ベルギーの密かな愉しみ

しばらくの間 お休みします。

今日は「飛行機の日」国産機で東京ロンドン間の世界新記録の話・「美貌なれ昭和」

今日は「飛行機の日」なんですね。

今朝はsoftwindさんのおかげで、久しぶりに飯沼正明氏を思い出した。こちらの超カッコいいパイロットの男性のことです。容貌のことばかり言ってはしたないとは思うけれど、もう顔も性格も人物も最高!

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kihaseason2015.hatenablog.com

世界新記録

ライト兄弟の偉業はこちら↑で復習していただくとして、飛行機といえば「翼よ、あれがパリの灯だ」もすぐに思い出されますね。リンドバーグがニューヨーク-パリ間を初めて飛んだのでした。それは1927年のこと。

それから10年後の1937年、当時26歳の飯沼氏は「神風号」で塚越賢爾機関士と一緒に東京-ロンドン間を94時間ほど(睡眠や食事、休憩なども含まれる)で飛ぶという、それまで誰も成し遂げられなかった、有名なフランス人飛行士などが幾度も挑戦したもののすべて失敗に終わった…そんな偉業をやってのけたのでした。

 

http://www.geocities.jp/jkomjkom/newpage114.htmlこちらのサイトより引用。

(抜粋)

朝日新聞社は、1937年5月12日ロンドンで行われるジョージ六世の戴冠式奉祝の名のもとに、亜欧連絡飛行を計画し、キ15の試作2号機を払い下げるよう、陸軍を説得した。愛称には、公募した中から「神風」が選ばれた。
乗員は、飯沼正明飛行士(1912-1941)と塚越賢爾機関士(1900-1943)。一度悪天候で引き返したのち、4月6日早暁立川飛行場を離陸。

台北ハノイビエンチャンカルカッタ、カラチ、バスラ、バクダッド、アテネ、ローマ、パリと着陸し、現地時間の9日午後ロンドンに着陸。立川離陸後94時間17分56秒で、給油・仮眠をのぞく実飛行時間は、51時間19分23秒であった。

東京-ロンドン間15000kmを国産機で飛行するという挑戦を立案した朝日新聞社は、飛行機を借してくれと陸軍に頼みます。

陸軍が三菱重工名古屋航空機製作所に試作を依頼した偵察用高速機を朝日新聞の航空部に払い下げてもらい改良したそうです。翼幅12メートル、機長8.2メートル。長距離飛行のため燃料タンクと後部座席を増設し、馬力がでるようにエンジンにも改良を加え、時速500キロ、航続距離は2500キロにも達しました。・・・

朝日新聞社史によると、「ヨーロッパやアメリカのラジオや新聞ばかりでなく、ソ連でも中国でも新聞は飛行経過を詳報してその成功を賞讃(しょうさん)した」「英国放送協会も飯沼、塚越両鳥人を招いてテレビジョン放送をおこなった」とあります。

国産機で東京―ロンドンの世界記録! - ことばマガジン:朝日新聞デジタル

 パリでもロンドン(当時の日本大使は吉田茂)でも、大歓迎を受けるのですが、私のブログはベルギーブログなので(笑)ベルギー・ブリュッセルのフィーバーぶりを見てみましょう。

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深田 祐介 著『美貌なれ昭和―諏訪根自子と神風号の男たち』 (文春文庫1985年)の巻頭の写真、2ページ分借りています。
写真左から塚越氏、飯沼氏のお二人。一人置いて来栖三郎パールハーバーを回避しようとギリギリまで奮闘した外交官)、当時ベルギーに留学中で、美貌の天才少女と呼ばれた諏訪 根自子(すわ ねじこ)、その横は来栖氏のお嬢さん。

右の写真はフランスのル・ブールジュ空港で、群衆の中から飛び出してきた女性にキスをされる飯沼氏。彼女は来日もしたルイーズ・イルスという女性飛行士。

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諏訪根自子4月16日の日記に記したものを、朝日新聞に寄稿しました。これが凄いんです。当時の興奮ぶりがよく伝わってきます。全部載せられなくて申し訳ないんですが。

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(現代の仮名遣いに直しました)

(略)
九時頃、飛行機が着く筈だったが、少し遅れて十時半頃ようよう着いた。出迎えの六台の飛行機も一緒に飛んで来た。とても風があって、雨が降って嫌なお天気だ。ピヤちゃん(来栖輝)と私とは花を持って行くので飛行機のすぐそばまで行く。飛行機はあまり大きくないが、水色でとても綺麗だ。ここの大臣や偉い人達は皆来ている、新聞記者や写真班が大変だった。

ピヤちゃんは飯沼さん、私は塚越さんに花を上げる、二人ともとても素敵、殊に飯沼さんはとても綺麗、あんな人は一寸見たことがない、日本人は全部来た。ベルギー人も大勢、皆日本の旗を持って出迎えた。こんな嬉しいことはない。

それから飛行場のレストランで一寸シャンパンを飲んで大臣や大使が演説をした(みなラヂオ放送)。それから大使と両勇士は王様のところへ行く。その間私達はそこに休んで待っている。また十二時ベルリンに向けて出発するまで・・・。

(略)

皆飛行機が見えなくなるまで旗を振っていた。飯沼氏はダンゼン素敵だったので、ジロジロと眺めるだけ眺めた、あゝ今日はホントに嬉しかった」

最後の「飯沼氏はダンゼン素敵だったので、ジロジロと眺めるだけ眺めた」ここは笑いますね。また飯沼のほうも、東京への国際電話で「今日は諏訪根自子さんが、出迎えてくれた」と報告したそうです。

https://i.pinimg.com/564x/79/8e/4d/798e4d7b31ba82802f5aa69bc73e434d.jpghttps://i.pinimg.com/564x/9d/ae/17/9dae17e79e0219d39d0ad663d69a8fa5.jpg

諏訪の人生も華やかで波瀾万丈なんですが、今日は書くことができません。5年位前に亡くなったので、クラシック音楽に精通していなくても訃報記事を読んだ方、多いのではないでしょうか。

 神風号の快挙は二つの「日本伝説」を打ち砕いたことだと言われています。一つは、日本の工業製品は性能が悪く安価な模造品というもの。もう一つは、実に驚くしかないのですが、日本人は飛行機の操縦に向かない民族だというもの。

神風号を迎えた当日の英デイリー・ヘラルド紙は

「生理学的に日本人は優れたパイロットになれないものとこれまで信じられてきた。彼らは、ある高度に達すると、方角の観念を失いがちになり、眩暈を覚える…。これは何世紀にもわたる米食と魚嗜好が作り上げた適応以上なのである」

「神風の到着は、この日本人は飛べない、という考えに一大打撃を加えるものだ」と述べている。

(『美貌なれ昭和』より引用)

もちろん今だって日本人は「下がり目」、中国人は「つり目」といったカリカチュア的な偏見は生きています。アメリカではかつては「眼鏡に出っ歯の日本人」がステレオタイプでしたが、今はどうなんでしょうか。

深田 祐介氏の『美貌なれ昭和』というタイトルは、当時朝日新聞に「宮本武蔵」を連載中だった吉川英治が、この飛行士二人が美男子で女性たちの人気の的になっていることに触れて「美貌なれ国家」という一文を寄せたことに由来しています。

しかしその後「美貌な日本」は軍国日本に、そして泥沼の悲惨な戦争へと押し流されていき、二人の美貌な飛行士たちも戦死してしまいます。

 〈「飛行機の日」ここまで〉

 

Twitterで拾ったおもしろいもの。同じ年1937年の広告。

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飛行機の日ハッシュタグ

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私は「トップガン」とエアポートシリーズしか知らないなあ。

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紅の豚、好きだった。

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櫛を駆使!

最後にこちら

Airportraits

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ナニコレ?と思いますね。www.buzzfeed.com

 飛行機が大好きな建築写真家のマイク・ケリー。ある日、彼はひとつのアイデアを思いついた。

ロサンゼルス国際空港で飛行機を眺めていました。その時、行き交う多くの機体を1枚の写真に収めてみたいと思ったのです。そうすることで、ロサンゼルス国際空港を行き来する飛行機の数がどれだけ多いのか、表現できたらと考えました」

そして出来上がったのが「Airportraits」という写真シリーズだ。

このような合成写真を成功させるには、撮影時の天候や太陽の位置が重要だとケリーはいう。別々に撮影された飛行機の画像の全てが、1枚の写真に同時に登場していても違和感のない見え方をしなければならないからだ。

「写真の撮影に何週間もかかった後、満足のいく仕上がりにするため、フォトショップで細かい修正を何カ月も続けることもあります」 

ではまた次回!

中国の羨ましいところ -3-

中国について前回は、特に羨ましくもなんともないことを書いたが、今日は羨ましく思っていることを書いてみたい。

羨ましいなと思う点は三つある。①高い起業熱 ②再生エネルギーへのシフト ③男女共同参画社会、である。 

①国民の、特に若者の起業意識が高い。

ベンチャーが盛んなのは国民性に関係があるだろうか。日本人は会社や組織に入ることを好む傾向があると思う。友人のベルギー人が「ベルギー人も同じよ。勤め人がいいと思ってる」というので、「違うわよ。新聞のこの統計によると、ベルギーの昨年度の起業件数はEUでも上位よ」と見せてあげた。

「どれどれ、いったい誰が起業してるのかしら。…え、みんな移民じゃないの!」

移民してきたポーランド人はじめ東欧の人たち、ポルトガル人らが個人で商売を始め、順位を押し上げていることを知って大笑いしたものだ。

 中国人は子どもでも「将来は社長になる」つまり自分の会社や店を持ちたいと言う。自立心旺盛なのだ。(これは韓国人も同じ)

昨今は技術の革新のスピードは目が回るほど速い。新しいアイディアを出し、新しい製品を考える。それに対し投資家などが敏感に反応して投資する。国も様々な優遇措置で支援するので、起業に適した環境が用意されているといえる。失敗してもまたやりなおせばいいと思っている。成功した場合、事業展開のスピードも速く、前回見たシェアサイクルのように、多くの参入があって一気に活気づくのだ。

 

②再生エネルギー 中国は2050年までに全電力の8割目標

先日のNHKの「クローズアップ現代中国“再エネ”が日本を飲み込む!? - NHK クローズアップ現代+をご覧になったかたも多いと思うが、再エネで作る電気が割高だと思っていたのにこんなに安いの⁉とビックリした。

上海のあるパネルメーカー。太陽光パネルの出荷でも世界一であるが、太陽光発電で火力や原子力よりも低い価格を実現したという。国内に発電所は300以上あるそうだ。現在は、こうした発電所のインフラを丸ごと他の国に輸出しようとしている。

中国では他にも多くのベンチャー企業が育っており、ある風力発電のメーカーは世界30か国で取り引きがあり、コストの低さと壊れにくい耐久性が売りなのだという。風車も5年に一度解体するなど、アフターサービスも徹底する。

