもどこにでもいるごく普通のアメリカ人として育てられました。近所の人の証言もたくさんあります。

ウィリーは1987年に死去。三男ハワードは特別捜査官でしたが1989年、若くして事故死。こちら↓

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ガードナー氏が訪ねたときは未亡人フィリスと三人の息子たちが健在でした。三人ともも結婚しておらず、「子孫を残さないため」の取り決めがあったという話も…。

ガードナー氏が「50年間で初めての訪問者だった」のですが、その後ファミリーは事あるごとに「ヒトラー」の名前を持ち出す多くの訪問者のせいで、静かな生活は望めなくなりました。お気の毒なことです。放っておいてあげればいいのに。

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(写真:長男アレックス)

出典・参考・写真など:

William Hitler, Nephew of Adolf, Joined the US Navy to Fight The Nazis in WW2

The black sheep of the family? The rise and fall of Hitler's scouse nephew | The Independent 

Long Island - La famille Hitler. Des Américains ordinaires

 

79年前のウィリーの日記がひょっこり

それから10年以上もたった2014年のことです。ドイツ時代にウィリーが書きつけていたポケットサイズの手帳が突然見つかります。リフォームするため壊していた家の屋根裏から。ゴミと埃の堆積物の中から。

http://i.dailymail.co.uk/i/pix/2014/09/20/article-2763514-218622CD00000578-652_634x560.jpg http://i.dailymail.co.uk/i/pix/2014/09/20/article-2763514-218622C900000578-823_634x452.jpg

それはウィリーの母ブリジットが、亡くなる1969年まで住んでいた家でした。

表紙にはドイツ語で「国家社会主義者たちよ!」と書かれていました。中は全部英語らしいですが。興味のある方、下のデイリーメール紙の記事をお読みください。

何かのジョークか下手な小説を読んでいるみたいで、私は正直吹き出しました。

長男のアレックスも、なぜ父はこんなものを残していったのだろうと不思議がります。あんなにヒトラーとのリンクを消し去ろうと躍起だったはずなのに。

しかし私はちょっと疑問を感じています。たとえば長男アレックスですが、本当の名前は Alexander Adolf というのです。わざわざAdolf とつけるなんて。

さらに姓の方も気になります。"Stuart-Houston"?あれ、どこかで聞いたような…。

そうです、ヒューストン・ステュアート・チェンバレン(Houston Stewart Chamberlain 1855- 1927年)を連想してしまいます。人種的反ユダヤ主義の教祖様のような人で、著書は当時のヨーロッパで広く読まれ、ヒトラーにも多大な影響を与えました。ヴィルヘルム2世にも招待され、宮廷に泊まったこともあるという人です。ドイツ大好きでドイツ語に堪能でドイツに帰化しました。

兄はかの高名な日本研究家のバジル・ホール・チェンバレンで、東京帝国大学文学部で教鞭をとり、こちらも長く日本で暮らしました。評価は分かれるにせよ、俳句を最初に翻訳した人でもあります。

出典・参考・写真:

Found: The REAL Hitler diaries which astonishingly reveal how the Fuhrer's British-born nephew William Hitler went to Berlin to cash in on his connections - only to end up fighting the Nazis | Daily Mail Online

 

カズオ・イシグロ『日の名残り』信頼できない語りに身を任せて&イシグロin白熱教室・慶應大学

ノーベル文学賞2017

つい最近また『日の名残り』(1989年)を読んでしみじみ凄い作家だと思っていたので、ノーベル文学賞の発表を聞いたときは「よい人選をしてくれたな」と嬉しかったのですが、でもこんなに早く?と思ったのも本当です。まだお若いイシグロ氏。私と同世代です。

f:id:cenecio:20171007145130p:plain2010年9月、娘のナオミさんと。

Naomi Ishiguro and Kazuo Ishiguro, author of Never Let Me Go (Tom Sandler/Globe and Mail/TOM SANDLER FOR THE GLOBE AND MAIL) Vanity Fair party - The Globe and Mail

 

なぜ『日の名残り』を読んでいたかというと、私は『ダンケルク』を契機にずっと第二次大戦のことを書いています。前回ブログで、イギリスに対しては「ヒトラーの片思い」だったのでは、と書きました。

核シェルターと防空壕 &ヒトラーはイギリス贔屓(びいき)か - ベルギーの密かな愉しみ

フランスが降伏し、ヨーロッパ大陸を支配したヒトラーは、本音はイギリスとは戦いたくなく、連携または黙認を望んでいました。『日の名残り』の中には、このドイツの親英の逆バージョンともいうべき、イギリスの親ドイツの世情が描かれているからです。「歴史がこの屋根の下で作られるかもしれない」…ダーリントン卿に仕える執事にそう言わせるほど、ヒトラーが送りこんだ駐英大使リッベントロップはじめ、英国内外の要人が数多く登場します。英国内の対独協力者やファシスト連盟などの重要人物たちです。今回読み返して一つ一つチェックして、「あら、あなたもいたのね」などと楽しんでおりました。

しかし、急いで付け加えなければならない。この小説ではそうした史実は重要な要素ではない。これは有能な老執事スティーブンスが暇をもらい、車で英国の田舎を旅するのですが、そのかんにこれまでの数十年の人生を省察する話です。

 

あるべき執事像を追求し、「品格」について常に考えているスティーブンス。彼の語りで、そしてあくまで彼の記憶や印象、彼の視点を通して回想は進行します。

さあどうぞ、お付き合いしますよ、という気持ちで読者はゆったりと身を任せるようにして読み進みます。が、なんだかおかしいんです。記憶が曖昧なのか意図的にぼかしているのか、どうも話題を避けたいようだ…変だなと思い始めます。いぶかしく思っていると、内容もいつのまにか変わっていたり、言い訳を始めたり…で一貫しません。

信頼できない語り手」( unreliable narrator)なんですね。ははあ、なるほど…と、予備知識なく読み始めた読者は今度はそれらすべてを受け入れ、おもしろがりながら、自分なりに話を修正してまとめようと試みます。この過程がとても刺激的でおもしろいと個人的には思っています。最終的には事実を再構築できますから。時間が充分に取れる読書でしか味わえない醍醐味でしょう。

記憶とはそもそも信用できないものです。自分の記憶も人の記憶も。都合の悪いことは忘れたり書き換えたリしています。ゆがめたり誇張したりもします。自分(=私)のことを振り返ると、受け入れたくない過去は逃げるか捻じ曲げようとしていることが多いです。

執事スティーブンスの旅の目的には、ダーリントン卿の屋敷を去って結婚した女中頭ミス・ケントンに会うことも含まれています。

ティーブンスにはこの20年、いつも鮮明に思い出される一葉の写真のような光景がある。自分が廊下に立っていて、前にはミス・ケントンの閉じたドアがあり、ノックしたものかどうか決断しかねている。ドアの向こう側でミス・ケントンが泣いている。そのとき自分が抱いた名状しがたい感情の渦は、しっかりと脳裏に刻み込まれているのだが、前後の状況を自分で思い出せないでいる。(p303~。*1)

イシグロ氏は小説のなかで、記憶というツールの複層的な性質、流れる時間だけでなく、切り取られた光景などいろいろな使い方を見せてくれるマジシャンです。記憶は手段にも素材にもなって、見事な手さばきに読者はワクワクします。(イシグロ氏はよくプルーストの記憶の扱いについて語っています)。

NHKの「白熱教室(*2)」で、自分が過去を記憶するやり方は少し特殊なのではないかと言っていました。切り取られた絵のような写真がまずあって、その前後に記憶が広がる。それは映像にしたらはっきりしすぎるので、ぼんやりと曖昧なもの過去の感触のようなものを描くのに、小説は最適であると話していました。

 

執事スティーブンスはダーリントン卿を盲目的に慕い、崇め、屋敷の小さな世界だけで生きてきた、世間知らずの人間でした。旅の途上、村人と触れ合ったり、ミス・ケントンと再会することで少しずつ考えを変え、また深めていきます。自分を見つめなおし、「真実」(わかってはいたのだが、認めたくなかったこと)と向き合うとき、もはや「信頼できない」語り手ではなく、誠実な人間として立ち現れます。

ティーブンスは自分の人生を総括したあと号泣します。読者である私はミス・ケントンとの再会シーンでもう涙ぐんでいるのですが、ここにきてもうたまらなくなり、やはり号泣します。ああ、なんと今頃気づいた!ロマンスの話でもあったのに私は愚かだったな、という嘆きも含めて。

執事がなにかのメタファー(*3)だとしたら…なんと悲しい話だろう。そう思ってちょっとイシグロ氏を恨みたい気分になります。自分も執事だったと思うのです。

でもこれから読まれる方、ご安心ください。最後まで読めばわかります。最後はニッコリしていただけます。

こんなに心を揺さぶられるのに、声高なところは微塵もなく、静謐でユーモアも交えつつ淡々と語られる文章ー イシグロ氏ご自身のようで、そこも気にいっています。

ユーモアは執事の性格から醸し出されるのですが、小説の随所にたくさん織り込まれています。そのたびに読者はクスっと笑い、心の中でツッコミを入れながら読みすすめる。あとで思い出しても可笑しい。再読すると一度目では気づかなかったところが見つかり、著者の目くばせを感じ、うなづいてしまいます。イシグロさん、やはり只者ではないですね。

 

(註)

*1:『日の名残り』 (ハヤカワepi文庫)  – 2001/5/1
カズオ イシグロ (著), Kazuo Ishiguro (原著), 土屋 政雄 (翻訳)

*2: 再放送:2015年のNHKカズオ・イシグロ 文学白熱教室」明日夜再放送

【放送予定】10月8日(日)[Eテレ]後11:00

ノーベル文学賞の受賞が決定した、ベストセラー作家カズオ・イシグロ。自作をひもときながら、学生たちに文学の神髄を語った「白熱教室」を特別アンコール。

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【ノーベル文学賞受賞決定!】カズオ・イシグロ 文学白熱教室 再放送! カズオ・イシグロ 文学白熱教室 |NHK_PR|NHKオンライン