これほどの猛進撃のわけは、深刻な大気汚染と福島原発事故のショックだという。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b1/KerncentraleDoel01.jpg/800px-KerncentraleDoel01.jpg

写真:Doel Nuclear Power Station - Wikipediaアントウェルペン市の原発。まち中から見えるので常に原発を意識せざるを得ない。テロ攻撃を恐れる割には警備が手薄なのが不思議だし心配であるが。

スタジオに呼ばれたゲストの中国人学者がこう話している。(話は日本語)

原発と比べると、中国の場合、再生可能エネルギーは、もっといい電源だというふうに認識し始めた。その結果として、例えば今年の1月から9月まで、太陽光発電が実は4,300万キロワットもできたんですね。これは大体、原発の9基分に相当します。

かたや日本では、再エネ市場は震災のあと一旦は盛り上がったが、その後低迷し、倒産も増えている。なぜ日本はうまく行かないのか。

放送を見てちょっと呆れたが、やはり日本特有の壁だった。

まず高いコスト、さらに工期に数年かかる。そのほかいろいろあるが、電気をせっせと作っても「送電線の空きがない」。本当にないのか大学の教授に頼んで調べてもらうと、空き容量がゼロと公表された送電線は、2~18%程度しか使われていなかった。ではなぜ空きがないと言ったのだろう。

原子力発電所は、現在、稼働していません。それでも、将来の再稼働に備え、送電線の容量を確保しておかなければならないというのが電力会社の考えです。

電力会社の考えは政府の考え。さらに株主や金融会社の考え。つまり原発を止めることはできないというわけだ。ずっとしがみついていくんだろうか。地震はまた起きるかもしれないし、事故もテロもないとは言えないのに。

ぜひとも再エネのほうに舵をきってほしいと思う。まだ今なら手遅れではない。このまま世界から取り残されていいのだろうか。日の上る国と言われているのに、自分から沈んでいく、そんなばかな!と私は心配でならない。

また最近の報道によると、中国の国有自動車メーカー、北京汽車(BAIC)は2025年までに全てのガソリン車の販売を停止すると発表した。

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中国“再エネ”が日本を飲み込む!? - NHK クローズアップ現代+

(グラフはこちらからお借りしました↑)

business.nikkeibp.co.jp

こちらの記事はSPYBOYさまから教えてもらったものです。ほんとうにタメになる。日経もどんどん記事にしてほしいですね。『今週のニュース3つ』と日本の成れの果て:映画『ビジランテ』 - 特別な1日(Una Giornata Particolare)

 

③女性が働く社会

これもまたSPYBOYさまの記事にもあって、前々回「中国のことを話そう-1-」で紹介したのであるが、中国では女性はみんな働いている。また組織の高い地位で生き生きと働いている印象がある。

私は昔、中国人の学生が「今度母が来るんです」と言ったとき、息子の顔を見にくるのかと思った。実に日本人的発想で恥ずかしい。遊びや観光ではなく、出張や仕事で来るのである。

「お母さんはどんなお仕事?」

「雑技団の団長やってます」。

世界中を回る雑技団の団長さんは忙しい。日本での日程も余裕がなくて、息子と立ち話程度しか時間がなかったらしい。(その息子は京都大学に進学した)

社会主義国の女性はみんな働いている。ナチスドイツと戦ったソ連でも女性兵士は多かった。戦闘機乗りだったユダヤ人女性やスターリングラード攻防戦を戦った女性兵士たちの手記を読んだことがある。

一方ドイツでは、女性は家庭を守り、子どもをたくさん産むように奨励され、銃後の守りに徹したようで、この対照的な女性の在り方は興味深い。

日本でも口先だけじゃなく、女性が活躍できる社会を作らねば、と切に思う。高い教育を受け、優秀な女性たちはたくさんいるんだから。もっと高いポストを与えてほしい。

人口減少というのなら、移民受け入れよりまず女性たちだろう。働きたい女性は全員活躍できるようにしてほしい。そのためには出産・保育施設などの環境づくりはもちろんのこと、男性側の意識も変えてもらわなくちゃ。

ここまで三点あげたが、他に私が気になるのは芸術・文化事業の振興についてである。

欧米では日本学や日本美術などへの関心が薄れつつあるようだ。といっても今に始まったことじゃなくて、ここ10年くらい、ヨーロッパのあちこちの大学で日本学の専攻が閉鎖されるという話を聞いてきた。

朝日新聞で以前読んだ記事では、日本美術研究者が高齢化し、引退するとあとを継ぐ人がいない状況だという。中国・韓国は財団を作り、普及活動に熱心である。たとえば資金提供して韓国美術の常設コーナーを作ったり自国から研究者を送って指導にあたったり、展覧会開催にも資金援助をしている。中国も資金をふんだんに使って文化事業の助成に積極的だ。

文学作品の翻訳などにも言えることだし、日本が自慢に思っているアニメ関連でも、世界最大のアニメーション映画祭、フランスのアヌシー国際アニメーション映画祭は、韓国とパートナーシップを組んで、アジアでの新映画祭を立ち上げると言っている。

仏アヌシー国際アニメ映画祭主催者、韓国で2019年に新映画祭を発足(映画.com) - goo ニュース

 

🌸『日本のアニメーションの100年』

という最近フランスで出た本の紹介です。

このテーマの催しもフランスではたくさんやっています。

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 取り留めなく中国のことを、思い出話も含めながら書いてきたが、これで終わる。

 

 

報告:

アトリエ銭湯さん、トゥールーズでサイン会を開く。立っている人はたぶん出版社の人。(一石二鳥出版という名前!)

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アトリエ銭湯さんからお礼のことばをもらいました。嬉しい!

「どうもありがとうございます。

日本語のブログで鬼火に関する大きい記事があってとても嬉しいです。」

↓この記事のことです。

浸透し深化する日本のサブカルチャー-3- 妖怪を愛するフランス人&水木しげる - 

今見てきたらFacebookのシェアが65となっていて驚きました。アナリティクスで調べたらほとんどがフランスでした(笑)。

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中国のことを話そう-2- 山口百恵からシェア自転車まで 追記:2018年9月 放置自転車

 前回 中国のことを話そう -1- -に引き続き中国について、思い出やら最近のニュースで印象に残ったことなど書いています。 

1980年代は蜜月

蜜月とあえていうのも、日本と中国がもっとも波風の立たない時代だった、それも中国からの熱い憧れによって。

中国で人気のある日本人といえば、最近のサブカルチャーはまずおいて、卓球の愛ちゃん、フィギュアスケートの羽生選手などを別にすれば、高倉健さんが筆頭に挙げられるだろう。ドラマの『おしん』も人気だったが、でも山口百恵にはかなわないかも。40歳以上の中国人で知らない人は恐らくいないと思う。

1980年代に入り、日本の文化が紹介されるようになると、山口百恵はいっぺんに中国人の心をつかんだ。社会現象にもなったTVドラマ赤い疑惑』*(中国では『血疑』1984年に初めてTV放映)である。

テレビがある家に集まって、ぎゅうぎゅう詰めになって見た。その時間帯、外の通りは人が消えた。視聴率は90%くらいだったかな…とかつての学生が話してくれた。ドラマを通して日本の豊かな生活に驚き、また憧憬を抱いたという。山口の顔は大陸の人好みなんだそうで、たいてい悲運な役柄なのも好まれたようである。

*1975-1976年TBS系列で放送された。「赤いシリーズ」第2弾。平均視聴率23.4%、最高30.9%(関東地区)を記録。出演者は宇津井健山口百恵三浦友和ほか。ウィキペディアから

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山口百恵 1973年頃。(出典がわからない。ネットから拾いました)

そのころ仕事で来日した中国人男性が、山口百恵がドラマの中で持っている通学かばんをぜひ買いたい、どこに売っているか教えてくれという。自分の娘は山口のファンでそれを欲しがっているのだと。ところが当時の人民元と円との換算では、カバンひとつが男性の1か月分以上の給与に相当したのである。そんな買い物、理不尽だよね、きっと買わないだろう、と思っていたら、父は愛しい娘のためにカバンを買ってお土産にしたという。昔朝日新聞で読んだ話である。

 文化大革命が終わり、ちょっと落ち着いた80年代初めから中国人留学生がぼつぼつ来るようになった。まずは国費や招聘の留学生、そのあと私費の学生も口コミで増えていった。アルバイトをしながら日本語学校で2年間学び、その後大学などへ進学するという形での滞在が許されたからだ。

「やっと日本に来たのにTVで百恵ちゃんが見られない~!」。山口は1980年には早々と引退し、その同じ年に三浦友和と結婚してしまったのである。

 

 同じく日本人の中国旅行もそのころ解禁に。

私の妹は1983年にツアーで北京・上海はじめ4都市を回った。ツアーには日本人添乗員のほか、必ず中国人ガイドがつく決まりだった。というのも観光地でも横道や路地など入っていけないところ、写真撮影禁止のところがたくさんあって、ガイドは細かく指示を出し、監視もしているようだったと言う。

妹が最も驚いたのは、声をかけてくる一般の市民がたくさんいたこと。そのなかの若い人たちは「日本に学ぼうと思って今 日本語を独習しています」とか、「文通してくれませんか」と日本語で頼んできたという。

人のいい妹は住所を数人に教えたのだが、帰国後がまあ大変!部厚い封書が何通も届き、自己紹介に始まり、自分の志望や夢、日本についての質問などが達筆でつらつらと綴られている。二人分ほど引き受け、返事を書いたが、私はそのころフランスに住んでいて単なる一時帰国だったため、その後数カ月から一年、妹はひとりで奮闘したようである。

80年代の中国人留学生は向学心に燃え、きついアルバイトと勉学を両立させていた。自分も家族も文革で辛酸をなめ、貧乏には耐性があるのだと言っていた。教養人の家庭で育ち、祖父が清朝派遣の日本留学をしたという人たちもいた。そんな気概溢れる、優秀なDNAを受け継いだ「孫」たちと、かたやバブルに浮かれた社会で、勉強もしないでチャラチャラしている日本人学生と、比べるのは無意味というものだろう。

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小留學生 張素 - YouTube

80年代以降に日本に留学した人で、自分の子弟を日本に送ってくる割合はどのくらいか。統計などはわからないが、私が見聞きする限り少ないと思う。子が優秀で文化的にレベルの高い家庭なら英米・欧州へ送るだろう。

写真の張素(ちょう そ)さんは、日本との架け橋となったシンボル的存在だ。→中国からの贈りもの - Wikipedia)

9歳のとき、父親の転勤で来日。父は日本に留学したことがある。張素さんが東京の八王子の小学校で過ごした2年間(1996-1998年)はドキュメンタリになり、日本でも放映されたが、中国では大変な話題になった。

私たちが再び張素さんをメディアを通して見るのは、2008年胡錦涛主席が訪日し、早稲田大学で講演をしたときである。壇上に花束を持ってあらわれたのが21歳になり、中国の名門復旦大学から交換留学で政経学部に学んでいた張素さんだった。

日本でわざわざ働く必要はないのに、コンビニでバイトをしているわけは「親に勧められて」。父は自分の学費・生活費を稼ぐために夜きついバイトをしていたのだが、自分もバイト体験を通してそれに思いをはせることができるのだと。「若い時の苦労は買ってでもしろ」と日本でもいうが、こちらの親御さんはすごいなと頭がさがる。

張素さんは現在、中国新聞社にお勤めのジャーナリストである。

そしてドキュメンタリを撮ったのは張麗玲(ちょうれいれい)さん。1967年生まれ、中国では女優だった。89年に留学生として来日。 東京学芸大学大学院修了後、日本の会社に就職。1995年のある日、フジテレビにやってきてドキュメンタリを撮りたいからカメラを貸してほしいと頼み込む。これをおもしろいと思ったプロデューサーが全面協力することになる。ドキュメンタリは他にも数本あり、私は全部見たがすばらしかった。放映の翌日、山手線の車内で、これについて人が口々に感想を述べあっていたのも思い出される。現在はこちらを運営している→ CCTV大富 ))

 

あれから40年 羨ましいこととそうでもないこと

私は昔10年くらい、バックパッカーの一人旅をしていたが、1976年に北京空港におりたことがある。(ちなみに今年は日中国交正常化45周年ですね。盛り上がらないけど)。

シベリア上空経由が解禁になる前のこと、たいていは南回り欧州ルートを利用していた。なんといっても安い。航空会社も組み合わせて使っていて、西アジアや中東諸国のいろいろな空港に止まり、まるで乗り合いバスさながら、長い時間をかけてヨーロッパ諸国へ向かうのである。

1976年の北京空港は、だだっ広く平らな敷地に、地味な2階建ての建物が遠くにあるだけ。その向こうには林が見えた。航空機も私たちが乗ってきたのと、もう一機があるのみ。車が一台、それはトラックでTOYOTAと書いてあった。他には一台も見えない。そばに一人の男。どう見ても空港関係者には見えず、農民だと思ったが実際はどうだったんだろう。

乗客は皆飛行機から降りて、その地味な空港ビルへ歩いていって、中で2時間くらい時間をつぶすのだ。知らない人が青島ビールをおごってくれた。田舎の飛行場という感じの、のどかな昼下がりが今でも忘れられない。そのあと北京から数人の客を乗せて再び飛び立ったのである。 

さあ、現代に戻ろう。中国のことでは、羨ましいこととそうでないことがある。

特に羨ましくもないことから。

キャッシュレス化が究極まで進み、スマホですべて決済できるらしい。一日に一回も現金に触らず生活できる。だから国外に旅行して最初にすることは財布を買うこと。食事だってレストランからスマホで注文し配達してもらうから、料理も作らない若者が増えているらしい。

このスマホ決済が基盤にあるのでシェアサイクル(貸し自転車)も猛スピードで発展を遂げた。サイクルのシェアなら日本でもある。東京でも、幾つかの区にまたがる利用も可能になって一見便利そうだが、駐輪スタンドが少なく、返すのに不便なせいか、乗っている人はあまり見ない。金額も安くないし、手続きもめんどうくさい。ただし東京は交通が非常に便利なうえ、個人の自転車保有率が高いことも普及しない一因だろう。なんせママチャリ王国だから。 

中国ではスマホひとつで簡単に借りられる。解錠番号がメールで知らされ、駅から職場までとか、広い大学構内の移動などで気軽に使え、日本円で10円とか20円くらいなんだそうだ。使い終わったらあちこちに点在する指定エリアに返す。下に追記:2018年9月

中国の交通運輸部によると、中国全土に配置されたシェア自転車の台数は1600万台に及び、1億6000万人が利用中という。一大ビジネスに成長し、数十社が参入しているらしい。自転車もノーパンクタイヤを採用するなど品質でも競っている。マナーの悪い客の情報を会社同士で共有もし、罰則もあるとか。また車を減らすことにもつながり、環境改善にも大いに役立っているだろう。

そう、あちらではビジネス、日本では自治体の行政がやっている。自転車大国のオランダやベルギー、デンマークやフランスにもシェアサイクルはあり、かなり活用されているようだが、やはり自治体のサービスの一環である。

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写真:ベルギー・アントウェルペン市 2016年1月撮影。写真の右のほう、小さな駐輪場が見える。トラックは市のシェアサイクルを集めているところ。さらに中央駅の地下に巨大な駐輪場がある。

中国は、UberAirbnb(民泊)と同じように、シェアサイクルという新しいビジネスモデルを作ったわけである。作ったのは1980年代生まれの若い人たちを中心にしたグループで、投資家から資金を借りて始めたそうだ。そしてこの事業を世界各国で展開しようと、いや、もう始めているようだ。日本でも福岡や札幌などで展開の予定、という記事を読んだが、その後どうなったのだろうか

 

成熟した国

高まるシェアサイクル事業熱に異議を唱えたのがアムステルダム市である。公道とは何か? 公道をビジネス目的で使うのはおかしいのでは?

今後公道に置かれたシェア自転車は撤去します、とアムステルダム市は10月に発表した。個人所有の自転車はもちろん別だ。駐輪スペースの拡充などは市でさらに努力すると言っている。

そもそもシェアサイクルの目的は何か?自転車を有効に活用するためシェアして、混雑を減らすため。短距離なら車を使わず自転車に替えるという人のため。観光客の町散歩の足となり、快適な旅の手伝いをするため…。ところが中国式のシェアサイクルは、自転車の台数を増やすことに繋がっている。このまま増え続けるのは受け入れられないと警告している。

ついでながら、Airbnb(民泊)に関しても、アムステルダム労働党は「禁止にしたい」という。アムステルダムは観光客が大変多い街だが、Airbnbのせいでトラブルが急増しているという。貸主と客、建物の住人との間でもめ事がたえない。解決のための時間や費用もかさみ、街の印象も損なう。貸主だけが利益を得て、他の住民は迷惑を我慢するのはおかしいではないか。

またアパートを貸し出す人が増えれば近隣同士のコミュニティーも消えかねないという。(住居の一室を貸すのは問題ない)。

さらにAirbnbは外国企業なので、税収は市に入るわけではない。労働党は「Airbnb禁止」を市議会選のマニフェストに入れるということだ。

ちなみにベルリンは昨年「禁止」に踏み切り、違反者は約1300万円の罰金だそうである。かたや我が国は2020年の五輪をにらんで、民泊の全面解禁に向かっている。

この問題に踏み込むのは今日はしませんが、フランスの悲痛の叫びに耳を傾けたい方はこちらをどうぞ。↓

 

www.select-japan.com

 追記:参考までに(12月17日)

airstair.jp

次回は、「中国について羨ましいと思うこと」を書きます。

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写真:アントウェルペン市のシェアサイクル 2016年3月。 

🌸続きはこちら

cenecio.hatenablog.com 

追記:2018年9月

放置自転車問題を朝日新聞朝刊(9月18日)が取り上げている。

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中国のことを話そう -1-

凄まじい勢いで変わる中国

話したいことがいっぱいあります。1976年の北京空港や、「日本って中国じゃないの?」と一切の悪気なく言われた思い出やら…。

その前に、下の「妖怪」エントリを書いたとき、記事末に載せた中国の天津市滨海図書館に対する反響の大きかったこと!皆さんに「近未来!」「クラクラする」と言ってもらえて大満足(笑)。ご覧になっていない方、写真だけでもぜひどうぞ。浸透し深化する日本のサブカルチャー-3- 妖怪を愛するフランス人&水木しげる - 

この建築家はオランダ人3人組で、私は以前からオランダ国内の建築物を見ては感嘆し、注目していました。記事末に作品をひとつ載せておきます。

あの図書館は、現在の中国の勢いを象徴していると思うんですね。以前読んだはんなりマンゴーさまの記事がぱっと頭に浮かびました。4月に上海に出張でいらして数回に分けてレポートなさってました。(ほかにフランス・インドなどの記事も書いていますが、大変興味深いです)

ほら、この写真を思い出したわけです。(お写真、お借りしました)

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mangokyoto/20170418/20170418082548.jpg

hannarimango.hatenablog.com

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マンゴーさんは中国人の同僚たちを観察し、ものの考え方や買い物の仕方などを活写します。現金をもたず、スマートフォンと指1本で、いつでもどこでも何でも買ってしまう中国人。「ステータスシンボルなものを買う」から「私が本当に欲しいものを買う」にシフトしていることや、「愛国心の追い風を受けたブランドも製品の技術刷新が遅れたら途端に勢いを失った」など…。

私が大いに納得したのは「文化大革命」のくだり。すなわち、文化大革命は古来の文化や伝統を消滅させたが、そのことで逆に、足枷でしかなかった因習や固定観念を廃し、過去にこだわることなく、未来志向で突き進むことができること。

若い人は祖父母の貧しい時代や辛苦などさらさら興味がなく、自分たちがこれからどうやって豊かになるか、その一点に集中できること。

そして「数千年の文化因習すら整理の対象と捉えるのは それはそれでスケールがでかい。」とおっしゃる。中国の特徴はまさにこのスケールの大きさでもあります。

私は1980年代後半、中国人に日本語を教えていたことがあり、上海人が多かったのですが、帰国すると家族写真を送ってくれたものです。地理的にはちょうどマンゴーさまのホテルの立つところ、その辺で撮ったスナップを何枚も見ました。水辺にたつ建物は高層でない煉瓦造りで、異国情緒たっぷりの、おしゃれでのどかな都市という感じでした。

ところが今、マンゴーさまが見せてくれる摩天楼群にその面影はほとんどない。別の街です。あれから想像を絶する勢いで成長し、変化し続けている。それは北京・上海のような大都市だけでなく、中小都市にも広がって、天津市の図書館はそのほんの一例なのです。

マンゴーさんは「上海なら海外駐在もありかな」とおっしゃっている。私は上海人はほかのどの都市の人とも違うという印象を持っていました。垢ぬけていて好奇心旺盛、順応性があり社交的。実によくしゃべります。だから言葉もすぐにうまくなります。

昔は中国人学生に日本人の保証人が一人つく決まりでした。うちが保証人になっていた女性は、日本語学校から東京大学大学院にすすみ、帰国後研究者になったし、優秀な人が多かったと思います。

また上海語(ザンヘーオー、と私の耳には聞こえる)話者は北京語・広東語話者に比べて、発音が近似するものが多いのか、日本語の発音が特段にきれいでした。

留学生は90年代初めまではまだ上海・北京から来ていましたが、その後優秀な中国人学生はもう日本には来ないで、奨学金を得て米英およびヨーロッパに留学するようになりました。

同様に90年代前半までは台湾からも多かったのです。ビジネススクールに勤めていたとき、台湾人のきれいな女の子たちが多く、華やかな雰囲気を醸し出していました。

彼女たちに「秘書コースにいるんだから、卒業後は日本企業で働きたいんでしょう?」と聞いてみると「いいえ、親にまず日本へ行ってこいと言われたんです。これはいわば花嫁修業のようなもの」と言う。日本語と幾つかの資格を取得して、台湾で就職してもいいし、結婚してもいい。2年間東京で暮らしておしゃれや美容にも磨きをかける、ということでした。私の記憶の中でも90年代はまだ明るい色の塗り絵です。