*3:大きなメタファー(比喩)については「白熱教室」で熱く語っています。ぜひこちらで。(youtubeでも見られます)

 

カズオ・イシグロ氏の講演会 (慶應大学

2015年6月カズオ・イシグロ氏は、10年ぶりに出版される長編小説 “The Buried Giant”(日本語訳:『忘れられた巨人』)のプロモーションのため来日しました。

NHKの「白熱教室」出演や出版社でのイベントなどのほか、慶応大学で講演(正確にはオープンインタビュー)がありました。なんと申し込みもいらず、無料だったので息子を誘って行きました。

大学の文学部創設125年記念行事の一環ということですが、英文学の教授たちと古くから親交があるようでした。河内恵子教授が聞き手となって、インタビューは英語で行われました。

Faculty of Letters 125th Anniversary Commemorative Event: “Kazuo Ishiguro Talks” 「カズオ・イシグロが語る」 - YouTube

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写真:ニュース:[慶應義塾]

2015年6月5日(金) 15時30分~17時 なので、息子は会社を早退しました。「イシグロさん、見にいってきます」と言って。

話したいことはたくさんありますが、私が最も興味を持ったのは、ケント大学で英文学や哲学を専攻した後、イースト・アングリア大学(University of East Anglia)で文芸創作のクラスを受講し、そこでメンター(mentor)ともいうべきアンジェラ・カーター (Angela Carter1940 - 1992)と知り合ったこと。創作の修業ともいえるようなすごいエピソードだらけなんです。またいつか、別の機会に。

http://www.angelacarter.hmg-g.com/img012.jpghttp://www.angelacarter.hmg-g.com/index.html

アンジェラ・カーターは日本に住んでいたことがあります。

 

おまけ

🌸英ガーディアン紙の記事を添付しておきます。

https://i.guim.co.uk/img/media/9f018efbbf52667d1a2511d85e18f9498c51734d/0_18_4740_2844/master/4740.jpg?w=620&q=55&auto=format&usm=12&fit=max&s=9216ee3e417db0ab5b3d312efb5b7675

www.theguardian.com

メモ:

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Kazuo Ishiguro, le Japon et le rôle de la mémoire | nippon.com - Infos Japon

核シェルターと防空壕 &ヒトラーはイギリス贔屓(びいき)か -5-

核シェルター

朝の情報番組で、家庭用の 核シェルターの注文が相次ぐという話題をやっていました。

下の写真はアメリカの会社の製品だそうで、壁に銃が飾ってあるのを見てもわかります(笑)。新築物件用や個人用など様々なタイプがあるようです。

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核シェルター、日本からの注文「勢い止まらない」:朝日新聞デジタル

6人用のがおよそ1100万円らしい。お金持ちしか生き残れない?

いえいえ扇動されてはなりません。危機をことさらに煽り、勇ましいことばかり言う大統領のもとで、笑いが止まらないのはアメリカの軍需企業でしょう。株価が急上昇です。

また、核シェルター先進国のスイスの例も紹介されていました。冷戦時代の1963年(キューバ危機後)に、「全国民に核シェルターを」というスローガンのもと、核攻撃に備えて公共の建物の地下に核シェルター設置を義務づける連邦法が制定されたということです。現在はもう義務というわけではありませんが、すでに国民の114%を収容できる設備が地下空間にあると言っていました。

スイス式の個人用シェルターを扱う会社が神戸にあるそうですね。

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Bunkers for all - SWI swissinfo.ch

 

ちょっと寄り道して防空壕も見てみましょう。子どものころ雑誌で見た写真で、お気に入りがあって、画像検索で探してみると簡単に出てきました。

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c. 1943A South London resident waters the vegetables planted on the roof of her Anderson shelter.IMAGE: FOX PHOTOS/GETTY IMAGES

How families lived in their WWII backyard bomb bunkers

これです、アンダーソン式シェルター!(アンダーソンは当時の内務大臣の名前)

場所は戦時下のロンドン。1940年9月から約8カ月、市街地にドイツ軍による大規模な空襲がありました。

この防空壕の仕組みは簡単、掘った穴に波形アーチ状トタン板を二つ向かい合わせに入れ、前後に板を立てて上に土を盛ります。かなり頑丈だったことが爆撃後の写真などで証明されています。

年収250ポンド以下の家庭には無償提供されたのですが、都市部は庭が少なく、道路も舗装されていたため、まず設置場所を探すのが大変だったそうです。

それにしてもロンドン市民は何かしら楽しみを見つけようとしていますね。

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1940 An elaborately decorated Anderson shelter. IMAGE: WATFORD/MIRRORPIX/CORBIS 

 

 

ヒトラーはイギリス贔屓だったか

先日「フランス人は平和主義ですか」というコメントにお答えしました。

今回はヒトラーのイギリスへの思いについて。といっても私がこれまでの読書などで得た印象が中心になるのであくまでも私の意見です。

ナチス時代を振りかえる-1-『我が闘争』がベストセラー・膝まづくヒトラー - ベルギーの密かな愉しみ

ヒトラーが守りたかったユダヤ人 ナチス時代を振りかえる-2- - ベルギーの密かな愉しみ

以前2回扱った『我が闘争』の中の分類では

  1.文化創造者(アーリア人種)

  2.文化支持者(その他の人種、日本人も)

  3.文化破壊者(ユダヤ人)

イギリス人は1番目に入り、人種的にドイツ人ゲルマン系と同じです。 

またイギリスは当時多くの植民地を持つ世界帝国であり、強国を目指すナチスヒトラーにとってひとまずモデルのような存在だったのではないかと思います。確かに第一次大戦以前は世界は「パックス・ブリタニカ」とまで言われ、イギリスを頂点にした秩序がありました。

ヒトラーは政権を握ると1933年からすさまじい早さで、屈辱だったヴェルサイユ体制の打破と、近隣諸国への勢力拡大にまい進します。

国際連盟脱退1933年

・ザールラント1934年

再軍備宣言1935年

イギリスはなぜ何も言わないんでしょうか。それどころか同じ年に英独海軍協定(イギリスの35%の海軍保有を認める)を結びます。

ラインラント進駐1936年:生涯最大の賭けだったとヒトラーが告白。イギリスからどんな阻止行動も受けなかったため、大陸制覇を承認したとヒトラーは早とちり。

1936年腹心のリッベントロップを新たに駐英大使としてイギリスに送るが、交渉は失敗に終わる。(1938年外相になったリッベントロップは、今度はイギリスを牽制するために日本・イタリアと同盟するようヒトラーに提言した)

・イタリアのエチオピア征服1936年

おまけにスペイン内戦勃発(1936年)ときた。

いったいイギリスはどうしたの?という感じです。実際は悲惨を極めた前大戦で疲弊しきっていたのですね。

オーストリア併合とズデーテンラント(チェコのドイツ人居住地区)併合1938年

このあとチェンバレン首相が出てきてミュンヘン協定が結ばれます。戦争の危機に怯えたヨーロッパじゅうの人々が胸をなでおろした瞬間でした。しかしナチスドイツはすぐにチェコへ進駐し、一国を地図上から消し去ります。

イギリスではこの辺から「三度の飯より戦争が好き」なチャーチルが登場です。

そのあとポーランド侵攻で世界大戦に発展してしまうわけですが、ヒトラーにとっては「ドイツとポーランド二国間の問題」なのに何故イギリスが宣戦するのか理解できなかったそうです。

その後の流れは前のブログでも扱ったとおり。大陸に派遣された英軍はダンケルクから撤退。フランスも占領され降伏したので、イギリスはもう孤立無援です。

そこでヒトラーはイギリスに対し、和平を提案します。イギリスと徹底的に交戦する気はなかったのです。しかしチャーチルはこれをはねつけ、国民も団結して戦う意思を見せるー このことはヒトラーを大変に驚かせます。イギリスは圧倒的に不利な状況なのにおかしいな、と。結局ヒトラーはイギリスに片思いしていたようなものです。イギリス国民の気持ちもまるで理解できませんでした。

 

ヒトラーにイギリスの親戚がいたことは関係あるでしょうか。たぶんそれはないと思います。詳しくは次回で。

図からわかるようにヒトラーには異母兄弟アロイスがいて、この人はイギリスで結婚し、男児Willyが生まれます。アロイスはのちに母子を捨ててドイツに移住し、結婚(重婚!)して家庭を構える困った人です。

http://i.dailymail.co.uk/i/pix/2014/09/20/article-2763514-218622BE00000578-308_634x710.jpg

http://www.dailymail.co.uk/news/article-2763514/Found-The-REAL-Hitler-diaries-astonishingly-reveal-Fuhrers-British-born-nephew-William-Hitler-went-Berlin-cash-connections-end-fighting-Nazis.html

ヒトラーの母クララは、実はヒトラーの父アロイスの姪に当たる。

上記の図は簡略化されていますが、本当の家系図はけっこう複雑です。

次回はWillyの話などを書きますね。

 

🌸みなさんのコメントでよく膝をたたくんですが、宮崎駿ラピュタ、ご指摘のとおりですね!

yokobentaro

 (略)それと終戦直後に乗り捨てられた車の森が、まるで宮崎駿のアニメに出てきそうな風景みたいで目を瞠りました!!! 

 bg4kids

 車の墓場、文明を自然が侵食する姿はラピュタのような幻想的な雰囲気がありますね。人類が滅びると、地球全体がこうなってしまうんだろうな。 

 

またこちらのss-vtさまは、菊月保存会の方と面識もあるそうで、大変興味深いです。お話を聞きたいくらいです。

ss-vt 

 菊月は第23駆逐隊所属。20番台は佐世保鎮守府籍を表しています/いくつかの艦これ同人誌即売会で菊月保存会の「20歳の青年」と顔を合わせ話もした 

みなさま、いつもありがとうございます。 

Uボート沈没理由は機雷 &駆逐艦「菊月」&シュールな車の墓場 -4-

みなさま、こんにちは。

言い訳から始まりますが、前回パソコンの調子が悪くて途中で諦めてUPしてしまいました。PC、買い替えるかな、どうしようかな…と思案中。今日も相棒DELLさまのご機嫌を伺いながらやっています。初めて読まれる方、前回(9月30日)の続きになっています。

 

Uボートの調査は続行中

第一次大戦Uボートが沈んでいる場所は、ダンケルクの近く、赤い印の沖です。でもフランダース政府は場所は絶対秘密にしたい。お宝ハンターや部品を盗んで売りさばく輩に荒らされたくないからです。

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これまでもイギリスやオランダの沈没船は数多く、こうした盗難と破壊の被害に遭ってきましたから。

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f:id:cenecio:20171002131351p:plain機雷

Duitse duikboot uit Eerste Wereldoorlog gevonden voor Belgische kust

Uボートの沈没の理由は機雷に当たったことらしい。写真は2枚ともオランダ語の歴史サイトから借りています。私は機雷を直に見た事がないのですが、みなさんはどうですか。あんなトゲトゲがついているんですね。

アメリカ軍が行った日本周辺の機雷封鎖作戦「飢餓作戦」については少し読んだことがあります。詳しくはウィキペディアで。 飢餓作戦 - Wikipedia

Uボートの件、続報が出たらまた書きますね。

 

駆逐艦「菊月」の砲身 舞鶴

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Getty Images

南太平洋のソロモン諸島のきれいな海に横たわる駆逐艦菊月

さすがGetty Images、美しい写真です。錆びて朽ちたところから植物が生え、水中はさだめし魚たちのお宿でしょう。戦争の虚しさをつくづく感じます。

去年も記事を書きました。

cenecio.hatenablog.com

この菊月を引き揚げて修復保存するべく、「菊月保存会」なるものが結成され、クラウドファンディングで資金調達を開始したのでした。そのときは引き揚げなんて無理でしょうと思っていましたが。

菊月は1926(大正15)年、大正時代最後の駆逐艦としてに舞鶴海軍工廠(こうしょう)で作られました。所属は佐世保鎮守府だそうで、舞鶴で進水しましたが、1942(昭和17)年米軍の攻撃を受け、南太平洋で沈没。座礁したまま放棄されます。

その後、錨やスクリューなど運びやすいものはほとんど盗まれてしまい、重く動かしにくいものしか残っていなかったそうです。

そこで保存会は長さ5・6メートル、重さ3トン主砲の砲身を引き揚げることにし、ソロモン諸島政府から許可をもらいます。

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https://trafficnews.jp/post/52235/

 そして9月5日、砲身は日本へ「帰国」を果たしました。

こういう活動をするのは年輩の方かと思っていたら、千葉県在住の20歳の青年であるらしく、祖父が特攻隊員だったそうです。2015年に現地訪問し、菊月の一部でもいいから故郷に帰し、保存して戦争を伝える資料にしてほしいと思ったということです。

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旧海軍駆逐艦の砲身、若者ら引き揚げ 京都・舞鶴で展示目指す : 京都新聞

 

 アルデンヌの森 シュールな車の墓場

「アルデンヌ」という言葉、私のブログにはもう何度も出てきましたね。フランス・ベルギー・ルクセンブルクにまたがる森林地帯です。

先ほどの残骸・廃墟つながりでいくと、私はアルデンヌと聞いて車の墓場をすぐに思い出します。それほどショッキングだったんです、初めて写真と映像を見たときは。

 

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The Belgian Forest Graveyard

この場所はシャティヨンという村の近くで、500台を超える自動車が200~300mくらいの列を作って打ち捨てられています。第二次大戦のときやって来た米兵の車ですが、戦後帰国の際、車の運送費は個人持ちと言われたので、やむなくこの森に車を隠していったのです。この辺はめったに人の来ないところで、最初に見つけたのは村の子どもたちだったといいます。

ところがベルギーのTV局が来てルポをして以来、ここを訪れる人が急増したために、事件や事故を懸念してか村長は撤去を決断します。2010年ころらしいです。

ですから車の墓場はもう存在しないのです。

しかし多くの人が写真を残してくれているおかげで、私たちはネット上で「墓場」見学ができます。自然の作り出す思いがけない効果が美しく、新鮮に驚いてしまいます。苔の緑(日本人ならみんな好き)や錆の茶系統のグラデーションが見事です。季節ごとに植物や蔓や落ち葉などが絵を描いたでしょう。現代アート作品のようです。車を正面からみると、悲し気な虚ろな顔をしていて、胸ふさがれる思いもします。

いかがでしたか。

シュールレアリスムの国ベルギーらしい光景といえるかもしれませんね。

 

次回はまた質問に答えます。

ヒトラーはイギリス贔屓だったか」。

人生80年、戦争はごめん‼ 第一次大戦のUボート、ベルギー沖で発見 -3-

人生80年と言われます。

その間に戦争などなく、ミサイルも飛んで来ず、飛行機からの落下物に当たることもなく、まあまあ健康で暮らせて、ある日自宅でポックリ逝く…っていうのが理想です。はて、どうなるでしょうか。昨今の情勢はかなり不安ですが。

「80年」の話から始めたわけは、前に「フランス人は平和主義者ですか」というコメントをいただいたので、ちょっと補足したいと思います。(私がフランス人の言ったことばを引用してそのように書いたもので)。

 

「平和主義」=「戦争はもうまっぴら」

フランス人の知り合いのお年寄りは皆口々に言います。「酷い時代だった。あいつらのせいさ」「戦争なんか、フランスもイギリスもしたくなかったんだよ。だけどまたボッシュ(ドイツ人の蔑称)がおっぱじめたもんだから」

あの「大戦争 (Great War)」と呼ばれた第一次大戦が、かつてない規模の悲惨なものだったから、戦争なんかもう絶対イヤという国民感情だったでしょう。

やっと1918年11月の第一次世界大戦休戦条約をもって戦争は終わり、ヨーロッパの人々は平和を享受していました。でもその平和も20年しか続かなかった。

「ま、平和ボケと言われてもしかたないけどね。フランスじゃあ軍備なんかまるで考えていなかったよ」「ポーランドと同盟を結んでいたから仕方なく宣戦布告」(事実上はポーランドを見殺しでしたが)。

 

それまでは英仏はドイツに対して宥和政策をとっていました。このことがヒトラーの自信を深めさせ、悲惨な戦争への道を切り開いてしまったと言われています。あとになっての非難や反省は簡単ですが、なんとか戦争は避けたい、多少の妥協はしてもよい、フランスが軍備増強などしたらかえってドイツを刺激するのではないか、経済的にも人口問題(*註)を考えても戦争は避けるべきだー そのように考えていたんですね。

アンドレ・モーロワ(André Maurois、1885- 1967)は数多くの評伝や『英国史』『フランス史』など歴史書を著して、かつてはよく読まれたフランス人作家・歴史家ですが、この人は英語に非常に堪能で、第一次大戦にはイギリス側との英語通訳官として出征しました。

第二次大戦でもドイツのフランス侵攻(1940年)のとき、やはり通訳官としてイギリス大陸派遣軍の本部(ベルギー)にいて、ドイツ軍の電撃戦と英仏軍の敗れるさまを目の当たりにしました。そして驚いたことに、ニュース速報的な早さでフランス軍崩壊の分析を一冊の本にまとめて出版します。ただしアメリカで、したがって英語で。(ユダヤ人だったのでアメリカに亡命。モーロワはペンネーム、本名はヘルツォークといった)。

こちらの本です。

"Tragedy in France"  Harper & Brothers: new York; 7th Edition. edition (1940)
するとその一か月後にはもう邦訳が出ます。

http://cache.cart-imgs.fc2.com/user_img/someya/0621b8a71a85d63fdc97acaff60b26fe.jpghttp://someya.cart.fc2.com/ca160/8004/p-r160-s/

 

『フランス敗れたり』 (高野弥一郎訳 大観堂。現在新しい版がある)

(ウェッジのサイトより引用)

昭和15年に刊行された邦訳は、3ヶ月後には実に200版と版を重ねる記録的な大ベストセラーになりました。

ドイツがわずか6週間でフランス全土を打倒し、全ヨーロッパはヒトラーの前にひれ伏しました。この出来事は当時の日本人に大きな衝撃を与え、日本は日独伊三国同盟の調印に踏み切り、太平洋戦争へと突入することになります。…フランス敗れたり アンドレ・モーロワ 著/高野彌一郎 訳 WEDGE Infinity(ウェッジ)

(太字は私)

 

チャーチルの警告

 チャーチルは1935年にはすでに「フランスの軍備強化が急務である」と警告していたそうです。

(モーロワに向かって)

ーいまやフランス空軍を追い越し、ドイツ空軍が世界一になろうとしている。フランスは滅亡するかもしれない。文化や文学も大切だが、強い軍事力を伴わない文化は明日にでも滅びる危険にさらされる。

ー君はもう男女の愛だの野心だのを書いてる場合じゃないだろう。空軍の増強を新聞で訴えるべきだ…云々。

同様にド・ゴールも「マジノ神話」(第一次大戦の英雄ペタン元帥の権威が残っていたため、マジノ要塞に過剰依存する防衛戦略だった)を危険だと批判し、戦車と航空機による機動戦略の必要性をとなえていました。多量の戦車生産を強く主張しましたが、受け入れられることはありませんでした。

 