現在日本語学校に来ているアジアの人たちは、「アルバイトをしながら勉強できる」という制度を利用しているのです。あくまで一定時間内のアルバイトということになっています。実際は違いますが。これは日本特有のもので、他の国では考えられませんね。不法労働の温床になってしまいますから。

親が学費を出せない人には願ってもないチャンスです。それとは別に、親が日本語学校から大学卒業までの学費を持ち、裕福な親はワンルームマンションを買って与えるケースもあります。一人っ子ですから、親は何でもします。卒業後は日本語が活かせる仕事につきたいと思っているようです。でも中国人はだんだん減ってきており、ベトナムミャンマー人が増えている、と5~6年前に聞きました。最近のことはよく知りません。

今は閉塞感漂う日本。日本の大学には魅力がない、日本から特に学ぶものはない、と考えている外国人も多いようです。

反対に日本人の学生もあまり外に出ていかない。国費留学生試験に学生が集まらない、と大使館員や教授たちが嘆いていました。外国語がネックなのか、意欲がないのか。留学しても一単位もとれずに早々と諦めて帰国するケースも見られます。かたや中国人は猛勉強をして評価も高い。フランスの大学の経済学部修士過程に留学した人が「うちではいつも中国人留学生二人がトップだった。互いにライバル心燃やして勉強していた」と話していました。

日本を知らない 人たち、蛇を食べるかと聞く人たち

2007~08年、ブリュッセルに1年住んで、移民学校でオランダ語を習っていた話は前に書きました。移民難民といっても、自国では教育が高く、戦火や政治的な理由で逃げてきている人もけっこういたのですが、そういう人は世界の地理くらい知っているから問題ありません。でも若い世代で特にムスリムやアフリカ(マグレブ以外の)から来た人たちは日本を知らない。台湾と混同しているならまだいいのですが。

「あなたも蛇、食べるの?」と聞いてきた若い女性は難民ですらなく、モロッコ出身の親のもと、ブリュッセル生まれ育ちのれっきとしたベルギー人でした。

「食べないわよ、それは中国人でしょ。私、日本人だもん」

「日本って中国じゃないの?」

「は・・・」

すると横からコンゴ人のハンサムボーイが

「日本は中国とは別の国だよ」。

「日本」のイメージはなく、アニメもムスリムの女性は見ないので知りません。それに当時は(おそらくヨーロッパ中で)SAMSUNG天下だったんです。なんと液晶テレビのことをSAMSUNG(普通名詞化!)と言うくらいだったし。

ベルギー人と結婚して、新居のため電化製品を買いにいった人の話を聞いたときは耳を疑いました。売り場で展示されているのはほとんどが韓国か中国製。ケータイは100%SAMSUNG

なぜなら日本製品は値段が高すぎて、出しておいても売れないから引っ込めているんだそう。ベルギー人はあらかじめ値段や性能を調べてピンポイントで買いに来るので、日本製品が売れることはまずないんだそうです。確かに我が家(ブリュッセルの家具付きアパート)の備品も全て韓国製でした。

一方で、当時はまちなかで見かけるカメラは圧倒的に日本製でした。会う人会う人しつこくチェックして喜んでいた私。韓国製を提げている人には心の中でダメ出し(笑)。

日本のプレゼンスの低さを教わる

先ほどのコンゴ青年は、母親が国連に勤めていたという人で、ブリュッセルには母親の再婚という形で移民としてやってきた。コンゴにいるときは仕事でアフリカを広く旅行したという人です。この人が私にいろんなことを教えてくれました。

中国人はアフリカに大勢でやってきて、道路を作ったり線路を敷いたり、住民にも仕事をくれたし、農業でも工場でもいろいろな設備を作って残してくれた。だからみんな感謝している。白人と違って上から目線じゃないところがいい。

韓国人はケータイを売る人たちで(笑)、皆きさくですぐ親しくなれる。

日本の企業が来ているのは知っていたけれど、日本人ってまちなかに出てこないのはどうしてだろう。だからいないも同然。(「きっと透明人間なのよ」と私の悲しいジョーク)

また日本企業に勤めるベルギー人が教えてくれたことー ブリュッセル駐在のビジネスマンは日本人サークルで固まっている。ゴルフしたりカラオケに行ったり、食事はすしレストランといったふうに、ベルギー人とほとんど交わることはないのだと。コンサートには一度行ったことがあるけど。せっかくベルギーにいるんだから人脈を広げたり日本ではできないことに挑戦すればいいのにね、お高くとまっているように見える、とのことでした。

ああ、耳が痛いなあと思って、ため息がもれました。

今振り返ると、この頃(2007年)もうとっくに日本は存在感を無くしていたんだなとわかります。取り残されていることに気がついていたんだろうか。リーマンショックのせいでも、東日本大震災のせいでもない。競争に負けたのでもなくて、自分から勝手に滑り落ちて劣化していったんですね。

いや、それとももっと前?1990年代か?それについてはまた次回、展開してみようと思います。

 

衰退するニッポン

こちらは大連に出張でいらしたSPYBOYさまの記事です。

トピックスは幾つかあるのですが、大連旅行記の方は前・後編と読んでもいいと思いました。どちらともすばらしい記事です。

d.hatena.ne.jp

d.hatena.ne.jp

TVのニュースを比較して日本のダメさを感じるところは、私も大きくうなづくところです。中国のテレビはトップニュースに国際情勢をやっているのに対し、日本は来る日も来る日も飽きもせず、相撲の傷害事件ばかりでした。

また働き方では

改めて思ったのは『あちらの人の方が日本人より一生懸命』、ということです。ボクが話を聞いた中国の人たちは仕事は極力 定時で上がって、そのあと勉強しています。大学にMBAを取りに行ったり日本語を勉強したりしている。日本人のようにダラダラ残業したり、ほぼ毎日飲みに行って会社の愚痴をこぼしたりなんてことはしない。もちろん全員じゃありませんが、中国でもベトナムでも、そのように向上心のある人はかなり多い。特に女性はそう。

・・・(略)
ボクが訪問した企業は中国人従業員の約3割が修士卒、6割が日本語を話せます。ついでに管理職は女性ばっかり(笑)。中国企業でも女性が幹部に登用されている例は多いと思います。

日本の衰退って日本人自身がもたらしていると思いました。日本の最大の脅威は北朝鮮でもなければ中国でもない、日本人です。男も女もパワフルで前向きな中国の人と比べると良くわかります。日本人は後ろ向き、内向き、現実を見ないで他人の足を引っ張るばかりです。やらないことの言い訳ばかりで、総理大臣や役人は内向きの嘘ばかりついてごまかそうとする。バカな国民は無関心で現実をみようとしない。少子化や産業構造の変化への乗り遅れを見て見ぬふりをする。

ぜひお読みください。

(読まないと損するよん!)

 

🌸今日の写真

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集合住宅「シロダム」(アムステルダム

海上に浮かぶ巨大客船のような集合住宅。建築家集団 MVRDVの代表的作品のひとつ。

MVRDV (@MVRDV) | Twitter

 

🌸続きです

cenecio.hatenablog.com

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パール・ハーバー 1941 決意なき開戦

なぜ日本は真珠湾を攻撃したのか(”Why did you attack us at Pearl Harbor?”)とニューヨークの高校でクラスメートから質問を受けた女子生徒は、東京から編入したばかりで英語も拙く、とっさのことで返答ができなかった。いや、日本語でも難しかっただろうと述懐する。彼女はのちに真摯に歴史研究に励み、アメリカ人向けに、真珠湾までの8カ月を日本側から説明しようと1冊の本を執筆する。堀田江理さんである。

f:id:cenecio:20171206140248p:plainEri Hotta | Penguin Random House Canada

堀田 江理(ほった・えり)  東京出身。

1994年、米プリンストン大学歴史学部卒業。2000年に英オックスフォード大学より国際関係修士号(M.Phil.)、2003年に同博士号(D.Phil.)を取得。

4年間オックスフォード大学で教鞭をとった後、政策研究大学院大学イスラエル国ヘブライ大学などで研究、執筆活動を継続。

このほか著書に、アジア主義思想と近代日本の対外政策決定過程に迫るPan-Asianism and Japan's War 1941-1945がある。

人文書院の著者紹介より)

2013年に英語版が出るとニューヨークタイムズ紙などで称賛され、2016年に自身で邦訳した『1941 決意なき開戦: 現代日本の起源 』が出版された。 

英語版が刊行されてすぐ、作家のフィリップ・ロスから手紙がきたという。「真珠湾攻撃のとき8歳だった。80歳でこの本を読み、やっと開戦の経緯を理解できた」と書かれていたそうである。昨年、第28回アジア・太平洋賞特別賞を受賞した。

日本版・英語版はこちら。

1941 決意なき開戦: 現代日本の起源

1941 決意なき開戦: 現代日本の起源

 
Japan 1941: Countdown to Infamy

Japan 1941: Countdown to Infamy

 

 私も知りたかったことである。なぜ勝ち目がないとわかっていながら、「清水の舞台から飛び降りる」気持ちで、こんな愚かな戦争を始めてしまったのか…その代償のなんと大きいことか。なのに、開戦の責任の所在もわからないとは。さらに70年以上を経ても何も学んでいないように見えるのはなぜなんだろう。

 パール・ハーバー

パール・ハーバー」はアメリカ人にとって、象徴的・愛国的シンボルであり、卑怯な「だまし討ち」をする日本に対して、正義の戦争で力を見せつけ、さらにヨーロッパ戦線への参入のきっかけにもなった歴史の岐路でもある。

ルーズベルトは演説のなかで、"a date which will live in infamy"(「不名誉に汚された日」堀田訳。または「屈辱の日」「恥辱の日」)と呼んでいる。

話が逸れて申し訳ないが、「 パール・ハーバー」は「カミカゼ」同様フランス語でも使われているのは興味深い。2009年に、小学館集英社がフランスのマンガ出版社を買収してフランス市場に上陸し、自分らの子会社を作ったとき、そのやり方を非難する人が「マンガ界のパールハーバーだ!」と言ったのを思い出す。

その特別な地を昨年、パールハーバー75周年に安倍首相が訪問した。その前にオバマ大統領が広島を訪問して、戦争の始まりと終わりの象徴的な場所を日米のトップが訪ね合うという、画期的な年でもあった。

11月くらいから過去記事にアクセスが多い。

cenecio.hatenablog.com

学校の授業の関連で調べているんだろうか。そうだったらぜひとも堀田さんのをお読みなさいと薦めたい。

堀田さんは何年もかけて日本とアメリカの膨大な一次資料、二次資料にあたり、開戦までの道筋を丹念に調べあげているが、そこに永井荷風など文化人の反応や日記、『昭和天皇独白録』の証言なども織り交ぜて、複層的な厚みを持たせ、カウントダウンまでを描き出している。