80年の人生

ちょっとここで、1870年生まれのフランス人の人生を想像してみましょうか。なぜ1870年かといえば普仏戦争の起きた年だから。そして計算しやすいので。

80歳まで生きるとすると1950年に亡くなります。普仏戦争のあと戦争は、世界大戦が第一次、第二次とある。つまりその人の人生80年は母国が常にドイツと戦争状態なのです。フランス人がドイツのことをあしざまに言う気持ちもわかりますね。

でもその反省から今のEUがあるわけで、イギリスは抜けてしまいましたが、仏独はこれからも牽引役として協力して進んでいくでしょう。(先日のドイツの選挙結果で、不安が全くないわけでもありませんが)。

http://www.historyplace.com/worldwar2/defeat/attack-france-panzers.jpg

写真上下ともThe History Place - Defeat of Hitler: Attack on France

http://www.historyplace.com/worldwar2/defeat/attack-france-infantry.jpg

(1940年5月、ベルギー、アルデンヌの森をぬけて西へと進むドイツ軍。この森林地帯は古くから自然の要塞と言われていたから、私は今でも、あんな鬱蒼とした森をドイツ装甲部隊が切り拓いていった様子をなかなか想像ができない。)

 

*註:人口の問題

フランスはナポレオン時代以降、人口が急速に減っていきました。ナポレオン戦争が青年、壮年男子の命を奪っただけでなく、妊娠率の低下や子供に高い教育を受けさせるために子の数を少なくしようという傾向もあったようです。その後は離婚や妊娠中絶が増えることで出生率はますます下がります。

そして第一次大戦が始まった1914年を見てみると フランスの人口は約3900万人。

ドイツ約6500万、イギリス約4600万、と比べて明らかに少ない。(1914年日本は約5200万人だった)。そのことは兵士の数にはねかえってくるわけで、人命の損失を防ぐためにもあのマジノ要塞に頼らざるをえなかったのです。

〈人生80年、ここまで〉

 

 第一次大戦の沈没Uボート、ベルギー沖で発見

つい2週間前のニュースです。海洋考古学者でアマチュアダイバーでもある人が、オステンデの沖、水深25~30メートルのところで見つけました。

自分でカメラをまわし、スケッチをしたようですが、もっと調査を進めるには助手が必要だということです。Uボートは端のほうが一部破損しているが、そのほかは保存状態は極めて良好だそうです。

http://1.standaardcdn.be/Assets/Images_Upload/2017/09/19/duikboot2.jpg

・長さ27×幅6メートル。

・UB-27, UB-29, UB-32 このいずれか。

・乗組員23人は中にいる。

f:id:cenecio:20170930165757p:plain

これを読みたいと思ったのですが定期購読者限定でした。残念!

Duitse duikboot uit WO I gevonden in Noordzee, lichamen moge... - De Standaard

 

潜水艦の中って…悪夢です!

こちらのサイトへどうぞ。

mashable.com

 

続き

cenecio.hatenablog.com

 追記:

www.afpbb.com

映画『ダンケルク』父親が息子たちを家に連れ帰る物語-2- 追記:2018年2月20日 

(前回9月25日の記事の続き)

cenecio.hatenablog.com

 

『鳥』+『恐怖の報酬』?

ダンケルクの撤退作戦では、戦闘機や大小の船舶がそれぞれ100機、100隻をくだらない数集結していたはずです。それを映画にするってどうやるの?と私は素朴に思っていました。しかもCGなど一切使わないという。予算は低めだという。でも戦闘機は飛び、当時の本物の船も登場するという。さらに実際の撤退作戦が行われた5月27日から6月4日に合わせて、ダンケルクの海岸で撮影するというのです。そこまでこだわるのかと唖然としながら、情報を追っていました。まずいことにパリとベルギー(2016年3月)の連続テロもありました。

http://www.lepoint.fr/images/2017/07/19/9488455lpw-9548988-article-bodega-bay-jpg_4446647_980x426.jpg

http://www.lepoint.fr/images/2017/07/19/9488455lpw-9548988-article-bodega-bay-jpg_4446647_980x426.jpg

しかし制作チームは予定通りフランス入りし、ダンケルク(一部アムステルダムのアイセル湖で。これはもと海だったのをせき止めて湖にした。ムーンストーン号のシーンはここで撮った)で町の人々の協力を得ながら撮影に臨みました。

そしていち早く映画を見たフランス人の感想の中にこのようなものがありました。

ヒッチコックの『鳥』とクルーゾー『恐怖の報酬』を混ぜた感じ。」

おや、戦争映画じゃなくてどうやらサスペンス映画のようだ。そして私はノーラン監督の作品といえば"Memento (2000) "しか知らないのですが、これは三回見ました。そういえばMemento もサスペンスかな。(いずれ記事にするかも)

このあたりで映画がとっても楽しみになってきました。血の出る戦闘シーンが多い映画は苦手なので戦争映画はできればパスしたいと思っていたのです。戦争を扱いながらいわゆる戦争映画じゃないらしい。う~ん?

 

アイディアに脱帽

映画は三つの視点からこの作戦を描きます。

1. The Mole: One Week 防波堤:一週間

2. The sea: One Day 海:一日

3. The Air: One Hour 空:一時間

上の文言はスクリーン上に現れるものです。それぞれ一週間、一日、一時間と時間の長さが違うのがおもしろいです。

1の陸では40万人もの兵士たちが救出を待つ列を作っている。船に乗り込めてもドイツ空軍の爆撃に遭ったり、燃油まみれになって泳いだり、また陸に戻って乗れる船を探したり、と過酷なサバイバルが次々に淡々と描かれる。この一週間をまとまりごとに細かく分けてトランプの一枚一枚のカードを作ったと思ってください。

2の海では、小型船の船長ミスター・ドーソンを中心に展開します。前回述べたようにイギリス海軍は民間の船を徴用するのですが、彼はこれに応じて息子とその友人とダンケルクに向かいます(下に写真あり)。様々なエピソードがあり、それらも一枚ずつカードにします。

3の空は、戦闘機スピットファイア3機とパイロットの話です。撤退作戦を支援するべく、陸と海上の様子を見ながら、ドイツ側と交戦する。空中戦が迫力です。この空での出来事も細切れにしてカードを作ります。

映画全体はこれらのカードを、時系列は守りつつ、シャッフルしたような構成で差し出されます。それが独特のサスペンスを生み出します。観客は完全に戦場に連れていかれた気分です。ずぶ濡れで惨めな気持ちになったり、コックピットの中で頭がクラクラしたり、爆発音で耳を塞いだり…戦場の恐怖をたっぷりと体感させられるのです。敵のドイツ兵がほぼ出てこないのもおもしろいと思いました。敵は時間でしょうか。

とにかくサバイバルして国に帰る。若者を国に連れ帰る。この一点に集中です。国民が官民一丸となって成功させた史実を三つの視点からうまくまとめていると思いました。

心をひとつにして困難を克服する精神を「ダンケルク・スピリット」と呼ぶことは、今回初めて知りました。フランス人にとっては「負け戦」でも、イギリス人にとってダンケルクは栄光の地なのですね。

他にも音楽などいろいろありますが、SPYBOYさまがよいレビューを書いていらっしゃいますのでこちらでどうぞ。

『#お前が国難』と映画『ダンケルク』 - 特別な1日(Una Giornata Particolare)

 

父親が息子たちを家に連れ帰る物語

そう言ってもいいかもしれません。

ダンケルクの砂浜にたつ、この子どもみたいな顔をした若者、彼が主人公というわけではない。兵士たちの中心に置かれてはいるが、彼の内面や感情は一切描かれない。戦争に駆り出された大勢のなかの一兵士にすぎない。この映画は主役もいなければ、ヒーローも出てこないのです。

ノーラン監督はヒーロー映画を作る気はさらさらなかった。彼の祖父は英空軍で、フランス・リールで戦死したそうです。初めて史実をもとに映画を制作するにあたって葛藤も多かったことでしょう。

http://www.asahicom.jp/and_M/articles/images/AS20170710001026_comm.jpg

今この若者が考えていることは生き延びてイギリス(home)に帰ることだけ。

一人目の父親はさしずめチャーチル首相でしょうか。兵士たちに「戦え」ではなく「退却しろ」と言うのです。父チャーチルは、悪い結果になるかもしれないと悲観した時期もあったようですが、33万人あまりの兵士たちを撤退させることに成功します。

この「奇跡」をお膳立てした偶然のひとつに、それまでの快進撃をなぜか止めたドイツ軍であることも皮肉で興味深い史実です。(理由は一番下に)。

また忘れてならないのは撤退の援護に当たった兵士で命を落とした者は少なくないこと、またダンケルク近くのカレー(Calais)の港にいたイギリス・フランス兵はというと、ドイツ軍をひきつけておくために救出されませんでした。何とも非情です。

ともあれイギリスに渡った兵士たちはその後再びあちこちの戦場に送られていきました。なにせ戦争は始まったばかり。何年かあとノルマンディー上陸作戦をきっかけに、連合軍は勝利をおさめる…そのことを私たちは歴史で知っていますが、今ここにいる誰もそのことはわかりません。

https://i.guim.co.uk/img/media/e4bc2e9ca50992effb1c4f7d35a3a8b313550469/0_113_5977_3587/master/5977.jpg?w=620&q=55&auto=format&usm=12&fit=max&s=071587d031788bdb515fb8b8c15f7732

From the film ‘Dunkirk’, 2017. Photograph: Bros/Kobal/REX/Shutterstock

 

二人目の父親は

https://i2.wp.com/theperrynews.com/wp-content/uploads/2017/07/Dunkirk-Mr-Dawson.jpg?resize=696%2C325

Mr. Dawson (Mark Rylance). Courtesy of Warner Bros.

http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/004/936/18/N000/000/013/150536629377943479177_dunkirk-03.jpg

プレジャーボートムーンストーン」号の船長で自ら舵を取り、ドーバー海峡を渡ってダンケルクを目指すミスター・ドーソンでしょう。

この映画はセリフも極力少なく、登場人物の内面は見えませんが、ムーンストーン号のシーンには血の通った感じがあります。次第に謎が溶けていく、というか理解が深まっていくおもしろさがあります。この人がイギリスの父親を代表しているのだと思います。 書きたいことはいろいろあるけど、これから見る人のために書きません。とにかくカッコいい人物設定です。お楽しみに! 〈映画『ダンケルク』はここまで〉

 

再び周辺のことや資料など。

ダンケルク今昔

映画がきっかけとなり、多くのフランス人の関心を呼び覚ましました。

f:id:cenecio:20170927115156p:plain

À Dunkerque, sur la piste des épaves de l'opération Dynamo

⚓当時のダンケルク市民は…

やはり映画がきっかけで市民から当時の写真が多く集まったそうです。(1940年5月か6月)

http://o1.llb.be/image/thumb/59a42a63cd70d65d25a716b6.jpg

Dunkerque, mai-juin 40, côté civil - La Libre

ダンケルク博物館にて

https://kidsindunkerque.files.wordpress.com/2017/07/img_1865-1.jpeg?w=676

kids In Dunkerque | sorties et activités pour les enfants à Dunkerque et ses environs

 

⚓「ダンケルクの奇跡」をお膳立てしてしまったドイツ軍

せっかくあそこまで英仏軍を追い詰めたのになぜ?と思いますね。5月24日、ヒトラーは機甲部隊の前進停止命令を出します。私がかつて読んだりしたことをまとめると

1.ドイツ空軍の最高責任者ゲーリングが「空軍だけでダンケルクの英仏軍を全滅させる」と豪語したので、空軍に花をもたせてやろうとヒトラーが決断したという説。

2.「英軍に多少逃げられるかもしれないが、ドイツの戦車がフランドルの泥にはまりこむのは我慢できない」とヒトラーが言ったという説。(たしかにベルギー・オランダは低地ゆえにぬかるみだらけで、皆が木靴を履いているというステレオタイプな偏見は、驚いたことに今でも残っている)

3.ヒトラーはイギリスと徹底的に戦う気はなかった。本当の決戦相手はソ連だったから兵力温存しようとした説。

他にもありましたら教えていただけると嬉しいです。

追記:撤退最終日(6月4日)に、フランス兵27000人以上を救出しているらしい。ドイツのおかげ(*^^)v

 

ダンケルクからイギリス兵を救出する姉妹のお話

人生はシネマティック!』(”Their Finest” 2016年)

またイギリスはおもしろそうな映画を作っています。戦時中イギリス政府が国民の士気高揚のために作ったプロパガンダ映画製作の話だそうです。

http://eiga.k-img.com/images/movie/86687/photo/373a1b69ff8fea92.jpg?1504576949

人生はシネマティック! : 作品情報 - 映画.com

 

f:id:cenecio:20171114124347p:plain

BBC - Their Finest - BBC Films

clothesinbooks.blogspot.jp

 

🍺スピットファイアというビールもあります。飲んでみたいです。

https://i.pinimg.com/564x/b2/2b/cf/b22bcf606f03c98f0026f0be85e0f222.jpg

ロンドンの地下鉄に貼られていたというポスターだそうで。

 

 🌸参考:過去記事

「フランス人は平和主義か」→

人生80年、戦争はごめん‼ 第一次大戦のUボート、ベルギー沖で発見 -3- - ベルギーの密かな愉しみ

ヒトラーはイギリス贔屓か」→

核シェルターと防空壕 &ヒトラーはイギリス贔屓(びいき)か - ベルギーの密かな愉しみ

 

🌸追記:2018年2月18日 BAFTA(英国アカデミー賞

ダンケルクのオランダ人カメラマン、 Hoyte van Hoytemaも撮影部門でノミネートされた。写真で膝をついている人。

https://www.ad.nl/show/opvallend-veel-nederlanders-in-de-race-voor-een-bafta-vanavond~abde634b/

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受賞者発表

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ダンケルク 兵士40万人の大撤退作戦・「ダンケルク・スピリット」と負け戦 -1-

話題の『ダンケルク』( 映画『ダンケルク』オフィシャルサイト)私も見てまいりました。今日は周辺のことから語りたいと思います。

ダンケルクはベルギー国境に近いフランスの海岸の町です。そこに40万人ともいわれる英仏軍の兵士が追い詰められ、袋のネズミ状態になりました。第二次大戦開始後1940年5月のことです。ドイツ軍の電撃戦により、あっという間に西ヨーロッパの国々は占領されてしまったからですね。

*袋のネズミ:映画の中でドイツ空軍が空から撒いたビラ↓。誰でも状況がわかります(^^)

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そこで兵士たちをドーバー海峡を渡らせ、イギリス本土に撤退させるという一大事業、ダイナモ作戦(Operation Dynamo、1940年5月26日~6月4日)が決行されます。映画は史実を扱ってはいますが、あくまでイギリス側の視点で描かれています。「ダンケルク・スピリット」という言葉があり、イギリスの子どもたちは皆この話を聞いて育つそうですがフランスでは違います。

またいつも「英仏」と言いますが、当然ベルギー人兵士もこの救出作戦には含まれています。手元の資料によると 救出された338 000人のうち、フランス人が123095人、ベルギー人が16816人だったそうです。カナダ人の人数はわかりませんでした。

 

 遠浅の海岸が怖い私

 ダンケルクは行ったことはありませんが、そのすぐ近くのベルギー・フランダース地方の海岸には何度か行きました。週末訪れるのにちょうどよく、日帰りもできる人気の海浜リゾート地です。ダンケルクDunkerqueというフランス名は、 西フラマン語の Duinekerke(Duin=砂丘、kerke=教会から来ており、この辺の地名にはオランダ語起源のものが多い。

*西フラマン語オランダ語の方言。ベルギーでは現在、戦後に統一された標準オランダ語公用語の一つとして使っている。

映画で見てもわかるように、潮が引くと広大な砂浜が広がります。とにかくとてつもなく広い。日本の海辺の風景に馴染んで育った私は、こうした遠浅の砂浜にいると不安にかられるのです。声をだして呼んでも向こうにいる人に届かない。そんな思い出が頭の中に染み付いているからか。まるで砂漠のど真ん中にでもいるような。一面ヒースの茂る荒れ地にひとり置かれたような。

このような遠浅の海岸で、しかも浅瀬も多いところで、救出はどうやるんでしょうか。兵士たちを輸送するのに大型艦は便利ですが、浜には近寄れません。

そこでチャーチルは、小回りのきく駆逐艦や掃海艇などのほか、民間船なども動員したのです。つまり漁船や個人所有のプレジャーボートです。これを集められるだけ集めて、そこにフランスやベルギーの民間船も加わりました。

映画の中で、小さな船の一群が海原の向こうから現れるシーンは胸を打ちますが、あんな小さな船で海峡を渡ってきたのか、そして一般人がドイツ空軍の攻撃に晒されるなんてとんでもない、と私はハラハラしたものです。

https://i.guim.co.uk/img/media/7f08c252f53370c756f44c6c863ddc1f482cb1c6/67_36_5928_3881/master/5928.jpg?w=620&q=55&auto=format&usm=12&fit=max&s=c71cab8bda1ac25eee9494392102be8d

Photograph: MS Gordon/Warner Bros/Kobal/Rex/Shutterstock(映画のシーン:本物のスピットファイアMk.Iが2機、Mk.Vが1機飛んでいる。ムーンストーン号でダンケルクに向かう3人。)

 実際にこの救出作戦に参加した船は合わせて約850隻(民間船370)ということです。

映画のためにノーラン監督は、9つの国から数十隻の船を集めたそうで、フランスの駆逐艦マイレ=ブレゼが博物館を離れたことは、フランスでは大ニュースで新聞にも載りました。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0e/Nantes_-_Maille_Breze_%281%29.jpg/800px-Nantes_-_Maille_Breze_%281%29.jpg

File:Nantes - Maille Breze (1).jpg - Wikimedia Commons(全長100mの駆逐艦マイレ=ブレゼ。ナントの博物館の展示物だが、エンジンがないので曳航されて映画にお目見えした。船は動けないので兵士たちがずらりと並ぶシーンで使われ壮観だった)

 

実際のダンケルク 写真を見てみましょう。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/88/Dunkirk_26-29_May_1940_NYP68075.jpg 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/88/Dunkirk_26-29_May_1940_NYP68075.jpg

(1940年5月26~29日)

 ②

f:id:cenecio:20170920124231p:plain

http://www.iwm.org.uk/collections/item/object/205086989

https://static.iris.net.co/semana/upload/images/2017/8/11/536124_1.jpg

Dunkerque: la verdadera historia

 ④

.https://i.guim.co.uk/img/media/131832b778989ce0e600ac73700507907af38668/0_0_2461_1666/master/2461.jpg?w=620&q=55&auto=format&usm=12&fit=max&s=6f8a7007671110b82933e0a4b67d0f87

Manchester Guardian, 3 June 1940.