また兵士の手記で大変印象的なものに、ネットでしか読めない潮津吉次郎氏の『日中戦争・第2次大戦従軍記』日中戦争・第2次大戦従軍記がある。84歳で亡くなったとき、家族がその「自分史」を発見し、長女が公開を決意したという。堀田さんはこの貴重な一兵士の率直な証言を何度も引用している。

避けられた戦争

捨て鉢の戦争を始めたわけ、それは日本の軍部が暴走したのでも、ルーズベルトチャーチルの陰謀でも、対日石油禁輸で自暴自棄になったのでもなかった。一部の真実はあるにしても、日本は独裁国家ではないので、政策決定の様々な会議や御前会議を通して合法的に決定されたのである。

そしてまさにここが問題なのだ。政府(指導者らの意見の違い)や軍(中でも陸海軍の対立)や皇居…といったあちこちの組織にまたがり、腹の探り合いの複雑でややこしいプロセスがまずある。さらにアメリカ(ルーズベルト、駐米大使ら戦争回避にに奔走する人たち、最後にハル・ノート)との交渉が絡むわけである。

戦争を回避するチャンスは幾度もあった。それらをことごとく逃した。例えばドイツがソ連に侵攻したときは枢軸から抜けるチャンスだったのに。それどころかインドシナへ進駐してしまった。そうして「あたかも円錐形の漏斗の狭いほうの先に、自ら進んで入っていって、ひっかかり、後戻りできないような状況」を作り出していったのだ。

ほとんどの指導者は、帰属組織への忠誠心や個人的な事情から、表立った衝突を避ける傾向にあったことは間違いない。遠回りの発言をすることが、常習的に行われていた。特に軍関係の指導者の多くは、当然のことながら、まわりから弱腰と思われるのを何としてでも避けたいと願っていた。そのため、心の内にいかなる疑問を抱いていたとしても戦争回避を訴えることはしなかった。だから同じ人間が、時、場所、場合によって、開戦派にも避戦派にもなり得るのだった。…(p23)

総力戦研究所というのは初めて知ったことだ。これはイギリスの国防大学( Imperial Defence College) をモデルにして作られた研究機関で、平均年齢33歳、各省で10年専門的なキャリアを積んだ、しかもトップのみを集めた超エリート集団だという。

彼らは様々なデータを検討し、外交的、戦略的場面を慎重に研究した結果、ゆるぎない結論にたどり着いた。すなわちアメリカと戦争をすれば「必ず」負けるという結論。「戦争の勃発当初に、日本が優位に立つことは考えられるが、その場合は長期戦に持ち込まれ、資源は細り、やがて底をつくだろう」

しかし東條陸相は、こう言い放った。日露戦争でもわが国は勝てるとは思わなかったが勝った。戦というものは計画通りにいかないものだ。君たちのは机上の空論だ。

そんな東條だが、実際は開戦前になんとか戦争を回避しようとしていたこともわかっている。

本書を読んで私が思うのは、近衛文麿はもっとも責められるべき指導者のひとりであるということ。リーダーシップのなさ、八方美人という点で。やんごとない血筋で国民に人気があったが、戦争に突き進む3年もの間、首相として無能で責任は重い。

(近衛は)政策が決められる議論の場で、自分の意見をはっきりと述べず、自身の手を汚すことを極端に嫌い、事なかれ主義に走り、対立を避け続けた成れの果てが、外交交渉と開戦準備の期限付きの同時進行だった。

最後には、日米首脳会談で何もかもがうまく行くという幻想にすがりつきながら、自覚なしに崖っぷちに国を誘導してきたが、ハッと正気に戻ると、その進行を止める大仕事を任されるのはまっぴらごめんとばかりに、すり抜けて逃げることになった。(p277)

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/47/Nomura_and_Kurusu_27_November_1941.jpg

写真:ホワイトハウスルーズベルト大統領との会談を終えて記者団と会見する来栖・野村(左の人)両大使(1941年11月27日)

来栖三郎 (外交官) - Wikipedia 野村吉三郎 - Wikipedia

真珠湾攻撃の日までアメリカとの交渉に孤軍奮闘し、戦争回避しようとした二人だったが、実はこの写真の前日11月26日が和戦の岐路だったことを、二人は1942年になって初めて知り、軍や政府から騙されていたことを理解する。

一億総懺悔(ざんげ)すれば誰も悪くない?

戦争に負けると、東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや ・なるひこおう)が首相に任命され、戦争は政府の失策だけでなく、国民にも責任があるという演説を行うのである。国民全体が反省し、懺悔しなくてはならない。ということは、ほぼ「誰も悪くなかった」と主張するに等しいと著者は言う。そうやって開戦決定責任は、一億の国民によって、薄められたのだと。 

最後に、今日のエントリはここだけ読んでもらったらいいと思っている。私たち日本人がパールハーバーを思い出す意味は、この堀田さんのあとがきのこの部分にあるのではないか。引用してみよう。

1941年開戦前夜における政策決定にまつわる諸問題は、我々にとって他人事ではなく、敗戦を経ても克服することのできなかった、この国が継承し続ける負の遺産だとも言えるだろう。そのことは、ごく最近では、福島原発事故や新国立競技場建設問題までに至る道のり、及びその事後処理における一連の経緯が、明確にしている。より多くの人々に影響を及ぼす決断を下す立場の指導層で、当事者意識や責任意識が著しく欠如する様相は、あまりにも、75年以上前のそれと酷似している。

 しかし忘れてはならないのは、現代に生きる日本人には、信条にしろ表現にしろ、比べ物にならないほどの自由が許されている点だ。…(略)

「一億総懺悔」ならぬ「一億総活躍」といった標語に踊らされず、その突き詰めたところに潜む危険性、ならびに可能性を十分に理解した上でのみ、様々な、時には大きく対立する意見やイニシアチブがオープンに検討、尊重され、より多くの人々が活躍できる社会が訪れるのではないだろうか。

 

パール・ハーバー1941決意なき開戦 ここまで。 

写真:ルーズベルト大統領。タイム誌が選ぶこの年(1941年)の顔でした。

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  Franklin Delano Roosevelt outside of his home in Hyde Park, NY in the mid 1930s. FPG/Archive Photos/Getty Images

 

追記:12月9日

美しくも力強いことばで、季節や自分の思いを、鮮やかに切り取るURURUNDOさまです。こちら。

ururundo.hatenablog.com

追記:

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twitter.com

追記:「ルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を事前に知っていた」というのはデマです。

www.afpbb.com

浸透し深化する日本のサブカルチャー-3- 妖怪を愛するフランス人の漫画『鬼火』&水木しげる追悼 追記:

みなさん、こんにちは。

これまで扱ってきたヨーロッパにおける日本のアニメ・漫画関連から、今日はちょっと趣向をかえてみようと思います。

こちらです。

ナニコレ?と思うポスターですね。パリの街かどで見かけたらビックリするでしょう。

https://pbs.twimg.com/media/DPPsaUyVwAAZSy4.jpg:large

Fushigi ! - Théâtre de Nesle - petite salle | BilletReduc.com

これはパリで上演中の、ネスレ劇場の芝居(Théâtre de Nesle, Paris)で、タイトルが”FUSHIGI!”です。ご覧のように宮崎駿作品からインスピレーションを得ており、オマージュでもあるんです。

歩く城や自分の名前を忘れた川、少女とモンスターなど…いろいろなものが登場します。日本人だったら皆うなずいてにっこりするんじゃないでしょうか。

フランスの演劇人は宮崎アニメのキャラクターたちを自分の中に取り込んでから、オリジナルな夢幻の世界で表出し、しかも毎回アドリブで演じているようです。刺激的ですね。パリにいたら行ってみたかったのに…。

 

妖怪探し

そう、トトロや千と千尋もののけ姫など、日本は精霊や妖怪の国でもあります。

日本人は子どものころから妖怪やオバケの話に慣れ親しんで育ちます。水木しげるの影響は計り知れないし、私の子ども時代は『妖怪人間ベム』も人気でした。現代だって『妖怪ウォッチ』などがあります。

もし同じようなフランス人がいたらやはり驚きますよね。

こちらのフランス人コンビが出版した本がおもしろいんです。(*急いでお断りします。「本」でも「漫画」でもなくヨーロッパの正統的なBD(ベーデーと読む)を踏襲しています)

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(写真下が本体で、上が掛かっていたカバー。前頁カラー刷り。帯の写真も下の方に載せています。)

 

『鬼火 フランス人ふたり組の日本妖怪紀行』 

カバーの折り返しにはこのように書かれています。

日本の精霊たち、狐やタヌキ、その他の妖怪たちは、田舎の道ばたや神社の影に隠れ、道に迷った旅人をいたずらしてやろうと待ちかまえている。

新潟の日本海の近くに住むことになったセシルとオリヴィエは、

そんな妖怪たちをフィルムに焼きつけるという、ちょっと変わった中古カメラを買う。

2人は妖怪たちの姿を写真に撮ろうと追いかけるうちに、この世とあの世を行き来するもうひとつの日本の姿を描いていく。

鬼火  フランス人ふたり組の日本妖怪紀行

鬼火 フランス人ふたり組の日本妖怪紀行

 

 セシルの方は2010年に新潟大学に留学したので、日本語は堪能。留学先に地味な地方都市を選んでいるところにまず好感を持つんですが、セシルいわく、水田やひなびた神社、森、路傍のお地蔵さん、昔の生活様式などが好きなんだそうです。

その留学生活の滞在中に親しく付き合った新潟の人たちや店などが実名で登場します。しかし本書で下敷きになっているのは2014年秋の来日のエピソードだそうで、フランスに戻ると本にまとめ、出版。するとこれが口コミで国内外に広まり、好評を博し、ついに日本へ。新潟大学でフランス語を教えている女性が翻訳した。そういういきさつです。

セシルのパートナー、オリヴィエも絵を描き、二人でアトリエ銭湯ATELIER SENTOという制作ユニットを結成しています。またこの本を出したフランスの出版社の名前もおかしくて思わず吹きました。 "Éditions Issekinicho"(一石二鳥出版)Éditions Issekinicho - Beaux livres sur le Japon 

楽しそうでいいですね。

これが表紙にかかっていた帯です。帯の表

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帯の裏側

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さて初めに絵を見た時「おや、巴水じゃん」と思いました。朝日新聞が毎月届けてくれる額絵シリーズ「川瀬巴水~こころの風景~」をいつも見ているので、すぐに連想してしまいました。柔らかい郷愁を誘うようなタッチの絵です。

ほらね、と本を開いてお見せしたいところですが、著作権(本日よんばばさまの記事!)に引っかかるようなので控えます。ただ話を進める都合上、このページだけ写真を撮らせてもらいます。

この「妖怪カメラ」!

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 お話は新潟県猿和田(さるわだ)という小さな集落から始まります。古道具屋の店主が中古のポラロイドカメラを勧めるのですが、「坊さんが磨いたレンズが付いてるんだ。バケモンが撮れる」そう言って、フィルム付き1万円で売ろうとします。セシルはおもしろいと思ってそれを買いとります。フィルムといっても撮れるのは8枚きりです。

その後、内野の鳥居参道でキツネを撮ったり、魔法の森で妖怪を探したり、遠くに不思議な灯篭祭りを見たりしながら、住民たちと触れ合って旅は進んでいきます。

こんな辛辣なくだりも。土地の男性が言います。

原発ってのは青白い光を出すそうだね。鬼火とかね、こういう狐火はお化けが出る前ぶれだよ…不吉な明かりでね。すれ違った人の魂を吸い込むんだ…昔からいる怪物にかえて、新しい怪物を作り出したんだな、われわれは。

その後、不気味な弥彦神社や、豪商の館で有名な旧齋藤家別邸なども訪ね、土地の人からいろいろな話を聞かせてもらいました。旅の終わりには新潟県を離れ、恐山まで足を伸ばすのです。

特に筋があるわけではありませんが、私たち日本人が慣れで見過ごしてしまいがちなものが丁寧に描かれてハッとします。また子どものころ怖かった思い出が蘇ってきます。ああ、闇が怖かった。きっと妖怪もお化けもあちこちにいたんだろうけど、見ないようにしていたなあ。河童は会ってみたかったけれど、雪女はごめんだな…。

 

さて、二人は妖怪の写真を撮れたのでしょうか。興味のあるかたはご自身でどうぞ確かめてください。

ちなみに8枚撮りのうち7枚は確かにセシルが撮ったものですが、8枚目は「その場所には見覚えがない」とセシルが言う、場所・日付とも不明の写真でした。そこでお話は終わっています。

ですが、その8枚目、私には一目でどこだかわかりました。横チンさま、たまうきさまもわかります。私たちがしょっちゅうフラフラしているところです(笑)。

 

セシルとオリヴィエ

https://www.babelio.com/users/AVT_Atelier-Sento_3255.jpg

Atelier Sento - Babelio

 

水木しげるのこと 明日は命日

先ほどのカメラで水木しげるの妖怪写真館を連想する人もいらっしゃるのでしょうね。

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ちなみにAMAZONでは:水木しげるの妖怪写真館 NPCネオジオポケットSNK出品者からお求めいただけます。中古品の出品:¥ 12,220より

妖怪ウォッチ」の元祖ともいうべき優れものゲームだそうです。私はアトリエ銭湯さんに教えてもらって初めて知ったのですが、皆さんはご存知でしたか。

水木しげるはフランスでも人気で20冊以上は翻訳されています。Shigeru Mizuki : tous les livres | fnac

ちょうど私たちがベルギーに住んでいた2007年に、フランスで栄誉ある賞を受賞したのです。のんのんばあとオレ(Non Non Bâ)が第34回アングレーム国際マンガフェスティバル で最優秀コミック賞に輝きました。日本人がこの賞をもらうのは初めてのことでした。それでベルギーやフランスの書店には水木しげるコーナーが設けられ、人々が興味深そうに立ち読みしていたのを覚えています。

2年前に亡くなった時は、フランスの新聞各紙が訃報を載せていました。下はリベラシオン紙です。明日11月30日は命日です。

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              〔妖怪関係はここまで〕

個人メモ:

 まりまどさんTwitter

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  新・たま屋 @shigerumania さん Twitter

 

中国の図書館!

https://static.boredpanda.com/blog/wp-content/uploads/2017/11/tianjin-binhai-library-china-mvrdv-15-5a094a23e9cb8__880.jpg

https://www.boredpanda.com/tianjin-binhai-library-china-mvrdv/

天津市海図書館

文字通り息をのむ(Take Your Breath Away)し、クラクラめまいがするような近未来型図書館です。天津市浜海新区に建てられた5階建て、34000㎡の建物で、蔵書数120万冊。中国の勢いを感じますね。

設計はMVRDVMVRDV - HOMEオランダの建築家3人のグループで、新作が出るたびに話題になります。上記サイト内に写真多数。

https://static.boredpanda.com/blog/wp-content/uploads/2017/11/tianjin-binhai-library-china-mvrdv-5a095f15bc0b1__880.jpg

終わります。

 

🌸浸透する~シリーズ①②

cenecio.hatenablog.com

cenecio.hatenablog.com

追記:2018年2月8日

朝日新聞にも大きく紹介されている。

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www.asahi.com

追記:2018年2月13日

セシルさん、アンスティチュ・フランセ東京にお出まし~!

http://www.institutfrancais.jp/tokyo/files/2018/02/ONIBI-JP-300x206.png

「幽霊と妖怪」バンド・デシネ『鬼火』の作家、セシル・ブランのトークショー

2月22日(木)18時30分~20時30分 アンスティチュ・フランセ東京 メディアテーク

料金: 無料 (要予約) 予約、お問合せ: 03-5206-2560

 

追記:2018年3月30日

日本で漫画賞を受賞し、帰国したらセシルさんを待っていたのはTVカメラ!!

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浸透する日本アニメ-2- 懐古派から若い世代のファンまで (マジンガーZ ・セーラームーンほか) 

お天気でよかったな

こちら東京ではよいお天気が続きます。

お天気でよかったなと書いたのは、昨日銀座では戸外でこの世界の片隅にが上映されたからなんです。企画したのは#ねぶくろシネマ hashtag on Twitter寝袋シネマさん。大都会のど真ん中で戸外の映画上映というのは凄いですね。その東銀座の空き地にはいずれホテルが建つのだそうです。

車の行きかう音や人の話し声も聞こえる銀座の一角、そして11月の寒空の下、そんな特別な場所で映画を見た人たち、子どもたちにとってかけがえのない思い出になるでしょう。

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「この世界の片隅に」を銀座で野外上映、入場無料 - 映画ナタリー

 昔は、特に田舎などでは野外で映画を見た時代がありました。私もフランスでなら野外上映を見たことがあります。もっとも印象に残っているのは、1984年パリのポンピドゥーセンター前広場で、黒澤明『乱』を見たことです。あの熱気、今でも思い出します。

 

㊗1周年『この世界の片隅に』ロングランで上映中

その映画『この世界の片隅に』ですが、思えば遠くまで来たものです。数多い受賞と絶賛のなかで1周年を迎えられるとは、監督はじめ映画スタッフと原作者こうのさんにとって、また多くのファンにとってどんなにか感慨深いことでしょう。

私は最初に漫画を読んでおり、映画は封切り4日目に池袋へ見にいきました。お客さんは50人くらいだったでしょうか。娘に聞いてみると「ううん、40人くらいだった」というので、よし宣伝しなくちゃと思って1年前に記事を書きました。

片渕監督がご自身のTwitterで紹介してくださり、以来1万近いアクセスがありました。また映画関係者(?)の方からブログにコメントまで頂きました。

現在フランスでも上映中です。映画.comさんhttp://eiga.com/news/20171104/5/によると

大掛かりな披露試写をもうけて、鳴り物入りで公開した「君の名は。」とは明らかに規模も異なり、こちらがフランス全土で約120スクリーンの展開で、1カ月で25万人を超える動員を集めたのに引き換え「この世界~」は68館で、1カ月を超えた現状で動員約4万人。

それでもこの規模で2時間5分のアニメ作品としては大健闘…

ということです。大手新聞の批評を読んでも大変高い評価です。こうした映画は口コミでじわじわと広がっていくのだと思います。

翻訳されたこうの 史代さんの作品。

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KANA出版(ブリュッセルに本社があるフランス語の出版社)から、今のところ6冊出ています。

 

劇場版『マジンガーZ INFINITY』(Mazinger Z Infinity)

フランスでは、日本での公開より2か月も早く上映となりました。

私のブログではもうお馴染みのFallaix氏のツイート。ポスターを日仏並べてみています。

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また「グッズがもらえるのは どこそこの映画館の初回のみ」と親切に教えてくれています。

私はマジンガーZなどロボットアニメは見たことがないんですが、フランスとイタリアに「UFOロボ グレンダイザー」の熱狂的なファンがいるのは昔からよく知っています。ちょっと頭おかしいんじゃないの、と思うほど入れあげていました。フランスで視聴率100%だった日本アニメ・永井豪 追記:2017マジンガーZ&嶋星光壱 - 

先日『YOUは何しに日本へ?』(テレビ東京)という番組を見ていたら、イタリア人でマジンガーZ大好きな男性が出ていました。この人はなんでも特殊撮影を使った映画などを作る会社にお勤めとかで、視覚効果分野の専門家といっていいのかな、語らせれば滔々と熱き思いを語ります。そして日本へ来た目的はマジンガーZのフィギュアを購入することであり、中野の店でやっと手に入れると、子どもにもどったようなピカピカの笑顔で喜びを表していました。

かつてTVのロボットアニメに夢中だったフランスの少年たちは今はもう50代です。あの頃を懐かしみつつ、新作を見に行くのだろうなと思っていましたが、実際は子連れも多く、また若い世代のファンも増えているようです。

映画封切り前から、つまり10月の「ローマ国際映画祭」の招待作品に選ばれたあたりから大変な話題になっており、私は永井豪さんがどれほど人気があるかを改めて知らされました。興味のあるかたこちら、詳しいです。↓

『劇場版 マジンガーZ /INFINITY』ローマ国際映画祭でワールドプレミア | 映画情報どっとこむ

 

また今日はわっと (id:watto) さまがロボットアニメに関連した楽しい記事をかいてらっしゃいます。こちら↓ ぜひ!

www.watto.nagoya

 

男には頼らない女子戦隊

女性が懐古するアニメはたくさんあるんですが、やはりドロテクラブ世代(Club Doで日本アニメに触れたフランス人1980年代生まれの人)ではセーラームーンでしょう。現在30代の人たちが中心だと思います。働いているから今ならグッズやコンサートのチケットも買える。

f:id:cenecio:20171126162121p:plainパリ地下鉄通路

というわけで、昨日の「セーラームーンシンフォニー・コンサート(sailormoonSymphony)が盛り上がったらしいので、ちょっと書いておきます。

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石田 燿子(いしだ ようこ)が来て、セーラームーンオリジナル曲を2曲歌ってくれるよ」とFallaix氏はつぶやいています。2つの曲とはムーンライト伝説(ごめんね素直じゃなくて♪)と乙女のポリシー/好きと言って」です。

フランスでは日本のいわゆる原曲は使わず、子どもむけに作った、幾分幼稚な感じの歌を、当時人気の歌手に歌わせていたのです。


Sailor Moon : le générique de Bernard Minet (Clip officiel)

これはこれで私もすっかり覚えて気にいっているし、フランス人は懐メロとして全員で合唱します。しかし当時でも、絶対オリジナル曲がいいと思うファンはちゃんと入手していたようです。

コンサートですが、今朝Twitterでフランス人の反応を見たら、すごくよかったという人と、「効果音が入ってなくて残念」という意見に割れていました。またコンサートを録音していた違反者もいたらしい(笑)。

 私がフランスの翻訳版で感心するのは、現在は知らないんですが、造本が丁寧で印刷が美しいことです。日本よりはるかに勝ります。

セーラームーン第一話、表紙をめくったところ。

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見開きにもカラーの絵を入れています。BD(フランス・ベルギーのマンガ)ほどではないですが、表紙も厚くて、本は大切に読むものだということを教えてくれます。

さてセーラームーンの人気の秘密は、絵が可愛いことや変身ポーズ・決め台詞がカッコいいこと、コミカルだが社会問題も扱いつつ、ストーリーもよくできている…などありますが、なんといってもヒロインが自立しているというところではないでしょうか。それまでの戦隊ものは女子は脇役でお飾り程度。セーラームーンでは逆に出てくる男性のほうが花を添える感じで、あくまでセーラー戦士たちは互いに助け合いながら自分たちで敵を倒します。

以前フィギュアスケート関連の有名ブロガー(北米の人)さんの記事を気にいって読んでいましたが、その人がクリスマス休みにぜひしたいこと、というのを幾つか挙げていたんです。その中に「暖炉の前に座ってセーラームーン全巻を一気読みすること」というのがありました。普段のまじめな分析記事とマンガとのギャップに驚きました。

でもセーラームーンと一緒だった、楽しくて幸せな少女時代にもういっぺん戻ってみたかったんでしょうね。

今日はここまで。また続きを書きます。

 

🌸 浸透するシリーズ -2-

cenecio.hatenablog.com

 

海外でも待ち望む『はいからさんが通る』大正浪漫へのノスタルジー?