Dunkirk: how the Guardian reported the evacuation - archive, 1940 | Film | The Guardian

(実際の写真ここまで)

 

ダンケルク?ふん、負け戦さ。

学生時代(1970年代後半)フランスやドイツの家庭にホームステイをしていたころ戦争の話題は頻繁に出ていました。そのころはまだ戦争で負傷した人たちを町でよく見かけたものです。

ドイツのお宅のご主人はロシア戦線で右腕を肩から無くし、片足は膝から下が義足だったけれど、普通にバリバリ働いて、車の運転もとても上手であちこち連れていってくれました。戦争の話はきまって奥さんのいないところでこっそりと。彼なりのいろんな秘密があるのです。私は打ち明け話を聞くのが好きでした。

パリの友人の家でも戦争中の話はよく聞いていました。あるときノルマンディー地方のお宅に連れられて行くと、そこでは戦争観がまるで違っていました。

ノルマンディー上陸作戦(1944年6月6日 - )といえば、一般にはナチスドイツからのヨーロッパ解放につながったという評価だと思います。アメリカ映画『史上最大の作戦』(The longest day1962年)やTVドラマなどの影響もあるでしょう。

しかしノルマンディー地方の人々にとっては、戦闘や空襲などで町を完全に破壊され、大きな犠牲を払った辛い体験です。やっと解放かと思えば、アメリカ軍兵士による殺人、暴行、略奪が横行し辛酸をなめたのです。「ドイツ人は礼儀正しくて問題行動なんか起こさなかった」というのだから衝撃でした。1984年と1994年もフランスにいた私は、ノルマンディー上陸作戦の40周年、50周年記念式典の際、冷ややかで懐疑的な声も多く聞かれたのを思い出します。「戦勝国のお祭り?私たちの犠牲の上にね」。

現在では「ノルマンディー全域の民間人死者は米兵戦死者と同等の2万人。60%は空爆犠牲者」という調査結果も出ているし、市民の声も数多く拾ってまとめているようです。

 再び写真を。

https://i.guim.co.uk/img/media/48d5bd6ed94f1c309675d4176186782f5077c265/0_352_3769_2261/master/3769.jpg?w=620&q=55&auto=format&usm=12&fit=max&s=07c6adefc2fe04423ec2914935dd1934

ダンケルクの市街にて。撤退するイギリス兵たち。Photograph: Hulton Deutsch/Corbis via Getty Images

Evacuation of Dunkirk: share your letters, photographs and stories | World news | The Guardian

http://www.larousse.fr/encyclopedie/data/images/1310922-Dunkerque_en_ruines_1940.jpg

1940年破壊されたダンケルク市街

Encyclopédie Larousse en ligne - Dunkerque en ruines, 1940

f:id:cenecio:20170925144711p:plain

映画のために1940年当時の街並みを再現Dunkerque métamorphosée pour le tournage du nouveau film de Christopher Nolan

ダンケルクに関してはフランス人の意見はほぼ一致すると思います。

「あれは負け戦さ」

「挙句の果てにダンケルクに追い詰められて、フランス兵が盾になりイギリス兵を逃がしてやったんだ」

http://www.lepoint.fr/images/2017/07/19/9485506lpw-9486228-article-wwii-battle-of-dunkirk-1940-jpg_4432590_660x281.jpg

1940年6月、ドイツ国防軍の兵士が、フランス・イギリス人捕虜を監視している。約4万人ということだ。10 chiffres pour comprendre la bataille de Dunkerque - Le Point

「そもそもフランスは政府も軍部首脳も無能だった」し、「ド・ゴールの言うことを聞けばよかったのに」。だけど「つまるところフランス人は戦争に向いていないんだよ。平和主義なんだから」

フランス人は戦争なんか第一次大戦で懲りてまっぴらごめんだった、皆が口々に言っていたことです。

 

電撃戦 

ここで1940年5月10日、電撃戦を始める前のドイツ陸軍参謀本部の作戦室をのぞいてみます。壁に掲げられていた地図がこちら。(もちろん当時は最高軍事機密)

↓地図:『西方電撃戦』 (欧州戦史シリーズ2 学研)からコピーさせていただきました。p8~9

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赤はフランス軍、イギリス大陸派遣軍、ベルギー軍、オランダ軍。

青はドイツ軍、旗が司令部。矢印と点線(←・・・)は予定前進路。

地図を見るだけでドイツ軍の作戦がわかります。ルクセンブルクとベルギーの南を突破して行く。つまりあのアルデンヌの美しい森の中を!(今も森は深く美しい。サマーバカンスのキャンプにピッタリの場所)。

そのあとムーズ川を渡って一気にフランスに入る。作戦開始3日目でもう!

連合軍は完全に意表をつかれました。マジノ要塞線は迂回されたし、1200人の守備隊が守るベルギーのエバン・エマール要塞は、ヨーロッパ最強と言われていたのに、(↓図解Fort Eben-Emael, Fort d'Ében-Émael エバン・エマール要塞『西方電撃戦』 (欧州戦史シリーズ2学研)

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 80人のドイツ空挺部隊がグライダーで着陸し、3時間ほどで制圧してしまったのでした。(エバン・エマール要塞は一度見てみたいです。近くのリエージュの町までは2回行きましたが、ツアーに入らないと見学が難しいらしく未だ行けていません) 

負け戦のダンケルクのことは、フランス人は誰もよく言いません。フランス軍はその後大勢が捕虜になり、お気の毒でしたが、このダンケルクからの撤退作戦は、決断も早く手際もよくてすばらしかったと思います。イギリス空軍が空を守ってくれたおかげでもありました。こんな短期間であれほどの兵士たちにドーバー海峡を渡らせたこと、これが「奇跡」と呼ばれているのもうなづけます。

若い人達を大切にしなければならない。若者は将来を担うのだから。戦争を起こすのは年寄りだけれど。木造のムーンストーン号の持ち主、ミスター・ドーソンが海軍の船舶供出に応じて自ら舵を取るその気持ちがよくわかります。

 次回はそんな大救出劇をいったいどうやって映画にしたか、驚くことばかりなのでそれをまとめてみたいと思います。

 

続き↓

cenecio.hatenablog.com

 

🌸おまけ:おもしろいグラフ

フランスのアンケート調査です。

1945年ナチスドイツとの戦争勝利に最も貢献したのはどこの国だと思いますか

1945年5月: ソ連が57%アメリカ20%、イギリス12%。

ところが2004年ではアメリカが58%と順位が入れ替わっている。理由を考えてみるとおもしろいでしょうね。

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🌸続き☞ 映画『ダンケルク』父親が息子たちを家に連れ帰る物語 -2-

駒込「青いカバ」書店 ・猫に助けられた「にゃんこ堂」書店・書肆吾輩堂 追記

書店のいろいろ

小さな町の書店が地域から姿を消しただけでなく、大型書店の統合なども進む昨今です。先日もこのテーマで記事を書きました。

cenecio.hatenablog.com

今日も本屋の話を続けます。

1.こんなご時世なのに、今年に入って新しく開店した本屋があるのです。そのことは朝日新聞に折り込まれてくる「かわら版」(近隣地域で新規オープンした店などを紹介しているチラシ)で知りました。

古書とセレクトされた新刊を取り扱う書店、と書いてありました。へえ、勇気あるなあ、どんな猛者(もさ)がやっているんだろう、ちょっと見てこよっ!と野次馬根性まる出しで店主の顔を見に行ったものです。(その後何度も行っているんですが、今日はブログに載せるために写真を撮らせていただきました。あっさりOKしていただき、ありがとうございました。)

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twitter.com

書店の名前は「BOOKS 青いカバ」。カメキチさんと張り合っているわけではないと思いますが(笑)。

で店主はどんな「猛者」かと申しますと、勝手に想像していた「おっちゃん」などではなく、すっごく優しそうな柔和な笑みを浮かべた丸顔のお兄さまでありました。

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なんとお若い!くりくりした目が愛らしい店主さん。(すみません、失礼なことを言っているかも)そしてやはり「この人、何者?」と好奇心がムクムクわくでしょう?

実はこの方、東京の人なら恐らく知っているあろう「リブロ池袋本店」。今はもうなくて、三省堂になっていますね。そこで海外文学棚を担当してマネージャー的役職にあった小国 貴司さんという人。業界人の間では有名な方だそうです。

応援団の方が簡潔で温かい紹介文を書いています。

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https://www.facebook.com/pieinternational/posts/1219054588185339

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「ずっと GOOD BOOKS」をテーマに、10年後も本棚に入れておきたい、そんな本をセレクトしています。

BOOKS青いカバ

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開店前です。本郷通り不忍通りの交差点(上富士前)のすぐそば。ZaaB「サップ」(タイ料理)の隣。(←こちらもいっぺん入ってみたい^^)

みなさまも六義園東洋文庫ミュージアムなどにいらっしゃることがあったら、ぜひ一度お立ち寄りください 。

📖小国 貴司さんのエッセイ

ギャラリー ときの忘れもの : 新連載・小国貴司のエッセイ「かけだし本屋・駒込日記」第1回 - livedoor Blog(ブログ)

ギャラリー ときの忘れもの : 小国貴司のエッセイ「かけだし本屋・駒込日記」第2回 - livedoor Blog(ブログ)

追記:2018年8月 東京新聞朝刊

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2.姉川書店

今、神保町でとっても注目を集めている小さな本屋さんといえばこちら。

ネコノミクスという言葉が発明されて久しいと思いますが、東京は神田古書店街にある姉川書店は、生き残りをかけて猫の本に特化したお店です。発案者は娘さんの夕子さん。猫関連本は600種類、2000冊も取り揃えているそうです。もちろん姉川書店として新刊書や雑誌も置いています。しかしもはや猫本の「神保町にゃんこ堂」http://nyankodo.jp/の中に「姉川書店」が入っていると言ったほうが正しいかもしれません別名「猫好きホイホイ」とも言うそうで、私もあっさりとホイホイにかかってしまいました。 

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夕子さんは選書・仕入も自分でやり、最後まで読んでから手書きPOPも作成します。こうして四年間、地道にPR活動をしてきました。ちなみに「にゃんこ堂」の店長はペットのスコティッシュフォールドリクオくんだそうです。

人気本は多いですが、最近の売れ筋は「肉球」とか「舌(猫が舌をちょろりと出している写真)」などの猫のパーツを集めた本だとか。見ているだけでもうニヤニヤが止まらない。あれもこれも欲しいが、ぐっと我慢してとりあえず1冊だけ買います。

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そしてこのオリジナルデザインのカバーをかけてもらうんです。嬉しいニャー!きれいなカードも2枚つけてくれました。

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姉川さんはすごく温和で親しみの持てるご主人です。客の対応も親切でユーモアがあって、店への道順を聞いてくる電話にもひとつひとつ丁寧に答えていました。

電話が頻繁にかかってくるわけは、日本テレビシューイチ オフィシャルサイト

まじっすか本屋さん レア専門書店特集 第4弾/ネコ本専門&動植物専門」で紹介されたからなんですね。KAT-TUNの中丸雄一くん(写真左)が本屋を訪ねて取材するコーナーです。これで全国的に有名になりました。(右:姉川氏、真ん中:夕子さん)

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 夕子さんは宝島社から本も出しています。

猫本専門 神保町にゃんこ堂のニャンダフルな猫の本100選

猫本専門 神保町にゃんこ堂のニャンダフルな猫の本100選

 

 通りの向こうから撮った写真:

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2019年4月

3.猫好きの人はもうご存知でしょうが、ネット書店も熱いです。

 こちら書肆(しょし)吾輩堂さん。福岡県にあるお店です。

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wagahaido.com

猫本屋はじめました

猫本屋はじめました

 

 店主の博識と教養、美意識が感じられる選書、およびグッズの数々です。スタイリッシュなホームページもぜひご覧あれ!