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 ↑東京メトロ「SFメトロカード」です。めちゃくちゃ可愛い 紅緒(べにお)ちゃん

 『花子とアン』(NHK2014年)のヒット以来、じわじわと来てる~!

何がって?もちろん大正時代ですよ。「袴女子」という言葉があるそうです。卒業式の袴はすっかりおなじみですが。

一見華やかそうで、自由な気風の文化事象がまず頭に浮かぶ大正時代ですが、実は激動の時代でもあり、そのまま突き進んで昭和の戦争時代につながるわけです。そんな時代の東京を舞台に繰り広げられるラブコメデイ『はいからさんが通る』ー 今日のテーマです。

いやラブコメというより、歴史的諸事件(米騒動、恐慌、ロシア革命やシベリア出兵、思想統制など)や関東大震災が絡んでくるので、大河ラブドラマとでも呼びましょうか。といってもギャグ満載の、笑いに溢れた、ちょっぴりしんとして泣かせるメロドラマでもあります。

ところで「大正浪漫」の「浪漫」という当て字は夏目漱石によって付けられた(wiki)そうですね。

 

劇場版アニメ、行ってきました。

こちら見てください。11月11日の朝日新聞にはド~ンと一面広告です。

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*絵葉書は劇場でもらったものです。何が当たるかはわかりません。

はいからさんが通る』はまず「週刊少女フレンド」に連載(1975~77年)、一世を風靡した人気漫画となり、第1回講談社漫画賞少女漫画部門を受賞しました。78~79年にはテレビアニメ化され、その後実写映画、TVドラマもつくられるほどの人気ぶり。

今回、連載終了から40周年を記念して、物語の最後までが描かれる完結したアニメ(前編・後編)を、往年のファンはもちろんのこと、新しい世代にも楽しんでもらいたいということです。はいからさんが通るBlu-rayBox(初回仕様版)も発売され、宝塚歌劇はいからさんが通る」のミュージカルもありました。まさにはいからさんイヤーです。

             ↓漫画新装版↓

http://go-dessert.jp/content/files/images/haikarasan/title.jpg

http://go-dessert.jp/haikarasan/

ストーリーはご存じのかたも多いと思うので公式サイトから簡単に紹介します。

主人公は花村 紅緒(べにお)。詳しくはサイトの方で。

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劇場版アニメーション『はいからさんが通る』公式サイト

 

紅緒はフランスではマリー、イタリアではアンヌ

これまでに何度もお話したように、私は子ども時代、漫画やアニメを見て育ちませんでした。それでもチャンスを伺っては家の外で読ませてもらったり、親戚の家のTVでアニメを見たりもしました。見てよい番組『ひょっこりひょうたん島』などもありましたが、お稽古事などで非常に多忙だったため、時間が合わなくてほとんど見られませんでした。

以前Cさんが「漫画を読むとバカになると親に言われて、一切読ませてもらえなかった」という話を書いていらして、私はすぐにでも飛んでいってハイタッチしたい気分になったものです。私よりずっと若い世代なのに驚きです。今だったらスマホを禁止するようなもの?ともあれ友だちと話が合わないから子ども時代は大変です。

そして漫画を読む習慣がないと、大人になっても読まないものです。

それでもフランス時代、子どもと付き合ってアニメなどを見ているうちに、私にも全体像が見えてきました。それもフランスのメディア、つまり雑誌やTVガイド誌を通してなんです。こちらのほうがコンパクトによくわかります。

たとえば番組表に”Marc et Marie”(マルクとマリー)とある。なにこれ?日本っぽいなと思い、解説を読むと『はいからさんが通る』であることがわかりました。日本で名前は聞いたことはあっても見た事はない…(そういうものだらけなんですが)ここはちょっと腰を据えて学ぶべきでしょう。そう思って片っ端からアニメを見てみました。

その際、さきほどの解説やあらすじがどんなに役にたったかわかりません。

ドロテクラブフランスの子どもたちを日本アニメオタクにした番組 「ドロテ・クラブ」Club Dorothée -2-  )ありがとう、です。何もかもここで学びました。ちなみにフランス語でも shôjo manga(少女漫画)とそのまま日本語を使います。

子ども向け番組ではもとの日本の名前を、発音しやすいように変えてしまいます。紅緒はフランスではマリー、イタリアではアンヌとなります。もちろん他の登場人物も全部違う名前です。主題歌もそれぞれの国で新たに作ることは以前書きました。

 

イタリアはフランスと並ぶ日本のサブカルチャー需要大国です。たとえばこのウィキペディア凄い。

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Una ragazza alla moda - Wikipedia

ウィキペディアイタリア語版の写真を載せているなんて。「ハイカラな女の子」というタイトルですね。
EUR 5,50 ↓5.5ユーロ

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/81fHY2ovhCL.jpghttps://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/71Koiv7q1JL.jpg

主題歌レコード(イタリア語)

http://www.lemeleverdi.it/Discografia/Mademoiselle/Copertina.JPG

Le Mele Verdi - Mademoiselle Anne

また「はいから」ということばをどう翻訳するかにも苦心しているようで・・・

各国語一覧です。もっとあるrかもしれませんが。

f:id:cenecio:20171118122423p:plainSmart-san (TV) - Anime News Network

アラビア語にも訳されているのが驚きです。 

*興味のある方、イタリアの主題歌↓↓

www.youtube.com

いかにもカンツォーネっぽくて大好きです。

しかもイタリア人は今回の劇場アニメ化に熱視線を送っています。「驚いた!こんな日が来るなんて思わなかった」と大喜びの様子です。また多くの人が記事を書いています。

ざっと見た中で、よかった記事はこちら。写真もよく選んでいるし、声優についても解説をつけています。下の写真は紅緒の声を担当した早見 沙織さん。この人はすばらしかった!

また伊集院忍の声を担当する宮野真守については、刹那・F・セイエイや松岡凛(『Free!』)の声の人だよ、と書いています。コアなファンですね。

tweens.screenweek.itそう、そして今ならマミーさんのエントリにちょっと参加できるかな。

マミーさんは最後に『はいからさんが通る』を挙げてらっしゃいます。こちら

mamichansan.hatenablog.com

冬星(とうせい)…は~っ、いい名前です。本当にステキな名前が多いですね。

編集長、なかなか痺れる男ですけど、髪はもっと短い方が私はいいな。(←あんたには聞いてないって?失礼しました)

マミーさんの挙げてくれた他の作品もいずれ読んでみますね。(今からでも全然遅くないんだから。うん)

マミーさん、ありがとうございました。

 

原画展にも

原画展「『はいからさんが通る』展 ~大正▽乙女らいふ×大和和紀ワールド!~」

弥生美術館・竹久夢二美術館

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うちの近くにある弥生美術館です。

けっこう凄い企画展ですよ。漫画家・大和和紀のデビュー作から最新作まで、約50年の仕事をみせてくれるという…。もちろん超貴重な『はいからさんが通る』の原画の数々!みなさんため息を漏らしながら興奮気味に見ていました。

それに加えて当時、つまり大正から昭和初期の女学生や職業婦人文化を紹介する展示もあり、資料だけでなく実物の自転車、袴など、まるでタイムスリップしたような気分でした。

矢絣の着物に海老茶色の袴、編み上げ靴…私はこの組み合わせが大好きなんです。が、写真コーナーは違う柄でした。ちょっとがっかり。でも鬼島森吾さんのこと、気にいっているのでOKです(笑)。

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 というわけで今日はここまで。

また次回!

フランドル地方の泥 サッカー日本代表も兵士もヒトラーも苦しめた…

今朝パソコンを開いたら、思わず苦笑!

ハリルジャパンのご一行がフランドル(フランダース地方)で早くも泥にはまっていたからです。下に記事を貼っておきましたが、選手たちを乗せたバスの運転手(フランス人)が道を間違え、右側のタイヤがぬかるみにはまってしまい、アクセルを踏んでも一向に動かない。それでスタッフや選手たちも降りて、後ろからバスを押すも、ついに脱出できなかったという。その後4台の大型ワゴン車に分乗してブリュージュ郊外の宿舎になんとかたどり着いたようです。

先日のブラジル戦は酷いものでしたが、ともあれ次のベルギー戦に向けてリール(フランス)で調整をし、夕方フランスから国境を超えてスタジアム近くの宿舎でリフレッシュしたいところでした。www.hochi.co.jp

記事の最後の文が可笑しかったです。

W杯まで残り7か月。ピッチ上では、迷い道や泥沼にはまる失態は許されない。

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赤いピンが15日、ベルギーとの試合が行われるスタジアム。ブリュージュ旧市街からかなり離れている。☛ヤン・ブレイデルスタディオン - Wikipedia

ちょうど4年前、2013年も日本代表はベルギーと親善試合をしましたね。みなさん覚えていらっしゃいますか。世界ランキング5位のベルギーに3-2で勝ってしまったんです。もうビックリでした。

ベルギーはそれまで予選負けなしで突っ走ってきて、サポーターも含め、大盛り上がり。数日前の新聞に「相手が日本では物足りない」のようなことが書いてあったのも覚えています。

前日の試合の、オランダ✖日本が2-2で引き分けだったとき、「そんなランキングの低い日本にも勝てないのだから、オランダチームの病は相当に深刻だ」とあざ笑うような記事が載りました。ところがベルギー戦、われらが日本代表の3点目が入ったとき、悲鳴や怒号が渦になってスタディアムを揺らしました。監督(当時ウィルモッツ。日韓ワールドカップの時、選手として活躍した)は弁明しました。エデン・アザールをセンターで使ってみたかったのだ、親善試合はいろんなことを試す場じゃないのかと。ベルギー人はこのショックをどう受け止めていいかわからず、翌日からはしばらく反省会と分析が延々と続いたものです。

さて試合は15日です。「泥沼にはまる失態は許されません。」

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(ポピーの日。イギリスでは戦没兵士を追悼するため、ポピーを胸に付ける)

 

フランドル フラン泥(ドロ)

オヤジギャグで失礼しました。

次はフランドルの泥がどんなに恐ろしいか、お話します。

さきほどのフランス人運転手、もしリールで雇った人ならフランドル地方の人なわけで、”泥”の怖さは子どもの頃から身に染みて知っているはずです。

 

前にダンケルクダンケルク 兵士40万人の大撤退作戦・「ダンケルク・スピリット」と負け戦 -1- -の所で書きましたが、フランスとベルギーにまたがるこの地域一帯は沼沢地で、雨が降らなくてもぬかるんでいる土地。だから人々は庭仕事をするときなど、木靴が欠かせません。もちろん現在はほとんどの道が舗装されていて、快適なドライブが楽しめます。でも脇道に逸れたらやはりどろんこ道…。

 

泥で溺死 最も悲惨な戦場のひとつ パッシェンデール

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Passchendaele 100th anniversary: Why was this one of the most brutal battles of the First World War? | The Independent

写真は 死屍血河の戦いだったパッシェンデールという村です。ベルギーとフランスの国境近く(地図、黄色丸)にあり、この名前を聞くとヨーロッパの人はすぐに第一次大戦と結びつけるようです。

そのすぐ西(地図で左横)Ypres(イーペル)は小都市ですが、悲惨な歴史、過去を共有しているためか広島市姉妹都市で友好な関係です。

ちなみにイーペルやダンケルクへはイギリスから修学旅行生が毎年来ます。

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第一次大戦100周年です。2014年からヨーロッパのメディアは「100年前の今日は~の戦い」といった記事を日々載せているので、 想像力を膨らませて100年前にタイムスリップしてみることもできます。

おととい、ベルギーやイギリスのニュースはパッシェンデール一色でした。1917年11月11日から100年目、つまりパッシェンデールの戦い(=第三次イーペル会戦)が終わった日です。

ちょっとイギリスとベルギー(オランダ語)の新聞の表紙を見てみましょう。両方とも戦没者墓地の写真です。まるで屋外博物館さながらですね。

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https://passchendaele2017.org/en/evenementen/herdenkingsplechtigheid-100-jaar-slag-bij-passendale-op-tyne-cot-cemetery/

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Slag bij Passendale | VRT NWS

BBCによると、最近の調査でわかったことは、この戦いによる死者はこれまで報道されていたより遥かに多く、70万人にものぼるということです。激戦地の一つですが、ここの特徴は文字通り「泥沼」だったことでしょう。兵士も馬も戦車も泥の中に沈みます。その年の8月は大雨でした。砲撃で排水設備も壊されました。砲撃孔に水がたまって池ができる。そこにはまったら溺死してしまいます。なぜなら兵士は数十キロの装備を身につけていたからです。

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ウィキペディアに載っている有名な写真) 

 泥の中を這いずり回って溺死・・・ああ、兵士たちの無念さはどれほどだったでしょう。こんなバカバカしい死に方ってあるだろうか。戦争は不条理で無意味で、私の理解を超えています。

連合国軍の目的は何かというと、「パッシェンデールを制圧し、ドイツ軍戦線に突破口を開き、ベルギーの海岸線まで進出、Uボートの活動拠点を占拠する」(wiki)ことでした。しかし「戦略的に重要な地域ではなかった」と指摘する歴史家も多いということです。しかも5カ月と膨大な人命の損失のもとに勝ち取ったかに見えたパッシェンデールも、のちに3日でドイツに奪われてしまうのでした。

泥はヒトラーにとってもトラウマでした。第一次大戦ヒトラーは、バイエルン王国義勇兵として北フランスやフランドル地方の戦いに参加。地域をよく知っていました。

のちに総統になってから「ドイツの戦車がフランドルの泥にはまりこむのは 我慢できない」とエヴァルト・フォン・クライストに言っていたと本で読みました。

泥にはよっぽど凝りていたんでしょう。クライストは電撃戦を成功させた司令官の一人ですね。

 

あと300年 毒ガス弾処理にかかる年月

この地域は戦争で初めて塩素ガスやマスタードガスなどが使われたところです。兵士だけでなく、一般市民も巻き込まれました。イペリット」と呼ばれるマスタードガスは、イーペルの地名から来ています。いまだに1年間で約5000発の不発弾が見つかっていて、廃棄は長いみちのり。それだけでなく今も乾いた泥の中から遺骨が見つかるそうです。

先日、ベルギー沖で発見された第一次大戦Uボートについて書きましたが、第一次大戦が遠い出来事のように思えず、不思議な気がします。

 

最後に毒ガスマスクの写真をいろいろ。

http://www.wereldoorlog1418.nl/notendop/Duitse%20mitrailleurgroep%20voor%20Verdun.jpg

http://www.wereldoorlog1418.nl/gasoorlog/images/muildieren-gasmaskers.jpg

Gifgas - de chemische oorlogvoering in de Eerste Wereldoorlog

馬もラバも。写真にはありませんが他に犬はもちろん羊用もあります。

 

第一次大戦の毒ガス攻撃が悲惨だったので、第二次大戦の始まり、つまりドイツがポーランド侵攻に出るやいなや、イギリスではいち早く国民に毒ガスマスクを配布しました。

以下写真はピンタレスト画像を借りているので出典を入れていません。

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ディズニーがデザインした子供向けマスク。悲しくもシュールです。

今日は終わります。

 

🌸以下個人メモ いろいろな資料

99年前の新聞 大戦の終わり

https://www.les-crises.fr/wp-content/uploads/2016/11/armistice.jpg

www.youtube.com

twitter.com

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British Army (@BritishArmy) | Twitter 

twitter.com 

🌸「フランダースの野にて」

In Flanders Fields — Wikipédiaフランス語のwikiが詳しくてよい。 

🌸詩の朗読

www.youtube.com

14-18

http://deredactie.be/polopoly_fs/1.2938490!image/4285192178.jpg

deredactie.be  pagadder?

De naam ‘pagadder’ is afgeleid van het Spaanse woord ‘pagadores’. Dit waren de betaalmeesters van de soldij voor de Spanjaarden die in Antwerpen gelegerd waren en die te klein van stuk waren om deel te nemen aan de gevechten. Vandaar de latere bijnaam voor kleine kinderen die nu nog gebruikt wordt: pagadders. Volgens de traditie is een Sinjoor iemand van wie de beide ouders geboren en getogen Antwerpenaren waren. Een pagadder is iemand die in Antwerpen geboren is maar van wie één of beide ouders van buiten de stad kwam(en).

 

Zeppelin-aanval

Op 24 augustus 1914 viel de dood uit de hemel met de eerste Zeppelin-aanval op Antwerpen.

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http://deredactie.be/cm/vrtnieuws/14-18

 

楽しい豆本・楽しい製本

*別ブログの記事を移動させています。というか以前の交流を振り返ったものです。

豆本製本機

ああ、そんなものが手元にあったら私ははまりにはまって、残りの短い人生を潰してしまうだろうから無くてよかったと思うべき?

それにしても、以前たまうきさまが自作のすばらしい豆本製本機をブログに挙げていらして、感心しきりだったんです。その記事はもう消えているんだけど、ピンタレスト画像を借りると、↓こんな感じでした。

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https://www.instagram.com/p/t4GEsziRZs/

するとそのあとに、URURUNDOさまが豆本をブログに挙げていた。世界の名画集、しかも函つきですよ!お友達の作品ですって。

また私の記事のコメントに

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温かいメッセージを下さいました。

また「装釘は栃折久美子」「栃折久美子と言えばルリユール」などという懐かしい言葉がばんばん出てきて一瞬で自分自身の青春時代に飛ばされました。栃折さんの本(*)は、当時はまだ少なかった個人製本をやる人間にとってバイブルのようなものでした。70年代にブリュッセルの国立の製本学校に留学していらっしゃいました。私が2007年に住んでいたイクセルのアパートから徒歩で15分くらいのところなんです。

また直接関係ないけれど、そこの教授が製本したベルギー人の詩人の詩集を、やはり2007年に古書店で買ったことがあります。有名な製本家なので高い値段がついていました。

*『モロッコ革の本』栃折 久美子 (著) 筑摩書房 (1975年)

さて、私が持っている豆本や手帳など、一部お見せしましょう。

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1~4 市販本 革装 旧チェコスロバキア共和国 1970年代

 自分で作ったアドレス帳 1980年

 市販のアドレス帳 表紙は革(夫からのプレゼント)

 自分でつくったメモ帳

 プレゼントにもらった手作り豆本

 

全部ではないですが中をお見せします。

1.英語で書かれたプラハ案内

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2.アポリネール詩集(チェコ語訳)

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.『ルクレツィア』(ウィリアム・シェイクスピアの物語詩)

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.手帳はたくさん作りましたが使ってないものはこれだけ(赤い花布は革です^^) 

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.誕生日にいただいた可愛い豆本です。

ステキなイラストと短い文(おはなし)がついています。グリムやペロー、アンデルセンの童話をちょっとひねってあってクスっと笑えます。

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ついでに、さかんに話題になっているエリック・カールの『はらぺこあおむし』、小さい版を探し出してきました。

愛蔵ミニ版『はらぺこ あおむし(10×13センチ) 

それとお気に入りのマスキングテープです。

鮮やかな色たちの勝利ですね。

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最後に豆本についての新聞記事を貼っておきます。

2008年と2011年の日経の記事です。日経の文化欄は本当におもしろかったです。今はもうとっていませんがお世話になりました。

豆本作りに人生をかける人たちのお話。パソコンで画面を大きくすれば読めると思います。興味のあるかただけどうぞ。

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楽しい製本

ざっと流れがわかります。

写真は自分のものではなく、ピンタレスト画像を借りています。

まずは道具一覧

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出典:Introduction to Bookbinding Supplies and Materials - iBookBinding - Bookbinding Tutorials & Resources 

 

 

おおまかなプロセス

自分で簡易な本や豆本、メモ帳などを作りたい人たちに、役に立ちそうなピンタレスト画像を貼っておきます。質問があれば、受け付けます。→コメント欄

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参考までに革装本の革のいろいろ

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http://blog-imgs-15.fc2.com/i/t/a/itario/0058.jpg革すきナイフ

私のはフランス製。これを使い慣れているので、イギリス式のは抵抗がありますね。

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http://huntingtonblogs.org/wp-content/uploads/2014/05/knives-3_leather-paring.jpg

石の台のうえですきます。薄くして表紙の端を内側にくるみます。私は大理石の台を持っています。

 

今日は終わります。

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ピンタレスト