本屋はここまで。

 

先日、ボブという名の猫 鉄の意志をもつ茶トラ - というエントリでビッグイシューBIGISSUE日本版というホームレスの人の売る雑誌を取り上げましたが、昨日駅前で売っている人に会いました。お喋りして写真も撮らせていただきました。

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SPYBOYさま、さぴこさん、イェリクさま、happyhappysanさま、みなさんコメントの中で「ビッグイシューを売る人を見かけたことがある」と書いてらして大変参考になりました。ありがとうございました。

終わります。

 

🌸通信欄・・・・・・・・・・・・・・

sinsintuusinさま、遠くからだとパッとしないんですが、入り口の戸に貼ってあるメニューを見るとちょっと心惹かれるんです。こちら写真です。

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 SPYBOY さま、

>ただ専門店は商圏が広い都会でないと成り立ちにくいから難しい点もある。…

びっくりです。先日書店業界の人が、こうした専門店は東京と京都でしか成り立たないだろう、と同じようなことを書いているのを読んだので。なんで大阪はないの?と思いましたが。

生き残りをかけて皆さん工夫を迫られる。姉川書店さんだって、娘さんの父親(の世代)批判から始まったんですね。

驚き!今どきの四畳半物件 &幽霊の出る部屋はごめん。追記:3畳でも人気だそう。

トイレがむき出しの部屋

ここ数年は貸し物件を多く見る機会がありました。昔、といっても私たちがフランスから帰国して部屋を探していた頃ですが、あれからずいぶんと変わりました。

最近の事情がもの珍しくて好奇心をそそられ、ついつい熱中してのめり込んでしまうのです。物件を探しているのはうちの子どもたちなのですが。

まずインターネットで探せる。なんと便利なことか。住みたい場所や条件を入力すれば何十という物件が見られるし、毎日新たな物件が届き、気にいったものがあったときだけ内覧を申し込めばいいのです。

単身者・学生向け物件ではクーラーやミニキッチン(小さな冷蔵庫つき)、照明器具、ロッカーなどは普通についていることが多い。ロフト付きの部屋もよく見る。敷金・礼金なしというのもけっこうある。

ミニマリストシンプルライフ派にとって言うことなしです。ありがたいことです。寝具があればすぐにでも泊まれますからね。

しかし私がもっとも驚いたのは、このようなタイプの部屋です。

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写真:こちら東洋経済オンラインの記事↓から借りています。

若者が「東京四畳半暮らし」にハマる理由 | 三浦展の研究ノート「街を読む、データを歩く」 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

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この部屋は4.2畳。入ると左にシャワー、そしてハイテクなトイレが間仕切りもなくどんと置かれている。その真上にクーラー

手洗い・洗面・流し台は一緒。シンク下にドラム式洗濯乾燥機が組み込まれている。

その向こうにはベッドがぎりぎり置けるスペースがあるだけ。壁のポールに服やカバンなどが提げられる。(窓が3か所あるのは意外ですね)

家は寝るだけの場所なのだし、スマホさえあれば用は足りるのだから…と考える若い男性たちに、こうしたタイプの部屋は人気があって、空いてもすぐに埋まってしまうんだとか。

みなさんにとっての驚きは何ですか。

やはりトイレに仕切りがないこと?

衛生面が気になる?

人を呼べない?

絶対に住みたくない?

東洋経済の記事のコメント欄にざっと目を通しましたが、そうした意見も多かったです。

私は全然驚きませんでした。というのもそうした部屋に住んだことがあるし、よその家でも便器が部屋の片隅にむき出し、というのを見たからです。ただしフランスの話ですが(^^)。

私の驚きは洗濯機のほうです。今や単身者向けの部屋にはどんなに狭くてもドラム式洗濯機がついているんじゃないかと思うほど。おかしいでしょ。

(写真はすべてアールエイジPR (@earlyagepr) | Twitter)

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どれも四畳半から6畳の部屋です。当たり前のように洗濯機があるのが驚きです。乾燥もできるので部屋やベランダに干さなくていいんですね。

また洗濯機の話題から逸れますが、この狭さなら絶対に要らないと思われるバスタブを付ける部屋もありました。

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部屋は6畳未満ですが、一階の共用部にバイク置き場があったりとか。

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個性を打ち出した物件がいろいろあって、見るだけでおもしろいです。ここまでの写真:アールエイジPR (@earlyagepr) | Twitter 

 

さて、昔は四畳半暮らしといえば、風呂なし(→銭湯にいく)、トイレ共同、たぶん台所も共同であったと思います。洗濯は都市部にはコインランドリーがありました。

*日本初のコインランドリーは、1966年(昭和42年)5月に東京都北区の銭湯「加賀浴場」に設置されたもの。(ウィキペディア

ヨーロッパの事情をみても、一人暮らしは洗濯機など持たない。バスルームかキッチンのスペースがないと、水回りをまとめるという意味でも洗濯機は置けないからです。しかもあちらでは温水で洗濯をするのが普通ですし。学生や単身者は実家が近ければまとめて持ち帰ったり、コインランドリーを使っていました。

以前、コインランドリーといっても、日本からは想像もできないおしゃれなカフェになっているコインランドリーカフェについて記事を書きました。若い人たちの集いの場であり、もちろん一人でやってきても自宅の延長みたいな感じで使える、街の憩いの場です。

↓こちらベルギーのコインランドリー記事。

cenecio.hatenablog.com

トイレがむき出しの話に戻ります。

私が1980年代にパリで1年間住んだ部屋の話です。8畳くらいの寝室は天井が高く、絨毯敷きでした。別にシャワーとトイレと洗面所がある一室があり、ここはタイル敷き。そこにおそらく大家さんが「煮炊きできたら便利だろう」くらいのことを考えて、ガスコンロを設置したのでしょう。初めて見たときは呆れました。まあ、ちゃんとした料理はしないのですが、お湯をわかしたり何かを温めたりはできるので助かりましたけど。

ところで、日本のハイテクトイレはヨーロッパでも人気です。まだ今のように評価を受ける前、10年位前の話ですが、ヨーロッパの便器は水を使い過ぎるという記事を読んだことがあります。イギリス人が書いていて、それによると日本の優れた便器と比べて洗浄水量が7~8倍必要だ。日本人は節水してもきれいに流れるように、便器内部の形と水の勢いを工夫している…といった内容でした。

日本の流麗なフォームのハイテクトイレは、むき出しで置いてあってもさほど違和感はないかもしれませんが、やはり自分がその部屋に住むとなると別ですね。

 

幽霊の出る部屋

だいぶ前のこと、息子が初めて部屋探しをしていたときのこと。一緒に物件をあれこれ見ていて、「これなんかどう?緑いっぱいの文教地区でこんなに安いし、しかも築年数も10年未満だよ」といいます。どれどれ、と隅々まで読んでみたら案の定「瑕疵(かし)物件」と小さくありました。

瑕疵物件(事故物件)、つまり何らかの事件現場だった物件のことです。または自殺かもしれません。特に事件性もない孤独死であったかもしれません。いずれにせよ不動産業者は、そのことを説明する義務があるようですが、細かい規定はないようです。たとえば何人目の入居者まで告知するのか、事故後何年たったらしなくていいのかなど。

家賃はかなり低く抑えてあるので、それが魅力で納得して入居する人もいます。(先の物件はすぐに決まりました)。逆に黙っていて普通の入居料を取る大家もいるそうです。

 

http://cdn.tsutaya.tsite.jp/static/tsutaya/item/movie/20160520/zane/images/jkt_zane.jpg f:id:cenecio:20170918165109p:plain

 残穢(ざんえ)-住んではいけない部屋-( 2015年)

というホラー映画がありましたが、みなさんご存知ですか。

借りる側としては、そんな訳あり物件に知らずに住むなんてことは避けたいものです。

今はそうした物件を調べるサイトがあるのです。事故物件公示サイト「大島てる」といい、大島てる氏が運営していて、誰でも無料で情報を共有できます。

グーグルマップの地図の上に、事故物件を炎で表し、それぞれの物件について「住所」「事故の発生した日付」「事故の内容」「写真」の4つを掲載しています。

【大島てる】圧力があっても削除しない! 大島てるが事故物件にこだわる意外な理由とは?|住まいの大学

またはこちら: 事故物件借りちゃった人の末路:日経ビジネスオンライン

 

私も思わずあちこち知っている場所を検索してみました。確かに自宅からあまり遠くないところで起こった殺人事件などが載っていました。

しかしこんなに全国各地の情報をどうやって集めるのかと思うでしょう。当初は自分たちで情報を収集していたのですが、投稿制にしたのだそうです。それにより情報の質も向上し、また多くの人がチェックしているおかげで、部屋番号などの間違いもすぐに正されるそうです。

現在では日本だけでなく、外国(韓国、中国、アメリカ、ヨーロッパ)の事故物件も対象に広げており、掲載物件は4万以上、一日の平均閲覧数は約100万といいます。

大島てる氏は39歳。東京大学経済学部を卒業したあとコロンビア大学大学院へ。中退した後、家業である不動産屋を継ぐ。「てる」は祖母の名前だそうです。

おもしろい世界があるものですね。

終わります。

 

🌸おまけの写真

アールエイジPR (@earlyagepr)のサイトの写真はどれもきれいでため息がもれます。

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フランスのインテリア雑誌から。

広い家でもわざわざ寝室にバスタブを置くなど日本では信じられないですが、湿度が低いことも関係あるでしょう。ちなみに排水口タブの真ん中にあることが多い。カップルが向かい合って座るのに、片側にあると一人がお尻の下に排水口が来て、都合が悪いからだそうです。

http://static.cotemaison.fr/medias_11577/w_1520,c_fill,g_north/chambre-avec-salle-de-bains-sous-les-combles-1_5927664.jpg

www.cotemaison.fr

 

ボブという名の猫 鉄の意志をもつ茶トラ

こちらの映画を見にいきました。もうみなさんもご存じのストーリーだと思います。

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SPYBOYさまもレビューを書いています。写真がたくさんあって楽しめますよ。ストーリーもこちらでお読みください

報道特集『医療的ケア児と教育』と映画『ボブという名の猫』&『ベイビー・ドライバー』 - 特別な1日(Una Giornata Particolare)

 

ボブは「招き猫」とか「猫の恩返し」などと言われ…

数年前から日本のTV情報番組やyoutube等ですでに有名だし、2012年出版の本『ボブという名のストリート・キャット』は500万部以上を売り上げて堂々たるベストセラー。ホームレスで薬物中毒のミュージシャンが、野良猫と出会って人生をやり直すという実話です。

まあ、ストーリーは知っているし、正直、映画を見にいくかどうか迷いました。しかし出演の猫がボブ自身(本ニャン!)だとわかったこと、わざわざ日本にまで二人で宣伝に来てくれたことなどを考え併せ、行ってもいいかなと思いました。

f:id:cenecio:20170913181137p:plain右:本物のジェイムズ。

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本は2冊目が出ています。

写真:映画「ボブという名の猫 幸せのハイタッチ」オフィシャルサイト

 

特別な猫との特別な関係

わがやの猫もボブと同じノラ猫。カラス2羽につつかれていた子猫を保護しました。

映画ではボブの演技に注目したいところです。飼い主のジェイムズではなく、俳優たちやそのほかの見知らぬスタッフと多くの時間を過ごすわけだから。だいたいそんなに起きていられるの?というのが私の素朴な疑問でした。うちの子は四六時中寝ていますから(笑)。

そしてもっと興味があったのは、ボブは普通の猫と違うんじゃないか、ということ。この特別な感じは何だろう。何がどう違うんだろう。有名な猫といえば、和歌山電鐵たま駅長を思い出しますが…。

そういったもろもろのことは映画を通して答えをもらいました。また期待した以上の多くの収穫があった「当たり」の映画でした。 

まずわかったことは、ジェイムズが猫を保護したんじゃなくて、ボブがジェイムズを選んだのです。ジェイムズはけがをしている野良猫のボブを連れて動物病院へ行きますが、無料の診察券を使えても薬は自費なわけで、なけなしの22ポンドを全部投げ出します。ジェイムズは悲惨な生活をしていても、純朴で不器用で、そして心の優しい青年なのです。

ボブは傷が治って以来、「来るな」と言われてもどこへでもジェイムズにつき従います。ロンドンのバスの2階に乗客然として普通に座っていたり、疾走する自転車の前籠の中でも動じない風格をみせていたり、たいしたものです。自分はこの人のパートナーである、といった強い「鉄のような」意志が感じられるのです。

ある日、ジェイムズが路上でギターを弾いて歌っていると、一人の婦人がボブにマフラーをプレゼントしてくれます。その時まるで予言のようにこう言うのです。そして真実を言い当てていました。

”自分もかつて 茶トラ(ginger)を飼っていたが、 茶トラは強い意志を持つ猫だ。最後の最後まで自分のそばを離れようとしなかった。

あなたもよいパートナーを見つけた。人間よりも強い絆で結ばれるだろう

  

監督ロジャー・スポティスウッドと。

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http://natalie.mu/eiga/news/245231

「ボブという名の猫 幸せのハイタッチ」メイキング映像 - YouTube

またメイキング映像の中で、監督がインタビューに答えておもしろいことを言っています。

”動物と人間は友達にもなれて、心を通わせることもできる。説明ができないほど深いつながり、すばらしい関係性を築けたりもする。

ジェイムスとボブの関わり方は人間同士よりもずっと深い。互いを受け入れようとするさまが普通とは次元が違う。(略)”

 

麻薬と貧困問題

SPYBOYさまが詳しく書いていますので重複することは避けますが、いったん中毒になって転落すると這い上がるのがどれだけ難しいか。通りで簡単に薬物が手に入るロンドンの路地裏…われわれの想像を超える世界です。しかもホームレス。もうそれだけで周りから人間以下の存在とみなされ、忌避される。ありとあらゆる社会とのつながりも切られてしまう。

ジェイムズはそんな壮絶な孤独を生きていましたが、行政の助けを借りて立ち直ろうとします。しかし麻薬更生プログラムのメサドン療法(麻薬の代替治療)を担当する女性ヴァル(めっちゃいい人だ!)を何度も失望させるのです。

ところがボブと暮らし、世話をするようになってから責任感が芽生え、ちゃんとしなきゃと前向きな気持ちが持てるようになる。また街でもボブのおかげで注目を浴び、優しい眼差しを感じることで今度こそはやり遂げようと決意します。

https://joshi-spa.jp/wp-content/uploads/2017/08/bob_sub4-585x340.jpg

映画には、実話にない恋のストーリーも盛り込まれている。近くに住むベティもジェイムズの更生を助けてくれるのです。(二人は実生活でもパートナーで、まもなく赤ちゃんも生まれるそうです)。

 

ホームレスの売る雑誌『ビッグイシュー

映画でも実話でも、偽ジェイムズも本物ジェイムズ(下の写真)もThe Big Issueという雑誌を売っています。

https://images.bigissue.com/2017/03/james_big_issue-640x860.jpg

James Bowen and Street Cat Bob: The extraordinary tale continues... | The Big Issue

私は去年大阪でこれを売っている男性を見ました。買わなかったのが残念です。東京では数年前に見たきりです。

これはホームレスの人たちの自立を支援するために作られた雑誌で、ホームレスの人たちが街頭で立ち売りします。内容は様々な社会問題です。
1991年にロンドンで創刊されました。現在、日本や韓国、台湾などでも売られており、毎月2回発行されます。総称してストリート・ペーパーというようです。

映画の中でも仕組みが説明されていますが、最初に何冊が無償で提供され、そのあとは自分で数を決めて仕入れ、売れたら取り分をもらう。日本では定価が350円、売れると180円が収入です。最初の10冊が無償提供、つまり3500円が元手です。

2017年 9月 11日 ビッグイシュー日本からのお知らせ
本日、9月11日に『ビッグイシュー日本版』は創刊14周年を迎えます。100%失敗すると言われながら、私たちの心強いパートナーである販売者と共に、“成功”に向かって挑戦し続けてきました。この間ずっと読者の皆様に支えていただいたこと、心より感謝します。ありがとうございます。

その結果、774万冊を販売し、販売者へ11億5253万円の収入を提供しました(17年6月末)。反面、路上生活者は25,296人(03年)から、5,534人(17年)へと減少し、それにつれて販売者も減り、販売冊数も減るという“ビッグイシューのジレンマ”も目に見えるようになっています。…

↓続きはこちらでお読みください。

『ビッグイシュー日本版』創刊14周年のご挨拶と「1冊丸ごと」記念企画 | ビッグイシュー日本版

 

https://www.bigissue.jp/wp-content/uploads/2017/09/316_01s_thumb.jpg

↑今なら映画館で期間限定販売!ボブが表紙のビッグイシュー

映画「ボブという名の猫」の原作者、ジェームズ・ボーエンと愛猫がビッグイシュー日本事務所にやってきた!-ジェームズさんからの動画メッセージ付- : BIG ISSUE ONLINE

 

売るのは大変!  

そしてビッグイシューといえば、先日ナイスなタイミングでこれについても触れてらしたanne neville (id:anneneville)さまの記事、こちらです。(anneさま、お断りもせず勝手に言及しています。すみません)↓

わたし(あなた)はミスターメンの中では誰? ( *´艸`) - anneneville’s diary

何度も雑誌を買ったことがおありで、知的で充実した内容だと述べていらっしゃいます。でも私が驚いたのはこのエピソード。anneさまが好きな俳優David Oakes氏が路上でビッグイシューの販売を試みたが、「こぎれいでハンサムな役者さんでも」売るのが難しかった、というところ。雑誌を売る俳優の写真も載せてくださっています。

映画の中でも、ボブを連れたジェイムズから雑誌を買いたがる通行人が多くて、他の販売者が嫉妬するシーンがありましたが、うなづけますね。

 

フランス 

ついでながらフランスのストリートペーパーはこれです。「マカダム」といい、あちこちで売っているのを見かけます。1冊3€。売れたら2€もらえます。

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Macadam Journal

またまたボブが表紙に。

イギリスのビッグイシューこのたびボブとジェイムズが映画キャンペーンのため渡日したのを記念して。

https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcTpIaYSGoxT56b_2EAcsxpOWBkYjgsfTSPHB2In4DY8T2HjEPdeXg

ゴジラ、いいですねえ。